第一部:険しき登攀、途切れる呼吸
北の山嶺(さんれい)は、生身の肉体となったオーンスタインにとって、神々の試練にも勝る絶望的な壁であった。
切り立った断崖が天を突き、吹き下ろす風は剃刀(かみそり)のように冷たく、真鍮の鎧の隙間を抜けて容赦なく体温を奪っていく。
一歩、足を上げる。それだけの動作に、彼は全身の力を振り絞らねばならなかった。
かつてはソウルという黄金の潤滑油が、彼の四肢を神速の域へと押し上げていた。だが今の肉体は、ただの重い「鉛(なまり)の塊」に過ぎない。
数十キロに及ぶ獅子の鎧の重圧が、直接筋肉を苛み、膝や腰の関節には強烈な筋肉痛や関節の痛みが走る。一歩踏みしめるたびに、骨が軋む不快な音が兜の奥まで響き渡った。
(……ハァ、ハァ……、……く……っ)
肺が焼ける。心臓が胸の内で暴力的かつ無様に脈打っている。
喉は渇きで張り付き、視界の端には疲労による黒い斑点が明滅していた。
それでも、彼は止まらなかった。
懐に忍ばせた、安っぽい白磁の認識票が、歩調に合わせて硬い音を立てる。
かつて授かったどの勲章よりも軽いこの板を、彼は主を捜すための新たな誇りとして、傷だらけの指で大切に撫でた。
日が落ち、凍てつくような夜が山嶺を支配し始めた頃、オーンスタインはようやく平らな岩棚を見つけ、崩れるように膝を突いた。
野営の準備だ。
彼は震える手で、真鍮の装甲を一枚ずつ剥ぎ取っていく。
それは今の彼にとって、もっとも過酷で、同時に唯一の救いとなる再起の儀式であった。
籠手(ガントレット)を外し、胸当てを解き、最後に獅子の兜を傍らの十字槍に立てかける。
装甲から解放された生身の体は、鎧との摩擦で赤く腫れ上がり、強烈な筋肉痛と関節の痛みが波のように押し寄せてくる。
彼は暗闇の中、油の染みた布を手に取り、沈んだ真鍮色へと変色した鎧を丁寧に磨き上げた。
磨き上げる。ただ、それだけの行為が、彼を騎士へと繋ぎ止める楔(くさび)となる。
「……タイ、ヨウ」
焚き火の微かな熱に縋(すが)りながら、彼は少女から教わった唯一の言葉を口にした。
タイヨウ。
意味は正確には分からずとも、その音の響きは、かつて神の都を照らしていた光の輝きを、彼の魂に思い出させる。
翌朝。
凍り付いた筋肉が悲鳴を上げる中、オーンスタインは再び痛む体に鞭打ち、一枚ずつ鎧を纏っていく。
ガシャリ、という冷たい金属の噛み合う音。
それは、彼が再び竜狩りとしての仮面を被り、生身の弱さを封じ込めるための合図であった。
黄金(真鍮)の騎士は、再び垂直の壁へと手を掛けた。
指先からは血が滲み、呼吸は絶え絶えになっても、その瞳だけは、かつての黄金の都を照らした太陽と同じ熱を宿していた。
第二部:雲上の隠れ里、伝説の残滓
断崖を穿(うが)つように作られた細い道が、突突として開けた。
雲海を眼下に望む山の中腹、岩肌にへばりつくようにして存在する、石造りの小さな集落。
そこは、過酷な山嶺の頂に住まう龍(ワイバーン)を神の使いとして祀り、慎ましく生きる龍の民の隠れ里であった。
黄金(真鍮)の騎士が姿を現した瞬間、里に張り詰めたような静寂が訪れた。
無数の抉れや傷跡を刻んだ金獅子の鎧。その沈んだ真鍮色は、この地の太陽とは異なる、古い神話の残光を放っているようにも見えた。
村人たちが手にする杖や槍が、一斉にオーンスタインへと向けられる。
オーンスタインには彼らを威圧する余力さえ残っていなかった。
ソウルの加護を失い、生身となった彼の肉体は、連日の登攀(とうはん)によって極限まで摩耗している。
鎧の重みが直接筋肉を苛み、膝や腰の関節には強烈な筋肉痛と関節の痛みが火を噴くように走っていた。
(……ハァ、……ハァ……)
荒い息を吐きながら、彼は倒れ込むのを防ぐように、十字槍を石畳に突き立てた。
その瞬間、村の長老らしき老人が、悲鳴に近い声を上げて膝を突いた。
老人の視線の先にあるのは、オーンスタイン自身ではない。
彼が携える、刃こぼれしながらも常人には扱えぬ重厚さと鋭さを保った竜狩りの十字槍であった。
その独特な十字の意匠は、龍を神聖視し、同時にその脅威を最も知るこの里の民にとって、伝説に語られる龍殺しの得物そのものとして映ったのだ。
村人たちの殺気が、一瞬にして深い畏怖(いふ)へと塗り替えられた。
言葉の通じないオーンスタインに対し、彼らは深々と頭を下げ、祈りのような言葉を唱え始めた。
向けられた視線が、昨夜まで自分を苛んでいた拒絶ではなく、かつてアノール・ロンドの民が彼に向けていた崇敬に近いものであることは、声の響きから察することができた。
若者たちが駆け寄り、水瓶を差し出した。
生身となった肉体が、焼けるような渇きを訴えている。
オーンスタインは兜を脱ぐことこそしなかったが、獅子の顎(あぎと)の隙間から、差し出された水を一気に流し込んだ。
喉を通る冷たさが、朦朧としていた意識を現世へと引き戻す。
続いて差し出された、素朴な乾肉。
それは決して豪華な食事ではなかったが、飢えに痙攣(けいれん)していた彼の胃袋にとっては、神々の宴(うたげ)よりも価値ある命そのものであった。
渇きと飢えが癒やされるにつれ、麻痺していた彼の感覚が、本来の鋭敏さを取り戻していく。
里の穏やかな空気の奥底に、澱(よど)んだ風が混じっていることに、オーンスタインは気づいた。
竜狩りの経験に裏打ちされた追跡術が、空気の揺らぎや、不自然な鳥の沈黙から獲物の接近を告げている。
里の民が神の使いとして祀る龍は、もはや彼らの祈りに応える守護者ではない。
それは狂気に呑まれ、今まさに、この里を蹂躙(じゅうりん)しようとしている暴君であった。
オーンスタインは重い腰を上げ、再び十字槍を握り直した。
全身を苛む関節の痛みは消えてはいないが、戦いへの予感が、彼の魂に新たな火を焚いた。
里の入り口から、雲を切り裂くような、熾烈(しれつ)な咆哮(ほうこう)が轟く。
真鍮の騎士は、畏怖に震える民を背に、ゆっくりと一歩を踏み出した。
第三部:龍を屠る雷、古き血の記憶
里の広場を覆う巨大な影が、陽光を遮った。雲を裂いて舞い降りたのは、二枚の翼と強靭な後肢を持つ異形の龍、ワイバーンであった。狂気に染まったその瞳には、かつて守護した民への慈悲など微塵もなく、ただ飢えた捕食者の本能だけがギラついている。
オーンスタインは十字槍を正中へと構えた。連日の登攀によって苛まれた筋肉と関節は、一歩踏み出すごとに強烈な痛みを脳に直接突き立てる。強烈な筋肉痛と関節の痛みは、彼が神の加護を失った生身の人間である現実を、残酷なまでに知らしめていた。
「……ガァ、アアアアッ!」
龍の咆哮と共に、凄まじい風圧が吹き抜ける。ワイバーンがその巨躯を翻し、鋭い爪を繰り出した。
オーンスタインは回避を選ばない。彼は槍の穂先を振るうのではなく、重厚な真鍮の石突きを最短距離で龍の顎へと叩き込んだ。さらに、回避不能の間合いにおいて、真鍮の鎧を纏った自身の質量そのものを龍の胸元へと叩きつける。
ドン、という重低音。
数トンに及ぶ衝突の衝撃が、龍の巨躯を僅かに浮かせた。鎧に刻まれた無数の傷跡が、この地の龍に騎士の履歴を突きつける。衝撃の余波で関節が軋み、喉の奥から鉄の味が込み上げる。
龍が体勢を立て直し、その顎を開いた。熾烈な炎が放たれようとした瞬間、オーンスタインは魂の底に眠る残り火を呼び覚ました。
(……龍を狩るは、我が役目)
十字槍の穂先が、青白い閃光を纏う。
「――穿て」
咆哮と共に放たれた神罰の雷は、龍の火炎を真っ向から切り裂き、その眉間へと深々と突き刺さった。
その直後、オーンスタインを全身の血管や神経を引き千切るような猛烈な負荷が襲った。視界が白く弾け、激しい脱力と眩暈が彼を支配する。生身の肉体で神の雷を放つ代償は、彼の命を直接削り取るほどに重い。
だが、絶命した龍が砂塵を上げて地に伏した瞬間、不思議なことが起きた。
龍の死体から、一筋の微かな黄金の光が漏れ出したのだ。
それは、かつての都で幾度も目にしたソウルの輝きであった。
光は吸い込まれるようにして、枯渇していたオーンスタインの魂へと流れ込む。
それは僅かな熱に過ぎなかったが、その残響の中に、彼は確かに感じ取った。
かつてアノール・ロンドの空で、あるいは古竜の頂で刃を交えた、あの不朽の古龍に近い血の記憶を。
(……この龍の血、かつての友や敵のそれと、繋がっておられるのか)
その微かなソウルの流入と共に、彼の内側に確かな予感が芽生える。
この世界のどこかに、主(名も無き王)がいる。龍の血が残るこの地ならば、主の背中に辿り着けるはずだ、と。
激しい眩暈に耐えながら、オーンスタインは震える指で懐の白磁の板に触れた。
それは安っぽい板だが、今やこの世界で生き、戦い、主を捜し求めるための、彼にとっての新たな誇りであった。
里の民が歓喜と畏怖の声を上げる中、黄金(真鍮)の騎士は、龍の亡骸の傍らで静かに立ち上がった。
関節の痛みは消えず、息は絶え絶え。
それでも、その瞳には、旅立ちの時よりも遥かに強く、鮮烈な希望の火が灯っていた。