## 第一部:孤高の行軍、軋む肉体
地平線の彼方まで続く、乾いた街道。
遮るもののない荒野を吹き抜ける風が、真鍮の鎧にまとわりつく砂を巻き上げては、不快な音を立てて去っていく。
オーンスタインは一人、その風に抗うようにして歩みを進めていた。
かつて主(名も無き王)の背を追い、古竜の雲海を翔(かけ)けていた頃の記憶は、今や陽炎(かげろう)のように遠い。
今の彼を支配しているのは、神話的な叙事詩ではなく、あまりに生々しく、卑俗な「肉体の悲鳴」であった。
一歩、足を踏み出すごとに、膝と足首の関節が火を噴くような痛みを訴える。
ソウルという聖なる潤滑油を失い、完全に「生身」へと零(こぼ)れ落ちた彼の筋肉は、数十キロに及ぶ獅子の鎧の重圧に、刻一刻と削り取られていた。
腰に響く鈍い衝撃、肩に食い込む装甲の縁。
強烈な筋肉痛が全身を苛(さいな)み、一呼吸ごとに、肺が焼けるような渇きを覚える。
(……ハァ、ハァ……)
獅子の兜の奥で、途切れ途切れの息を吐く。
かつては数週間の不眠不休の行軍すら、神々の余興に過ぎなかった。
だが今は、道端に転がる石の硬さ、風の冷たさ、太陽の熱。そのすべてが、彼の命を執拗(しつよう)に摩耗させていく。
ふと、視線を落とすと、鎧の隙間で揺れる一枚の金属板が目に入った。
ギルドから授かった、安っぽい「白磁(ポーセリン)」の認識票。
竜狩りの勲章とは程遠い、最底辺の証明。だが、この世界で主を捜し、再び騎士として立ち上がるための「新たな誇り」として、彼はこれを大切に手入れしていた。
空が朱(あけ)に染まり始め、夜の帳(とばり)が荒野を包み込もうとしていた。
オーンスタインは街道を外れ、大きな岩の陰に腰を下ろした。
野営の準備だ。
彼は震える手で、籠手(ガントレット)の締め具を解いた。
一つ、また一つ。
重厚な装甲を剥ぎ取るたびに、縛り付けられていた皮膚が外気に触れ、激痛と共に奇妙な解放感をもたらす。
彼は決して、兜を被ったまま醜態を晒すような真似はしない。
騎士としての規律に基づき、就寝時には適切に鎧を脱ぎ、生身の肉体を休ませる。
それが、明日を生き延びるための唯一の「理(ことわり)」であることを、彼はこの数日で骨の髄まで理解していた。
剥き出しになった生身の体は、あちこちが鎧との摩擦で赤く腫れ、汗が冷えて皮膚を強張らせている。
彼は暗闇の中、油の染みた布を手に取り、月明かりを頼りに真鍮の鎧を磨き始めた。
沈んだ真鍮色へと変色した金獅子の意匠を、一点の曇りもないよう丁寧に、執拗に。
武具を手入れするこの時間、痛みに鞭打って再び鎧を纏う「再起の儀式」だけが、彼を騎士へと繋ぎ止める。
深夜、焚き火の微かな火光を見つめながら、彼は一つの言葉を反芻(はんすう)した。
「……タイ、ヨウ」
救助した少女が教えてくれた、この世界の言葉。
意味は正確には分からずとも、その響きは、かつて神の都を照らしていたあの光の輝きを、彼の魂に思い出させる。
翌朝。
冷え切った大気の中で、オーンスタインは再び「再起の儀式」を執り行う。
休息を経てなお残る、全身を刺すような激痛。
それを、鋼の意志でねじ伏せ、再び一枚ずつ真鍮の皮殻を纏(まと)っていく。
ガシャリ、という冷たい金属の噛み合う音。
獅子の兜を深く被り直した瞬間、そこにはもう、痛みにもがく一人の男はいない。
辺境の荒野に立つ、黄金の死神。
伝説の騎士が、再び大地を蹴り出した。
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## 第二部:龍の伝承、あるいは幻視
街道沿いに現れたのは、石造りの家々が肩を寄せ合う小さな宿場町だった。
夕闇が迫る中、オーンスタインがその門を潜(くぐ)ると、家路を急ぐ村人たちの足が止まった。
沈んだ真鍮色を湛(たた)え、無数の死闘の傷跡を刻んだ金獅子の鎧。そして、背丈を優に超える長大な十字槍。
その異質な威容は、平和な町において、嵐の前の静寂を無理やり引き裂くような衝撃を与えていた。
好奇心と畏怖が入り混じった視線が、彼を射抜く。
だが、オーンスタインはそれらを気にする余力すらなく、一歩一歩、石畳を踏み締めていた。
鎧の重みが、直接筋肉を苛(さいな)む強烈な痛みとなって、彼の神経を逆撫でする。
町の中央にある広場へ辿り着くと、彼は大きな石碑の影に腰を下ろした。
喉は焼けるように渇き、胃袋は空腹に痙攣(けいれん)している。
彼は懐(ふところ)から、大切に手入れされた白磁の認識票を取り出し、その鈍い光を見つめた。
その時。
広場の隅で、一人の語り部が子供たちに話をせがまれているのが聞こえてきた。
「……それはな、遥か北の山嶺(さんれい)に住まう、翼持つ災厄……」
オーンスタインには、その言葉の断片すら理解できない。
だが、語り部が空を指差し、手振りで「巨大な翼」を表現した瞬間。
そして、その口から放たれた、ある特定の響き。
「――リュウ(龍)――」
その「音」が、彼の耳朶(じだ)を叩いた。
オーンスタインの双眸(そうぼう)が、獅子の兜の奥で鋭く光った。
意味は分からずとも、その響きは、かつて神の都の空を埋め尽くしていた、あの不朽の巨躯(きょく)たちを連想させるに十分であった。
彼は反射的に立ち上がり、語り部が指し示した北の空を仰ぎ見た。
――視えた。
雲を裂き、山嶺(さんれい)を過(よぎ)る、一筋の影。
それは主が跨(またが)っていた、四枚の翼を持つ古竜とは似て非なる、二枚の翼と力強い後肢(こうし)を持つ異形の龍であった。
ドクン、と。
彼の心臓が、ひどく暴力的に脈打った。
それは恐怖ではない。
かつて竜を狩るために一生を捧げ、その名さえも「竜狩り」として定義された騎士の、魂の疼(うず)きであった。
刃こぼれした十字槍が、主を求める執念に呼応するように、微かに震えた気がした。
彼は語り部に歩み寄り、無言のまま、北の空を指差した。
黄金の騎士から発せられる、言葉を超えた「狩人」の殺気。
だが、彼が再び歩き出そうとしたその時。
宿場町の入り口から、濁った鐘の音が鳴り響いた。
確実に人々の「明日」を奪う悪意の到来を告げる警笛であった。
オーンスタインは足を止め、十字槍を低く構えた。
騎士の背筋に、冷徹な殲滅(せんめつ)の意志が走り抜けた。
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## 第三部:澱む悪意、組織化された小鬼
鳴り響く警鐘の音。
宿場町の入り口から、黒い奔流(ほんりゅう)が流れ込んでくる。これまでオーンスタインが遭遇してきた、ただ獲物に群がるだけの無秩序な小鬼(ゴブリン)共とは明らかに異なっていた。
粗末ながらも金属の盾を構え、歩調を合わせて進軍する小鬼の一団。
その中心で、一際(ひときわ)巨大な影が吼(ほ)えた。通常の個体の倍はあろうかという巨躯(きょく)に、歪な大剣を担いだ変種――ホブゴブリン。
(……害獣が、列を成すか)
オーンスタインは、獅子の兜の奥で冷徹に敵を射抜いた。
彼は十字槍を低く構え、宿場町の狭い路地へと足を踏み出した。
一歩ごとに、鎧の重みが直接筋肉を苛(さいな)み、強烈な筋肉痛と関節の痛みが全身を駆け抜ける。
「ギギッ……!」
路地の先で、数体の小鬼が盾を並べて突撃してくる。
オーンスタインは槍の穂先を振るうのではなく、その重厚な真鍮の「石突き」を最短距離で突き出した。
凄まじい衝撃。先頭の小鬼の盾が砕け散り、その背後の個体ごと頭蓋(ずがい)を粉砕する。
続けざま、彼は鎧を纏った「自身の質量」そのものをぶつけるように体当たりを放った。
真鍮の鎧を纏った巨躯は、狭い路地において回避不能の最強の鈍器と化していた。
だが、戦いは始まったばかりであった。
腕が重い。膝が笑う。
それでも、彼は止まらない。
「――退け」
ホブゴブリンが咆哮し、大剣を振り上げる。
オーンスタインは、魂の底に残った「残り火」を十字槍の穂先へと一点に集中させた。
バチッ、と青白い火花が散る。
轟!
白光が路地を焼き尽くし、ホブゴブリンとその一団を一瞬にして炭化させる。
しかし、その代償は凄まじかった。
生身の肉体で神の雷を放つ行為は、「全身の血管や神経を引き千切るような猛烈な負荷」を彼にもたらす。
視界が白く明滅し、激しい脱力と眩暈(めまい)が彼を襲った。
「……く、っ……」
小鬼の残党は、黄金の騎士が見せた圧倒的な武威に恐怖し、蜘蛛の子を散らすように闇へと消えていった。
龍の影は、まだ遠い。
痛みは、自分が生きている証だ。
主の背中を追う旅路、その果てに何が待とうとも。
真鍮の騎士は、再び一歩を踏み出す。
その足取りは重く、しかし、かつての黄金の輝きをどこかに宿して。