空が、裂けていた。
いや、もはや空と呼ぶべきものではないのかもしれない。そこに広がっていたのは青でも黒でもなく、焼け爛れた肉の断面のように赤黒く脈打つ、世界が裂けた空。
雲などはとうに消し飛び、代わりに奔流となった魔力と炎と雷が、崩壊しつつある世界の悲鳴のように、幾重にも空間へ刻み込まれていた。大地は割れ砕け、山脈は崩れ消え、元は威容を誇っていたかの城壁は巨大な獣に噛み砕かれた玩具のように無残に崩れ落ち炎のなかで転がっている。かつて王都と呼ばれていたその一帯は、もはや都市の形を保ってはいなかった。
燃え落ちた塔、溶けた石畳、黒く煤けた神殿、血に濡れ、泥に沈んだ骸の群れ。人の営みだったものの残骸の上で、今もなお戦いは続いている。
すでに世界は終わっていた。
人と魔物が争い続けた人魔戦争、その最終盤。
二年半続いた殺し合いの果てに訪れたのは、どちらか一方の勝利というにはあまりにも醜悪で、あまりにも巨大すぎる破滅だった。人類軍はとうに潰走し、最後まで残っていた王都防衛線も数日前に崩壊している。指揮系統は寸断され、逃げ遅れた民も、最後まで戦場にしがみついていた兵士たちも、そのほとんどが既に死んだ。空を覆う無数の魔物の影と、地上を埋め尽くす黒い濁流のような軍勢が、勝者として王都を踏み潰していく。
それでもなお、戦いは終わっていなかった。
終わらせなかった者がいたからだ。
「……っ、ぁ……!」
血が喉に絡む。息を吸えば肺の奥で焼けた鉄のような臭いが広がり、吐けば赤黒い液体が唇を濡らす。左肩から胸元にかけて斜めに裂けた傷は、止血したはずなのにもう一度開いていた。右の脇腹には魔獣の牙が抉ったままの深い穴があり、そこへ無理やり圧縮した正の魔力を押し込んで肉の崩壊だけを留めている。両脚はとうに限界を越え、膝から下の感覚は曖昧だった。羽ばたくたびに骨が軋み、背の付け根が引き裂かれるように痛んだ。
固有魔法の【天使化】による強化を解除すれば即座に倒れると、理解するのに頭を使う必要すらなかった。
だから解除できない。
空中で体勢を崩しながらも、天瀬ミカはかろうじて片翼を強くはためかせ、墜落しかけた身体を建て直した。頭上には複雑な輪が幾つも重なったヘイローが、不安定に明滅している。ひとつひとつの輪は既に欠け、表面の聖紋も途中から砕けていて、まともな形を保っていない。背中から生えた一対の白銀の翼も、美しい羽ではなく、血と煤と焦げ跡にまみれた、酷く傷んだ戦旗のようだった。それでもなお、その身体から放たれる聖性は濃く、赤黒く汚れた戦場の空気の中で異様なほど鮮烈だった。
彼女の右手には、光を凝縮した剣が握られている。剣というより、聖性そのものを鋳固めた柱だった。刃は陽光のように眩く、しかし今は何度もぶつかり合ったせいで輪郭が乱れ、ぱちぱちと不安定な火花を散らしていた。
聖剣。
共に異世界へ来て死んだ、日聖明日香の固有魔法。
本来、それはもっと眩しく、もっと綺麗で、彼女の魂が具現化したかのような真っ直ぐな光だったはずだ。こんなふうに血塗れで、今の持ち手の心と同じ様な砕けた輝きではなかったはずだった。
「は、ぁ……はぁ……」
呼吸が乱れる。視界はとっくに霞みきっており毛ほどの役にも立たなかった。片目を閉じたとか、血で霞んだとか、そんな次元ではない。ミカの視界はもう、ほとんど白と黒の明滅に呑まれていて、まともに前を捉えることができない。けれど、見えないのに見えていた。
敵の位置。地の割れ目から吹き出す負の魔力の流れ。崩れた瓦礫の陰で瀕死の兵士がひとり、まだ息をしていること。遠方上空でぶつかり合う巨大な魔力の奔流。その中に混じる、既に消えかけた人の祈り。
魔力感知、気配の把握、空気の震え、殺意の向き。全部が頭の中で立体として組み上がる。色は分からない。顔も細部も分からない。それでも、世界の形だけは分かる。敵がどこから来るか、自分が今どれほど死にかけているか、それだけは嫌になるほど鮮明だった。
前方から、巨大な影が迫る。
それは四足歩行の魔物だった。体高は家屋ほどもあり、背中には鋼のような殻が生え、顎の先端からは槍のような牙が何本も突き出ている。地球で言うところの翼が丸まった竜といえば分かりやすいだろうか。王都攻略戦の初日には城門を粉砕し、4日目には避難民の最後の列を食い破った魔物の上位個体だ。こいつだけでこの戦争で数万人は殺されている。
魔物は咆哮した。最早音というより、負の魔力を帯びた圧と言うべきものが大気を押し潰した。普通の人間ならその場で鼓膜と平衡感覚を失い、立っていられなくなる。けれどミカは歯を食いしばるだけで耐え、そのまま正面から加速した。翼が軋む。身体が悲鳴を上げる。肺が焼ける。分かっている。もう無理だと、全身の細胞が訴えている。それでも止まらなかった。
魔獣の牙が突き出されるより早く、ミカは光剣を横薙ぎに振り抜いた。
閃光。
空間に一本の白い剣光が走り、次の瞬間、巨大な魔獣の上半身が下半身からずれた。遅れて聖性が爆ぜ、断面から黒い血と内臓が噴き出す。魔獣は絶叫すらできず、そのまま落下し、地上の瓦礫群へと激突した。
轟音。土煙。砕け散る石材。
だが、それで終わりではない。ひとつ倒せば二つ来る。二つ倒せば十来る。この戦場はそういう場所だった。
右後方、左上空、地表付近。三方向から別種の魔物が突っ込んでくる。ミカは即座に剣を霧散させ、左手をかざした。
「……【神盾】」
低く、掠れた声だった。
けれど確かに発動した魔法は、声の細さとは似ても似つかぬ絶対性を孕んでいた。
空間に、縦長の菱形をした一枚の盾が現れる。透明にも、白銀にも見えるそれは、ただそこに在るだけで世界の理を塗り替えた。
迫る爪、呪砲、毒煙。あらゆる攻撃がその前で止まり、通らず、砕け、散る。
守谷希海の固有魔法、神盾。
壊れない。通さない。絶対に守る。そういう意思の塊のような魔法だった。
ミカは盾を軸に身体を回転させ、その陰から紅い槍を具現化する。
「……【紅槍】」
赤い光が一直線に伸び、手の中で二メートルほどの長槍を形作る。穂先は鋭く、血を吸った夕陽のように赤かった。振るうたびに空気が裂け、ただそこに存在するだけで凄まじい殺傷力を主張する。
暁美涼花の固有魔法。
「為せば成る」、と笑った親友の背中が、一瞬だけ脳裏をよぎった。
『ミカ、前に出すぎだよ。私たちを置いてくつもり?』
『一人だけ空飛べるからってズルいぞ!』
『地を這う気持ちはわからないなぁ〜』
『手羽先にするわよ』
『じゃあわたし試食係ね!』
『やめて?!本当に毟ろうとしないで!!』
耳の奥で、もう聞こえるはずのない声が響く。まだ、全員がそろっていてバカをしていた時の会話。
「……うる、さい……っ」
掠れた息とともに、槍を投げる。槍は一直線に飛び、右後方から迫っていた飛行型の魔物を三体まとめて貫いた。黒い肉塊が空で弾ける。
槍は合図とともに手元へ戻り、ミカはその返りを利用して体勢を変え、左上空から落ちてきた甲殻の魔物へ向かって突進した。すれ違いざまに穂先を走らせ、殻ごとその胴を貫通させる。地表から迫っていた異形の呪手には神盾を叩きつけ、そのまま大地ごと圧し潰した。
息をつく間もない。
王都の中央部、半ば崩壊した王城。その上空には今もなお、巨大な黒い塊が鎮座している。それがこの戦場の中核だった。霧の魔王。王都攻略を率いる魔王たちの一人。今この瞬間も黒い瘴気を撒き散らしながら、地上の生存者ごとすべてを飲み込もうとしている。
本来なら、今ここに明日香がいれば正面から斬り裂いただろう。希海がいれば背後には一匹たりとも通すまい。涼花がいれば隙を穿ち、瑠奈がいれば戦線全体を支えてくれたはずだ。
けれど、誰もいない。
もう、いない。
明日香は死んだ。瑠奈も死んだ。希海も、涼花も死んだ。
死んで、それでも自分を生かした。
ミカの胸が、どくん、と重く脈打つ。
その鼓動は自分ひとりのものではない。四つの魔石化した4人の心臓が、自分の心臓と一体化したこの胸の内で、異質な熱を放っている。これは肉体の一部であり、墓標でもあり、最後の祈りでもあり、自分への呪いでもある。
彼女たちの魂は、もうどこにもない。最後の最後、自分たちの命ごと使い果たして守り切ったからだ。残ったのはほんの僅かな骨と、記録を刻んだ宝飾品と、この身体に埋め込まれた力の残滓だけ。
それなのに、自分だけが生きている。
「……っ、ぁ……ぁあ……!」
喉の奥から、声にならない咆哮が漏れる。怒りなのか悲しみなのか、自分でも分からなかった。ただ、止まってはいけないとだけ理解していた。止まったら終わる。膝をついたら全部が終わる。だから前に出るしかない。
その時だった。
上空で、世界そのものが軋んだ。
びし、と、何か巨大な硝子に亀裂が入るような音が響いた。戦場全域に張り巡らされていた魔力の流れが一瞬で乱れ、次の瞬間、それは爆発した。空でぶつかり合っていた幾つもの超大規模エネルギーが、制御を失って一斉に暴走を始めたのだ。人類側の禁術、魔王軍の世界侵食、王都地下に眠っていた古代魔導炉、何もかもが限界を越えて混ざり合い、巨大な破滅の渦を形成していく。
「な、に……」
理解した兵士はもうほとんどいなかった。理解した魔物も、数えるほどだっただろう。だが、分からなくても本能は告げる。これは駄目だと。ここにいる全員が、勝者も敗者も関係なく、消し飛ぶのだと。
王都の中心から光と闇が重なった柱が噴き上がる。それは天を貫き、雲を消し、空間を歪め、大地を抉りながら膨張していく。世界崩壊。その言葉が何を指すのか、ミカは正確には知らなかった。けれど今、目の前で起きている現象が、その言葉に最も近い何かであることだけは分かった。
周囲の魔物たちですら、怯んでいた。
魔王が怒号を上げる。何か命令を飛ばしているのだろう。けれど遅い。もう遅い。暴走したエネルギーは止まらず、王都一帯をそれどころか世界そのものを丸ごと呑み込もうとしていた。
その中で、ミカの感知は別の巨大な動きを捉える。
複数。
さらに高位。
王都の外縁部から、そして上空の歪んだ空間の奥から、異様な存在感が集まってくる。魔神たち。王ですら膝を屈した、人外の極点。戦争の終局にだけ顔を出す災厄の象徴たち。彼らは暴走する世界そのものを前にしても冷静で、何かを決定したように動いていた。
理解するより先に、背筋が冷えた。
魔神たちの視線が、自分へ向いた気がしたからだ。
なんで。
どうして。
今更。
問いの形にすらならない困惑の中、ひとつの巨大な影が腕を上げた。空がさらに歪み、空間の断面が捻じ曲がる。負の魔力とは別種の、次元そのものへ干渉するような気配。拒絶。排斥。追放。
それが何を意味するのか、ミカは瞬時に悟った。
「……ま、て……!」
咄嗟に翼を打ち、前へ出る。けれど遅い。身体がついてこない。傷が深すぎる。聖剣を再展開しようとしても魔力の流れが乱れ、輪郭すら定まらない。四つの心臓が苦しげに熱を上げ、胸の内側を焼いた。
空間が裂ける。
黒でも白でもない、色として認識できない何かの裂け目が、ミカの周囲を包み込んだ。重力が失われ、上下の感覚が狂い、耳鳴りが頭蓋の内側を引っ掻き回す。
遠ざかっていく崩壊の王都。潰れていく大地。消えていく断末魔。魔物も人も、全部が渦の向こうへ押し流されていく。
「いや、だ……っ」
掠れた声だった。
戦場では、叫びは意味を持たない。ただ空気を震わせるだけのものだ。そんなことは二年半で嫌というほど知った。けれどそれでも、ミカは叫ばずにいられなかった。
「まだ……まだ、終わって、ない……!」
終わっていない。皆が守った人たちがまだいる。皆まだ生きている。自分だけ帰るなんて駄目だ。駄目に決まっている。自分は生きていて、みんなは死んだのに、その上で帰るなんて。そんなの。そんなの。
胸が痛んだ。鼓動が暴れ、埋め込まれた四つの心臓が共鳴するように熱を放つ。頭の奥で、聞こえないはずの声が重なる。
『帰って』 『生きて』 『伝えて』 『絶対に、忘れないで』
「……っ、あ……」
違う。そんなふうに綺麗に受け止められるわけがない。生き残れと言われたって、自分だけが生きていることがもう苦しいのに。伝えろと言われたって、どうやって。何を。あの人たちに。親に。家族に。どんな顔で。
渦が閉じる。
そして次の瞬間、ミカの身体は、完全に別の世界へ投げ出された。
夜だった。
冷たい空気が肌に刺さる。湿り気を帯びた、異様に薄い空気。煤と血と焼けた肉の臭いではない。土と草とアスファルトと、遠くの排気ガスが混ざった匂い。耳に届くのは魔物の咆哮でも兵士の断末魔でもなく、車の走行音、人のざわめき、自販機の駆動音、どこか遠くで啼く犬の声。
ミカの身体は高所から投げ出された石のように、一直線に落ちた。
下にあるのは広い地面。整えられた園路。木々。遊具。街灯。ベンチ。中央に小さな噴水広場。
忘れもしない景色だった。二年半前、学校帰りに親友たちと立ち寄った、あの公園。召喚の光に包まれる直前、自分たちが確かに立っていた場所。
「……あ」
一瞬だけ、本当に一瞬だけ、思考が止まった。
どうして。
その問いが浮かんだ瞬間には、もう地面が迫っていた。
受け身を取る余力などなかった。翼は半ば砕け、天使化も限界だった。ミカは肩から地面に叩きつけられ、続いて背中、脚、頭を強く打った。衝撃で肺の空気が全部吐き出され、全身の傷が一斉に悲鳴を上げる。アスファルトが割れ、近くの植え込みがぐしゃりと潰れた。派手な音が夜の公園に響き渡る。
「……が、ぁ……っ」
口の中に鉄の味が広がる。息ができない。視界は白く弾け、すぐに黒へ沈んだ。ヘイローが砕けて消え、翼も光の粒子となって霧散する。天使化が強制解除されたことで、肉体に残っていた最後の支えが消える。身体が重い。もう指一本動かせない。
誰かの悲鳴が聞こえた。
「きゃっ……!?」 「な、なに!? ひ、人が落ちて……!」 「ちょ、ちょっと! だ、大丈夫ですか!?」 「救急車! 救急車呼んで!」
知らない声。複数。若い女性と、年配の男と、震えた子どもの声。足音が近づいてくる。公園にいた一般人だ。地球の何も知らない人間たち。三年前まで、自分もそちら側だったはずの存在。
ミカは反射的に身を起こそうとした。敵かもしれない。近づくものは排除しなければならない。身体がそう判断する。けれど実際には、指先がほんの僅かに震えただけだった。もう立てない。立てるわけがない。
「ひどい……血が……」 「触らない方がいい! 警察も呼べ!」 「息、してる……? してるよね!?」 「救急車、救急車、早く……!」
言葉が、耳障りなほど平和だった。
死にかけの人間を前にして、まだ混乱の中に優しさが残っている。命を助けようとする声。怯えながらも手を伸ばそうとする気配。その全部が、ミカには奇妙だった。戦場ならそんなものはない。倒れている者に駆け寄るのは仲間か、死体漁りか、止めを刺しに来た敵だけだ。こんなふうに、知らない誰かがただ助けようとすることなど、もう長いこと見ていなかった。
胸がひどく痛んだ。
それが傷のせいだけなのか、分からない。
遠くでサイレンが鳴った。近づいてくる。赤色灯の回転音。車輪がアスファルトを噛む音。救急隊員たちの慌ただしい声。ストレッチャー。器具の金属音。
「意識レベル低下! 呼吸あり、脈拍微弱!」 「外傷多数! 出血がひどい、搬送急ぐ!」 「この子、制服……? 中学生……?」 「そんなこといい! 首固定、ライン確保!」 「反応あります! 目、開けて! 聞こえますか!」
聞こえている。全部聞こえている。けれど返せない。呼びかけに応じる余力がなかった。
搬送される瞬間、ミカの手がわずかに動く。胸元を掴もうとしたのだ。そこに、形見がある。骨と宝飾品。絶対に離せない。奪われてはいけない。警戒が最後の力を絞り出す。けれど隊員たちはそれを単なる痙攣だと思ったのだろう。「大丈夫、大丈夫ですからね」と言いながらその手をそっと押さえ、担架へ固定した。
大丈夫。
その言葉が、ひどく遠く聞こえた。
何が大丈夫なものか。何ひとつ大丈夫ではない。四人は死んだ。彼女たちが守った世界は崩壊した。何も守れず、何も成せなかった自分だけがここにいる。何も分からないまま、知らない平和の音に包まれて、死にかけたまま運ばれていく。
救急車の天井が見えた。いや、正確には見えてはいない。光の位置と空気の反響でそうだと分かっただけだ。内部の狭さ、器具の配置、隊員の立ち位置、揺れ。全部が頭の中に淡い立体で浮かぶ。戦場の感覚が、世界を無理やり理解させる。
「血圧さらに低下!」 「酸素!」 「ショック入るぞ、急げ!」
揺れる。身体が痛む。冷たい何かが腕に刺さる。薬液が流れ込む感覚。鼻先を覆う酸素マスクの圧迫感。
地球...?
その事実が、ようやくゆっくりと脳の奥へ沈んでいく。
地球。元の世界。帰るはずだった場所。帰りたかったはずの場所。
なのに、心のどこにも安堵がなかった。
嬉しくないわけではない。当たり前だ。帰りたくなかったわけでもない。家族に会いたくなかったわけでもない。そんなことはないはずなのに、胸を占めるのは安堵ではなく、強烈な違和感と、ひどい恐怖だった。
ここは平和すぎる。
こんな場所に、自分はいていいのか。
自分だけが帰ってきてしまって、本当にいいのか。
考えた瞬間、喉の奥で何かが詰まった。泣きたかったのかもしれない。けれど涙は出なかった。戦場では、泣く余裕のある者から死んでいった。いつからか、泣き方を忘れていた。
救急車が停止する。扉が開く。無数の足音。強い消毒薬の匂い。明るすぎる照明。担架の車輪が硬い床を転がる振動。
「外傷性ショック、意識混濁、出血多量!」 「すぐ処置室へ!」 「保護者への連絡は!?」 「身元確認急いで! 持ち物から……学生証!?」 「天瀬……ミカ……?」 「三年前の……?」
言葉が霧のように遠ざかる。
三年前。そうだ。こちらでは三年近い時間が経っている。自分にとっては三年間の戦争だったが、地球でも同じだけの時間が流れている。失踪者。行方不明。死んだと思われていてもおかしくない。そんなことすら、今の今まで頭が回らなかった。
ごめんなさい、と、なぜか心の中で呟いた。
誰に向けたものか分からない。家族か。親友たちか。置き去りにした誰かか。自分自身か。
そこで意識が途切れた。
次にミカが浮上した時、最初に感じたのは静けさだった。
戦場の静けさとは違う。死体の上を風が吹き抜ける空白ではなく、整えられた管理された静寂だ。一定間隔で鳴る電子音。どこかで回る機械の低い駆動音。空調の風。薬品と消毒液の匂い。衣擦れの小さな音。誰かが遠くを歩く靴音。
瞼を開ける。
だが、やはり何も見えない。
完全な闇ではない。白っぽい光のようなものは感じる。けれど輪郭はない。形もない。目で見ている感覚ではない。昔の鮮明な色彩のある世界とは似ても似つかなかった。
代わりに、空間の形が分かった。
狭い部屋。自分を囲む機械が複数。頭上右側にモニター。左手側に点滴スタンド。ベッドの柵。薄いカーテン。扉。廊下を行き来する人影。全部がぼんやりと、モノクロの模型のように頭の中へ立ち上がる。
「……っ」
息を呑む。
医療施設だ。
それも、かなり設備の整った部屋。集中治療室に近い。
理解した瞬間、身体が勝手に動いた。
敵地で目覚めた時と同じ反射だ。現状把握。拘束の有無。武器の位置。敵の数。脱出経路。自分の損傷。数えるより先に、身体が跳ね起きる。ベッドの上で上体を起こし、点滴の管が引き千切れそうになる。モニターのコードが揺れ、スタンドが倒れかけた。胸元の痛みが激しく走るが、そんなものは後回しだ。今は生き残るために状況を制圧しなければならない。
「……ここは、どこなの?」
声は酷く掠れていた。自分のものとは思えないほど弱い。だが、その一言には、警戒と殺気が細く鋭く滲んでいた。
右手に魔力を集中させる。光剣を出す。そう判断した。けれど、魔力の流れは以前のようには滑らかではなかった。回路のどこかが焼き切れている。胸の内側の四つの心臓が微かに熱を返すが、上手く繋がらない。剣の輪郭は生まれかけて、霧のように散った。
その時、遂に倒れたスタンドが床へ激しくぶつかり、耳障りな金属音が部屋いっぱいに響いた。
「っ……!」
ミカは反射的に身構える。直後、廊下の足音が急速に近づいた。扉が開く。現れたのは複数の人間。敵意は感じられない。だが慌てている。ひとりは女性、若い。看護師?もうひとりは別の看護師だろうか。さらに奥から男の足音、恐らくこちらも別の看護師。
「えっ、起きっ……!」 「天瀬さん!? 動かないでください!」 「待って、点滴が!」 「先生呼んで!」
聞こえた瞬間、ミカの全身に緊張が走る。知らない声。知らない人間。近づく気配。ここが地球で病院だと頭では分かっても、身体はまるで納得していない。戦場の反射が全力で警鐘を鳴らす。
近づくな。触るな。距離を取れ。必要なら殺せ。
だが、立とうとしたその瞬間、足元から力が抜けた。
「……え」
膝が折れる。身体が支えを失い、そのままベッドの縁から崩れ落ちかけた。力が入らない。魔力も足りない。そもそも血が足りていない。無理に起き上がったことで、かろうじて繋がっていた均衡が完全に崩れたのだ。
「危ない!」
看護師が駆け寄り、ミカの肩を支える。瞬間、ミカは反射的にその手を振り払おうとした。けれど腕に力が入らない。せいぜい僅かに動き震えるだけだ。
「離れ……て……」
「離れません。貴方、死にかけてたんですよ! 無闇に動かないでください!」
強い口調だった。叱るようでいて、怒っているわけではない。必死に止めている声だった。
死にかけていた。
その言葉に、ミカはようやくほんの少しだけ現実へ引き戻される。
そうだ、自分は王都で死にかけていた。公園に落ちて運ばれて助けられたのだ。ここは戦場ではない。敵陣でもない。少なくとも今、この人たちは自分を殺しに来ているわけではない。
分かる。
分かるのに、怖かった。
理解と本能が噛み合わない。その気持ち悪さにミカは奥歯を噛んだ。看護師たちに支えられながらベッドへ戻される。シーツの感触が異様に柔らかく、逆に落ち着かなかった。戦場でこんな寝具を使うことなどない。
身体が沈む。逃げにくい。駄目だ。
そんな考えが先に来る。
「……病院、なの」
「そうです。病院です。あなた、公園で倒れてたんですよ」
看護師の声が少し和らいだ。息を切らしているのが分かる。よほど驚いたのだろう。突然起き上がって器具を倒し、殺気を放ちながら立とうとした患者など、そういはしない。
ミカは荒い息を繰り返しながら、かろうじて天井の方へ顔を向けた。見えない。何も見えない。だが、空調の位置、照明の熱、モニターの電子音、薬品の匂い。全部がここが病院であることを示している。
そして、そこからようやく遅れて、別の事実に思考が漸くたどり着いた。
地球。
ここは地球だ。
「……地球……?」
自分でも驚くくらい、弱い声だった。
看護師は首を傾げたようだったが、すぐには答えない。代わりに医師が入ってくる気配がした。年配の男。落ち着いた歩幅。こちらへ近づき、一定の距離で止まる。
「天瀬さん、聞こえますか。私は医師です。ここは病院です。あなたはかなりの重傷でした。今は安全ですから、落ち着いてください」
安全。
それもまた、随分遠い言葉だった。
けれどミカにはもう反発する気力も残っていなかった。身体は鉛のように重く、胸の内側は熱いのに手足は冷え切っている。頭もぼんやりしていた。血が足りない。魔力も足りない。考えるだけでひどく疲れる。
おとなしく目を閉じる。
見えないのだから、閉じても閉じなくても同じだった。それでも目を閉じたのは、そうすると少しだけ外界が遠ざかる気がしたからだ。
直後、強烈な睡魔が襲ってきた。
限界だった。身体が、意識が、もう保たない。戦場で二年半、何度も限界を越えて、それでも倒れずに来た。けれど今、助かったと認識した瞬間に、張り詰めていた糸が切れてしまったのだろう。
沈みながら、最後にひとつだけ、はっきり思った。
帰ってきてしまった。
その事実だけが、傷よりも深く、胸のどこかへ刺さっていた。
そしてミカは、再び眠りへ落ちていった。