帰りきれない帰還者   作:ユイリシア

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第2話 馴染めない平和

次にミカが目を覚ました時、最初に感じたのは、音だった。

 

 一定間隔で鳴る電子音。空調の低い駆動音。どこか遠くで車輪のついた台車が転がる、硬質な摩擦音。廊下を歩く足音は多いが配慮するような小ささで、夜よりも昼に近い空気の広がりがあった。人の気配はあるが慌ただしさは薄く、病院全体が静かな稼働をしていた。

 

 意識が水面へ浮かぶみたいにゆっくりと上がってくる。

 痛みが、そのあとを追うように全身へ戻ってきた。胸、肩、脇腹、背中、脚。どこもかしこも痛い。ただ、落ちた時のような刺し込む様な激痛ではなく、重く鈍い熱を持った痛みだ。包帯の圧迫感と縫合された皮膚がつれる感覚から、処置はされたのだと分かる。腕に残る点滴の針の違和感。機械に繋がれていることでかろうじてこちら側へ引き止められている、弱り切った自分の命の輪郭。

 けれど、そんなことより先に確認しなければならないことがあった。

 

 ミカは瞼を開いた。

 やはり、何も見えない。

 

 正確には、何も見えないわけではない。明るさは分かる。光源の位置も、ぼんやりと白い圧のように感じ取れる。けれど輪郭はなく、色もなく、鮮明さなど欠片もなかった。昔のように天井の白さや壁の色や、机の木目や人の表情が目に入ってくることはない。ただ、そこに何かがある、とだけ分かる。視覚の抜け殻のような感覚だった。

 その代わりに、別の認識が立ち上がる。

 空間の広さ。ベッドの横幅。右手側にある機械。左手側に設置されたスタンド。椅子が一脚。壁際に置かれた棚。扉の位置。カーテンの揺れ。窓。

 少しだけ開いているのか、そこから外気が入る。外には木があるらしい。葉の擦れる音がする。数メートル先の廊下を、白衣の人物が通り過ぎた。女性。若い。足取りが軽い。看護師だろう。

 

 見えている。

 視覚でではなく、世界の形が頭の中へ直接浮かび上がるように。

 

 ミカはゆっくり息を吸った。肺が痛む。けれど前よりはましだ。

 顔の前へ、自分の右手を持ち上げる。見えない。だが、そこに自分の手があるのは分かる。指を曲げるがそれだけで関節が軋みぎこちない。拳を握る。まるで力が入っている感覚がない。血管の流れ、筋肉の震え、骨の位置。全部がひどく遠い。まるで誰か別の人間の身体を借りているみたいだった。

 

「……こんな、はずじゃ」

 

 呟いた声は自分の耳にすら頼りなく聞こえた。

 こんなはずじゃない、と思った瞬間、心のどこかでそれを否定する声もあった。何を言っている。こんなはずも何もない。あれだけ無理をして、生きているだけで奇跡だろうと。何度も致命傷といえる傷を負って、何度も何度も魔力で身体を無理やり繋ぎ止めて、最後には世界崩壊の渦に巻き込まれながら強制転移に身を投げさせられたのだ。むしろ、生きているだけでも十分な奇跡ともいえる。

 

 それでも、喪失は喪失だった。

 ミカは両目を閉じ、もう一度開いてみる。何も変わらない。そこに広がるのは、白と黒の曖昧な気配の海だけだ。

 目が見えない。

 その事実が、ようやく本当の意味で胸に沈んだ。

 

 戦場では、気にも留めていなかった。見えにくくなった事も、音でカバーし騙し騙しやれていた。視界が潰れても魔力感知と気配の読みがあったから、敵の位置も動きも分かる。致命的な不利にはならない。ミカはそう思っていたし、実際そうやって最後まで戦ってきた。

 けれど今、戦場ではない場所で、こうして静かに寝かされて、自分の手すらまともに見えない事実を前にすると、それは急に別の意味を持ち始める。

 戦うことはできても、見ることはもうできない。

 夕焼けも。家の食卓も。家族の顔も。あの四人の笑う顔も。

 今さらになって、そのことがひどく恐ろしくなった。

 

 明日香の髪は、太陽の下だと少し茶色がかって見えた。

 瑠奈は夜の色みたいに黒くて長い髪をしていた。希海は笑うと目尻が柔らかく下がった。

 望海の優しげな、でも確かな芯の強さが湛えられた瞳があった。

 涼花はいつも少し眩しそうに笑っていた。

 

 覚えている。まだ覚えている。けれど、これから先、その記憶は擦り切れていくのだろうか。輪郭のないものになっていくのだろうか。自分は、もう新しく誰かの顔を知ることもできないのだろうか。

 

 喉の奥が詰まる。

 泣きたいのかもしれない。だが涙は出なかった。胸の奥がきしむだけだ。

 その時、扉の向こうで足音が止まった。

 

「……起きてますか?」

 

 女性の声だった。昨日、自分をベッドへ押し戻した看護師の声だ。若いが、妙に芯がある。こちらを気遣いつつも、必要な時ははっきり叱る人の声。

 

 ミカは少し遅れて、「……うん」と答えた。返事ができたことに、自分で少しだけ驚いた。戦場では必要最小限しか喋らなくなって久しい。言葉というものが、自分の中で随分遠くなっていた。

 

 扉が開く。足音が近づく。白衣の擦れる音と、手に持った何かの小さな振動。トレイだろう。上に水か薬か、何かを載せている。

 

「よかった。今度は急に飛び起きないで下さいね。私の寿命が縮んじゃいますから」

 

「……ごめん」

 

「謝れるならえらいえらい」

 

 少しだけ軽い口調だった。無理に明るくしようとしているというより、その方が自然な人なのだろう。ミカはその人がベッドの脇へ椅子を寄せて座るのを感じ取った。

 

「気分はどう?」

 

「……重い。痛い。力が入らない」

 

「正直で良いことです。まあ、それもそうでしょうね。全身かなりひどかったですし」

 

 看護師はそこで一度息を整えるように間を空けたあと、少し真面目な声になった。

 

「先生から説明があったかは分からないけど、あなた、搬送された時かなり危なかったんです。失血もかなりひどかったし、外傷も多いし、内臓にも負担が出てました。正直、助かったのが不思議なくらい」

 

「……」

 

 不思議なくらい。

 そうだろう。ミカ自身もそう思う。王都での最後の数日は、もう生きているというより、死ぬのを先延ばしにしていただけに近い。帰る場所があるから、渡すものがあるから、それだけで前へ出ていただけだ。助かる前提では戦っていなかった。

 

「それと……えっと、今は落ち着いて聞いてほしいんだけど」

 

 看護師の気配が少しだけ揺れる。言いづらい話題に入る前の、人間のわずかな躊躇い。

 

「視力の方、かなり強く損傷が出てるみたいで。まだ詳しい検査と経過観察が必要だけど、今のところ、普通の見え方には戻ってない」

 

「……うん」

 

「……分かってた?」

 

「起きた時から、見えてないから」

 

 そう言うと、自分の声がひどく平坦に聞こえた。驚いていないわけではない。怖くないわけでもまた、ない。ただ、驚いたり泣いたりする前に、もうその事実と共に生き延びてしまった時間がある。今さら“診断”として言われても、現実的に改めて突きつけられただけでしかなかった。

 看護師は少しだけ言葉に詰まり、それから「そっか」と小さく返した。

 

「でもね、まったく何も分からないってわけじゃなさそうなんですよね。昨日もあなた、こっちの位置とか機械の位置、見えてるみたいに反応してましたから」

 

「……見えてるわけじゃない」

 

「え?」

 

「形が、分かるだけ。そこに何があるかどこにあるか、少しだけ」

 

「……それ、どういう……」

 

 説明しかけて、ミカは言葉を止めた。

 

 魔力感知。気配。反響。空気の揺れ。そんなものを、この人にどう説明すればいいのか分からない。そもそも、この世界には魔力や魔物があるのだろうか。王都から飛ばされた衝撃の中で、そこまで考える余裕はなかった。病院にいるのだから、少なくとも現代日本の医療機関だということは分かる。だが、それ以上はまだ不明だ。迂闊に喋るべきではない。

 

「……なんでもない」

 

 短く切る。

 看護師は少し首を傾げたようだったが、無理に追及はしなかった。

 

「まあ、今は無理に話さなくて構いません。体力も戻ってないですから。水、飲みます?」

 

「……少し」

 

 ストローが唇に触れる。ただそれだけの事に反射的に一瞬身を強張らせてしまう。

 誰かに口元へ何かを近づけられるというのが、戦場での記憶と結びついてしまうのだ。

 毒。薬。拘束。けれど、次の瞬間には冷たい水が喉を通っていき、乾き切っていた身体へ沁み渡る。思った以上に喉が渇いていた。数口だけ飲んで、ミカは息を吐いた。

 

「……ありがと」

 

「どういたしまして」

 

 この“どういたしまして”が、ひどく平和だと思った。

 助けたことに見返りがない。手を差し出したことに警戒も計算もない。ただ、当然みたいに返ってくる柔らかい言葉。そんなものにすら、ミカの心は妙にざわついた。

 看護師が薬の確認か何かで少し手元を動かし、そこでふと違う調子で言った。

 

「あとね。ご家族の方が来ているの」

 

「……」

 

 ミカの呼吸が、一瞬だけ止まった。

 

 来ている。

 

 当たり前だ。学生証から身元が割れたのなら、連絡がいっているに決まっている。むしろ来ない方がおかしい。三年前に消えた娘が、死にかけで見つかったのだ。飛んでくるだろう。そんなことは、分かっていた。

 分かっていたのに、胸の奥が急に冷えた。

 

「今はまだ面会制限あるから、長くは難しいんですけど。だけど状態見て先生と相談して、今日か明日には会えると思いますよ」

 

「……会わないと、だめ?」

 

「会いたくない?」

 

 その問いは責めるものではなく、ただ確かめるための声だった。

 ミカはすぐに答えられなかった。

 

 会いたくないわけではない。会いたいに決まっている。父も母も、響魂も誠人も、ずっと心のどこかで思い続けていた。この戦争が終わったら帰るのだと。帰って、ちゃんと顔を見て、ただいまと言うのだと。それだけで何度も立ち上がってきた。

 

 けれど今、実際に会えるとなったら、どうしていいか分からない。

 

 自分は何を言えばいい。どんな顔をすればいい。帰ってきたと笑えばいいのか。心配させてごめんと謝ればいいのか。四人の友達は死んだのに、自分だけが帰ってきましたと、どう告げればいい。

 

 それに、今の自分はあまりにも違いすぎる。

 今の自分は三年前の天瀬ミカではない。3年経っているのだから当然だろうと思うかもしれないが、今のミカは根本からして3年前のミカとは違うのだ。

 身体は傷だらけで目は見えず、手には人を殺してきた血と感触が染みついている。息をするみたいに警戒し、近づくものに反射で刃を向ける。そんなものを家族に見せて、どうする。

 

「……分からない」

 

「そっか」

 

 看護師はそれ以上何も言わなかった。沈黙は気まずくなかった。ただ、少し重かった。

 その時、廊下の向こうが少し騒がしくなる。複数の声。押し殺しているが、抑えきれない感情が滲んでいる。足音が近づいてきて、扉の外で止まった。看護師が小さく息をつく。

 

「たぶん、待ちきれなかったんでしょうね……」

 

 その呟きのすぐあと、扉の向こうから低い男の声がした。

 

「すみません、五分だけでいいんです。顔を見るだけでいいので」

 

「ご家族のお気持ちは分かりますが、まだ安静が必要でして……」

 

「お願いします」

 

 父だ。

 ミカは、それが分かった瞬間、胸をぎゅっと掴まれたみたいな感覚に襲われた。

 声だけで分かる。少し低めで、落ち着いていて、でも今は抑えきれない焦りがある。料理をしている時に鼻歌を歌う声。小さい頃、熱を出した時に額へ手を当てながら「大丈夫」と言ってくれた声。間違いなく父だった。

 

 その向こうから、別の声もする。女性。普段はもっと軽やかで、少し気怠げな調子なのに、今は震えている。

 

「お願いします……会わせて、ください……」

 

 母だ。

 思考が止まる。

 会いたかった。会いたかったはずなのに、身体が強張る。逃げたいとすら思った。会った瞬間、自分の中の何かが壊れてしまいそうで、怖かった。

 看護師が立ち上がる気配がする。扉へ向かい、何かやり取りをして、それから振り返った。

 

「……短時間だけです。無理そうならすぐ止めますからね」

 

 返事をする前に、扉が開いた。

 空気が変わる。病室に流れ込んでくる気配が、一気に増えた。四人。男ひとり、女ひとり、若い男ひとり、少女ひとり。全員の心拍が高い。息が浅い。泣きそうなのを堪えている。あるいは既に泣いている。

 誰も、すぐには何も言わなかった。

 ミカも言えなかった。

 

 分かる。そこに父がいる。母がいる。兄がいる。妹がいる。全部分かる。気配で分かっている。けれど、その顔が見えない。どんな表情をしているのか、どんなふうにこちらを見ているのかが分からない。そのことが、胸をひどく抉った。

 

「……ミカ」

 

 最初に声を出したのは母だった。かすれていて、最後が少し震えている。

 その一言だけで、三年という時間の重さが一気に押し寄せてきた。

 

「……お母、さん」

 

「うん……うん……そう、そうよ……!」

 

 声が崩れた。泣いたのだと分かった。次いで、椅子が引かれる音。誰かが近づく。ベッド脇で止まる。手が伸びてくる気配。ミカの肩に触れかけて、一瞬だけ止まり、それから壊れ物に触れるみたいにそっと置かれた。

 

 母の手だった。

 温かい。

 その温度だけで、ミカの身体は反射的に固まった。逃げたいわけではない。ただ、触れられることに慣れなくなっていた。1人になった後の戦場では接触は攻撃か治療か、そのどちらかしか意味を持たなかった。こんなふうに、ただ確かめるためだけの手のひらを、身体が上手く受け入れられない。

 だが母は、その強張りを感じ取ったのか、無理に抱き締めたりはしなかった。ただ肩へ手を置いたまま、小さく震えている。

 

「よかった……生きてて……ほんとに、よかった……」

 

「……」

 

 答えられない。

 言葉が出てこない。“ただいま”と言うべきなのかもしれない。でも、その一言が喉の奥で石みたいに詰まっていた。

 別の足音が近づく。父だ。父は母ほど感情を露わにしない人だったが、今は抑えきれていないのが分かる。呼吸の乱れ方がそうだった。

 

「……ミカ」

 

 呼ばれる。

 昔と同じ、落ち着いた低い声。けれどその奥にある震えは、昔にはなかった。

 

「帰ってきたんだな」

 

 その言葉に、ミカの胸が大きく揺れた。

 帰ってきた。

 そんなに簡単に言ってしまっていいのか。自分だけが。四人を置いて。何も持ち帰れず、いや、持ち帰ったものがあまりにも重すぎて、胸の内側が潰れそうなのに。

 

「……ごめん、なさい」

 

 口をついて出たのは、それだった。

 自分でも驚くくらい、弱く、情けない声だった。

 

「心配、かけて……ごめんなさい……」

 

「何を謝る必要がある」

 

 父の声が少しだけ強くなる。けれど怒っているのではない。ただ、押し潰れそうなものを支えるために強くしている声だった。

 

「生きて帰ってきた。それで十分だ」

 

「……ちがう」

 

 違う。違うのだ。十分なわけがない。四人は帰ってこなかった。自分1人だけがここにいる。生きて帰ってきている。その事実がある限り、“十分”なんて言葉はとてもではないが受け取れない。

 

「ミカ姉」

 

 今度は、明るい少女の声。けれど今は涙で濡れている。響魂だ。

 

「ほんとに……ミカ姉、なんだよね……?」

 

「……きょう、こ」

 

 妹の名を呼んだ瞬間、胸の奥に痛いくらいの懐かしさが込み上げた。消えた時にはまだ、小さかった。声だってもっと高くて、どこか幼かったはずだ。今の響魂の声は、ちゃんと成長していた。少女のものだ。自分の知らない時間の分だけ。

 

「会いたかった……っ、ずっと……っ」

 

「……」

 

 泣き声が混じる。近づきたいのに躊躇っている足音。抱きつきたいのに、自分の怪我を見てできないでいるのだろう。気配が揺れている。

 そして最後に、少し離れた位置から兄の声がした。

 

「……おかえり、ミカ」

 

 誠人。

 静かな声だった。父や母や響魂ほど感情を露骨には出していない。だが、その静けさの下にあるものは大きかった。張り詰めた理性でどうにか均衡を保っているのが分かる。

 

「……ただいま、って……言えば、いいのかな...?」

 

 ミカはそう言って、少しだけ笑おうとした。けれど上手くいかなかった。長く動かさなかった頬の筋肉が、そんな表情をもう忘れてしまっている気がした。

 母がまた泣く。響魂もたぶん泣いている。父は黙ったまま、近くに立っている。誠人も何か言いかけて、やめた。

 優しいのに、噛み合わない。

 会えたのに、遠い。

 ミカはその断絶を、はっきり感じていた。

 自分はここにいる。家族もここにいる。ちゃんと再会した。なのに、同じ場所に立てていない。家族にとっては「帰ってきた娘」でも、ミカにとってはまだ戦場が終わっていない。終えられていない。王都の崩壊も、四人の死も、胸に埋まった心臓の熱も、そのまま自分の中にある。ここだけが別の世界みたいに平和で、自分だけがそこへ馴染めない。

 前に進めない。

 

「……ねえ」

 

 母の声が震えたまま、そっと問いかけてくる。

 

「何があったの……?」

 

「……」

 

 その問いに、病室の空気が一瞬で重くなった。

 当然だ。三年近く行方不明だった娘が、重傷で見つかった。何があったのか知りたいに決まっている。心配も、不安も、疑問も、全部あるだろう。

 けれどミカは、すぐに答えられなかった。

 異世界に召喚された。人魔戦争に巻き込まれた。親友たちと五人で戦った。四人はみんな死んだ。自分はその心臓を胸に埋め込んで帰ってきた。

 そんな話を、どうやってこの病室で話せばいい。どこから話せばいい。そもそも、信じてもらえるのか。信じてもらえなかったらどうする。いや、信じてもらえなくても困るが、信じられてもまた困る。だって、それは家族に自分の見てきた地獄をそのまま流し込むことと同じだからだ。

 

「……まだ、うまく……話せない」

 

 やっと絞り出したのは、それだけだった。

 母は何か言おうとして、やめた。父も同じだった。誠人だけが少しだけ長く沈黙し、それから低く言った。

 

「今はいい。生きてるなら、それでいい」

 

 父も似たようなことを言った。たぶん、普通の家族ならそれで少し救われるのだろう。けれどミカには、それが逆に苦しかった。

 

 生きているのは自分だけだ。

 

 その言葉が、肯定されるたびに痛む。

 看護師がそっと気配を動かした。そろそろ時間だと伝えるべきなのだろう。家族もそれを察したらしい。母の手が名残惜しそうに肩から離れる。響魂は最後まで近づくか迷っていたようだったが、結局、ベッドの端にほんの少し指先を触れるだけで止まった。兄も父も、それ以上は踏み込まなかった。

 

「また来るから」

 

「何か必要なものがあったら言って」

 

「ちゃんと、休んでね……ミカ姉」

 

「……おやすみ」

 

 最後の誠人の言葉だけ、少しだけ普段通りを装っていた。

 扉が閉まる。四人の気配が遠ざかる。病室はまた静かになった。

 それなのに、ミカの胸の中は少しも静かじゃなかった。

 

 会えた。

 本当に会えた。

 もう二度と会えないかもしれないと思っていた家族に、会えたのだ。嬉しいはずだ。

 なのに嬉しさより先に痛みが来る。自分の無事を喜んでくれる家族に、距離を感じてしまった自分が嫌だった。抱きしめてくれた時抱きつけなかった。ちゃんと泣けなかった。ただいまと笑えなかった。

 あまりにも戦場に置いてきたものが多すぎて、平和な、日常の中にある家の中へ入りきれない。

 自分はどこにいるのだろう。

 地球へ帰ってきたのに、まだ帰れていない。そんな感覚があった。

 

 それから数時間、ミカはほとんど眠れなかった。

 目を閉じても、王都の崩壊が脳裏に蘇る。裂ける空。焼けた肉の臭い。魔物の叫び。兵士たちの最期。明日香の剣。瑠奈の歌。希海の盾。涼花の槍。全部が断片になって胸の中で暴れる。

 それでも、ここは静かだった。

 静かすぎた。

 夜になっても、せいぜい遠くで誰かがナースコールを押す音がするくらいだ。

 突き殺すような殺気も、怨嗟にまみれた断末魔も、泣き声を圧し潰す爆炎もない。その静けさがかえって落ち着かなかった。静かであるはずの空間を、身体が危険だと判定してしまう。こんなに静かな時こそ、何かが起こる。奇襲。夜襲。暗殺。そういう記憶が染みついている。

 ミカは何度も浅く目を覚ました。というより、眠りに落ち切れなかった。少し意識が沈んでは、わずかな物音で跳ね上がる。看護師が点滴を確認しに来ただけで身体が勝手に戦闘状態になり、強張る。廊下で金属音が鳴れば指先に力が入る。天井の上を通る配管の振動ですら、どこかの壁が崩れた音に似て聞こえて、胸がざわついた。

 

 夜半過ぎ、たぶん見回りのためだろう、別の看護師がそっと病室へ入ってきた。足音は小さい。こちらを起こさないよう配慮しているのが分かる。だが、そういう“気配を消した接近”は戦場では最悪の部類だ。ミカの身体は反射的に動いた。

 布団の下で腕がわずかに持ち上がる。武器はない。出せない。けれど相手の喉元を狙う軌道だけは、身体が覚えている。

 看護師がそれに気づいたのか、小さく息を呑んだ。

 

「……起きてましたか?」

 

「……」

 

 沈黙したまま、ミカは腕を下ろした。完全に寝たふりを続ける意味もなかった。

 看護師は少しだけ困ったように笑った気配を見せ、点滴の確認だけして、必要以上には近づかなかった。その距離感が有り難かった。

 

「眠れませんか?」

 

「……少し」

 

「痛みますか?」

 

「それもある。でも、違う

 

「そうですか」

 

 看護師はすぐには去らなかった。けれど無理に話しかけてもこない。ただ、記録のペンを走らせる音が少しだけして、それから静かに言った。

 

「まるで戦争帰りみたいですね」

 

 ミカの心臓が一拍、重く跳ねた。

 見抜かれた、と思ったわけではない。その言葉は比喩として言われたのだろう。けれど、あまりにも正確すぎて、一瞬呼吸が止まりそうになった。

 

「……変?」

 

「変というか、普通の怪我人の反応じゃないですよ。物音に敏感すぎるし、近づく人の気配に先に反応する。寝ててもずっと身体のどこかに力が入り続けています。怖がらせたいわけじゃないですよ。あくまで、そう見えるっていうだけです」

 

「……」

 

 ミカは答えなかった。答えられなかった。

 看護師はまた少し間を空けた。

 

「無理に何か言わなくていいんです。でも、ここでは今すぐ殺されることはありません。少なくとも、私たちはあなたを助ける側です。そこだけは、少しずつでも覚えてくれたら嬉しいです」

 

 その声は、妙に擽ったくなるぐらいにまっすぐだった。

 優しさというより、現場の人間の実務的な誠実さ。安心してください、とふわりと言うのではなく、ここではそうならないと事実を置く言い方。それがミカには少しだけ受け入れやすかった。

 

「……努力する」

 

「はい。今はそれで十分です。また来ますね。おやすみなさい」

 

 足音が遠ざかる。扉が閉まる。

 静けさが戻る。

 ミカはそこで初めて、小さく息を吐いた。

 ここでは今すぐ殺されることはない。

 そんな当たり前のような言葉を、努力しないと信じられない自分がいる。それが少し可笑しくて、少し苦しかった。

 

 翌朝、医師から改めて簡単な説明を受けた。怪我の状態。そして経過観察。

 しばらくは安静が必要だということ。外傷の中には古いものも多く、失踪中に長期間にわたって相当危険な状況へ置かれていた可能性が高いこと。視覚については、機能が完全に失われたとは断定できないが、少なくとも通常の視力は望みにくいこと。

 医師の声は淡々としていた。だがその淡々とした説明の中に、理解できないものへの戸惑いが少し混じっているのをミカは感じ取った。

 古傷の付き方。筋肉と骨への負荷。新旧入り混じった損傷。中学生の身体にあるには不自然すぎる、異常な痕跡。

 何があったのか、当然向こうも疑問に思っているのだろう。

 

 質問もされた。失踪していた三年間、どこにいたのか。誰といたのか。どうしてそんな傷を負ったのか。

 ミカは、答えを絞った。

 

「……覚えてない、ことが多い」

 

「全部ではなくても、少しずつ思い出せることもあるかもしれない。焦らなくていいからね」

 

「……うん」

 

 嘘ではない。全部を正確に言葉にできるほど、まだ整理できていないのも本当だった。ただ、意図的に削っている部分が大きいのもまた事実だった。

 情報は武器になる。情報は足枷にもなる。誰にどこまで渡すかは選ばなければならない。戦場で骨の髄まで叩き込まれた感覚が、病院の白い空間の中でも消えない。

 

 昼前、母がまた来た。今度は一人だった。父は仕事の都合もあるのだろう。あるいは、家族全員で押しかけすぎないよう相談したのかもしれない。母はベッド脇の椅子へ座ると、しばらく何も言わなかった。無理に言葉を探さない、その沈黙が逆に助かった。

 

「……病院食、おいしくないよね」

 

 ややあって、母はそんなことを言った。

 ミカは少し拍子抜けした。もっと重い話をされると思っていたからだ。

 

「……まだ、あんまり食べてない」

 

「そっか。まあ、元々おいしいもんでもないしねえ」

 

「……」

 

「退院したら、何か作るわ。食べたいものある?」

 

「……」

 

 食べたいもの。

 その言葉に、しばらく答えが出てこなかった。

 戦場では、食事は栄養と補給でしかなかった。味より量、量より確保。乾いた携行食、硬いパン、薄いスープ。あるいは討伐した魔物から無理やり可食部を取って煮たもの。ここ数年のはそういう記憶ばかりだ。けれど、もっと奥の方には、ちゃんと別の記憶もある。

 父が休日に作ってくれたオムライス。母が気まぐれに買ってきた高いケーキ。響魂と取り合いしたプリン。誠人が妙にハマってたカレーうどん。そんなものが断片的に浮かぶ。

 

「……シチュー」

 

「え」

 

「……クリームシチュー、食べたい」

 

「……作る。いっぱい作るね」

 

 母の声が、最後の方で少し崩れた。泣きそうなのを堪えたのだろう。ミカはそれ以上何も言えなかった。こんな何気ない一言だけで、母の心をこんなふうに揺らしてしまう。そのことが重かった。

 母はしばらく他愛ない話をした。家のこと。響魂が少し背が伸びたこと。誠人が受験生になったこと。父は相変わらず料理イベントのチラシを見るのが好きなこと。近所のコンビニが潰れてドラッグストアになったこと。公園の遊具が少し新しくなったこと。

 全部、自分の知らない時間の話だった。

 懐かしいのに、足りない。

 知っている世界の続きのはずなのに、その間がごっそり抜け落ちている。ミカはその会話を聞きながら、奇妙な感覚に包まれていた。ここは確かに自分の世界なのに、自分が知らない時間が厚く積もっていて、もう完全には同じ場所ではない。

 

 母が帰ったあと、ミカはベッドの上でじっと天井の方を向いた。

 何も見えない。

 ただ、光の位置だけがぼんやり分かる。

 自分の世界へ帰ってきた。家族にも会えた。助けられた。治療もされている。普通に考えれば、もう十分すぎるくらい恵まれている。

 なのに、胸のどこかにずっと違和感が棘みたいに刺さっている。

 戦場の匂いがしない。血の臭いがない。敵意が薄い。誰も死なない。誰も殺そうとしない。人が笑って話している。そういうもの全部が、本来なら喜ぶべきことのはずなのに、ミカにはまだ、どこか現実味が薄かった。

 

 平和なのだ。

 

 でも、その平和は自分にとって“知っているはずなのに、もう知らないもの”になっていた。

 戦場では、生き延びるために自分の世界を削って理解する。敵か味方か。危険か安全か。使えるか使えないか。必要か不要か。その切り分けだけで十分だった。そこに感情は要らない。風景も要らない。綺麗なものも優しいものも、命を繋ぐ直接の役には立たない。

 けれど今、自分の周りには、そういう“役に立たないもの”が必要なことがたくさんある。看護師の雑談。病室の窓の外の葉擦れ。母の作るシチューの話。そういうものが平和を形作っている。昔の自分なら、それをちゃんと好きだと思えていたはずだ。

 今の自分は、まだそこへ手が届かない。

 遠い。

 手を伸ばせば触れられる距離にあるのに、心だけがずっと戦場に立ったままだった。

 

 ミカは自分の胸元へ、ゆっくりと右手を置いた。

 そこにある熱を確かめるみたいに。

 四つの心臓は、今は静かだった。けれど確かにそこにある。自分の中に埋め込まれた、親友たちの最期の残り火。触れるたびに思い出す。忘れるな、と言われている気がする。生きろと、そう言われた声がずっと胸の奥に残っている。

 その重みを抱えたまま、自分はこの平和な病室にいる。

 このあまりに不釣り合いな現実を、ミカはまだ上手く飲み込めなかった。

 夕方が来て、また夜が来る。

 静かで、明るくて、清潔な夜。

 王都の最後の夜とは似ても似つかない。

 知らない平和だ、とミカは思った。

 自分が知っていたはずの世界なのに、もう自分の身体も心も、その平和の中でどう振る舞えばいいのか忘れてしまっている。帰ってきたはずなのに、まだ立てない。日常の床は、戦場の泥よりもずっと遠く感じられた。

 それでも、ここで生きるしかないのだろう。

 

 まだ、そのための意味もよく分からないままに。

 

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