帰りきれない帰還者   作:ユイリシア

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第3話 家族との対面

面会の回数が増えるにつれて、ミカは少しずつ、家族の気配の違いを覚えていった。

 

 父は病室へ入る前に、一度だけ必ず呼吸を整える。扉の前で立ち止まり、ほんの二秒ほど間を置いてから中へ入ってくる。動揺を持ち込まないようにしているのだろう。普段から穏やかな人だが、今はその穏やかさを懸命に作っているのが分かった。

 母は逆に、感情を隠しきれない。扉の外に来た時点で、もう気配が揺れている。病室へ入ってくる時の足取りも、毎回微妙に違った。平気なふりをして軽く入ってくる日もあれば、今日は泣かないと決めてきたのにすでに呼吸が乱れている日もある。

 誠人は静かだった。静かすぎるくらい静かで、その静けさがむしろ強い圧を持っていた。余計なことを言わない。無理に明るくもしない。ただ、そこにいる。だがその在り方の奥には、膨大な問いと怒りと焦りが沈んでいるのをミカは感じていた。兄はたぶん、一番多く考えている。

 響魂は分かりやすい。足音も呼吸も感情も、全部表に出る。嬉しい時はぱっと軽くなり、不安な時はすぐに沈む。病室の前まで来て立ち止まり、それでも入ってきた瞬間にはなるべく明るい声を出そうと頑張っているのが分かる。小さかった妹は、知らないうちに随分頑張る子になっていた。

 

 その全部を、ミカは“見て”いた。

 もちろん目ではない。

 気配と空気の揺れと、声の細かな震えで分かるだけだ。

 けれど、それでも十分すぎるほど分かってしまう。分かってしまうからこそ苦しかった。

 家族は誰も責めない。問い詰めもしない。帰ってきたことを喜び、助かったことを安堵し、ゆっくりでいいから話してくれればいいと言う。だがその優しさが、ミカには刃みたいに刺さった。

 

 自分は、そんなふうに受け取ってもらえる人間なのだろうか。

 四人を連れて帰れなかったのに。

 

 その問いが、ずっと胸の内側に棘のように残っている。

 

 ある日の午後、病室には父と誠人の二人が来ていた。

 母と響魂はその日は来ていないらしい。母は買い出し、響魂は学校だと父が言った。普通の会話だった。学校。買い出し。そういう言葉ひとつひとつが、妙に遠い。自分が置き去りにした三年間の生活が、当たり前みたいにそこにある。

 

「熱はどうだ?」

 

「昨日より、少しまし」

 

「食事は食べられてるか?」

 

「食べられる、けど……そんなにいらない」

 

「少しでも口にしておけ。戻るものも戻らないぞ」

 

 父らしい言い方だった。優しいのに、不思議と必要以上に甘やかさない。幼い頃、風邪を引いて寝込んだ時も似たような調子だった気がする。心配していないわけではない。むしろその逆なのに、必要なことは必要なこととして言う。

 誠人はベッド脇の椅子に座ったまま、しばらく何も言わなかった。手元で何かを弄っている。たぶんスマートフォンだろう。だが、本当に操作しているのではなく、考えながら手の中で持て余しているだけの気配だ。

 

「……お兄ちゃん」

 

 ミカが先に呼ぶと、少し間を置いてから誠人は「なに」と返した。

 

「怒ってる?」

 

「怒ってるよ」

 

 即答だった。

 ミカはわずかに息を詰めた。だが誠人の声は荒くない。低く、静かで、まっすぐだった。

 

「怒ってる。そりゃそうだろ。三年近く消えて、いきなり重傷で出てきて、何があったかもまともに言わない。しかも、わざと隠してるだろ。怒らない方がおかしい」

 

「……うん」

 

「でも、怒ってるのと、お前が帰ってきてよかったって思うのは別だ」

 

「……」

 

「そこは混ぜるな」

 

 淡々とした声だった。理屈を切り分けるみたいな言い方。けれど、その切り分けの中に誠人なりの必死さが見えた。

 混ぜるな。

 たぶんそれは、自分にも言い聞かせているのだろう。怒っている。怖かった。苦しかった。たぶん今も全部ある。それでも帰ってきた姉を目の前で責め立てるのは違うと、自分の中で何度も線を引いているのだ。

 父はその会話にすぐには入らなかった。ただ少しだけ椅子を引く音がして、病室の窓際へ寄ったらしい。外を見たのだろうか。ミカには分からない。見えないから、分からないことが増えた。そのたびに胸がひどく空く。

 

「……お父さん」

 

「ん?」

 

「怒ってる?」

 

「怒っている部分もある」

 

 父は少しだけ笑ったようだった。笑う、というより、苦く息を吐いたのに近い。

 

「だが一番大きいのは安堵だ。怒るのは、そのあとでいくらでもできる」

 

「……」

 

「それに、お前は今、怒鳴られても困るだろう」

 

「……それは、そう」

 

 自分でも思わずそう返してしまって、少しだけ間ができた。父と誠人がほんの僅かに空気を緩めたのが分かる。たぶん二人とも少しだけ笑ったのだろう。

 その小さな緩みが、ミカにはひどく眩しかった。

 家族の中には、まだこういう空気が流れるのだ。戦場とは関係のない、気の抜けたやり取り。誰も死なず、誰も傷つかず、それでいてちゃんとそこに生活の温度がある会話。

 懐かしい。

 でも、自分だけがそこへうまく乗れない。

 

「……ミカ」

 

 父の気配が少しだけ近づいた。ベッドのすぐ脇までは来ない。少し距離を取った位置で止まる。たぶん、こちらが不用意に身構えない距離を探っているのだ。その配慮が痛かった。

 

「今すぐ全部話せとは言わん。ただ、すこしだけ聞かせてくれ。答えなくてもいい」

 

「……なに」

 

「誰かに監禁されていたのか」

 

「……」

 

「何か犯罪に巻き込まれていたのか」

 

「……違う」

 

「自分の意思で、帰れなかったのか」

 

「……」

 

 その問いには、すぐ答えられなかった。

 自分の意思で帰れなかったのか。

 厳密には違う。自分の意思で行ったわけではない。帰る手段もなかった。戻ろうと思っても戻れなかった。それは事実だ。だが、ただそれだけではない。途中からは、帰ることより戦うことが先になっていたのもまた事実だった。目の前で人が死ぬ中で、自分だけ帰るという選択肢は、どんどん考えられなくなっていった。何よりあの世界でも友達ができてしまったし、大事な人ができた奴もいた。

 

「……帰る方法が、なかったし、帰らない理由があったから」

 

「そうか」

 

 父は追及しなかった。

 それだけで終えるつもりなのかと、ミカは少し意外に思った。だが父はさらに間を置き、それから慎重に続けた。

 

「なら、今はそれでいい」

 

「信じるの」

 

「信じるかどうかと、今それ以上追い詰めるかどうかは別だ」

 

 その言い方に、誠人が少しだけ息を漏らした。たぶん同意したのだろう。あるいは父らしいと思ったのかもしれない。

「ただし」と父は静かに続けた。

 

「お前が何を背負って帰ってきたのか、いずれ知りたい。家族だからな」

 

「……」

 

「助けたいから知りたいんじゃない。助けるためにも知りたいが、それだけじゃない。お前が何を生きてきたのか、知らんまま“元通り”になどできるはずがないからだ」

 

 ミカは、その言葉に少しだけ目を見開いた。

 元通りには、できない。

 その現実を、父は最初から分かっているのかもしれなかった。

 家族は、何もかも以前と同じに戻ることを望んでいるのだと思っていた。消えた娘が帰ってきて、また前みたいに笑って、前みたいに食卓を囲んで、前みたいに暮らせるようにと。そう願っているのだろうと。

 でも父の言葉は違った。

 元通りにはできない。

 その上で、知りたいと言った。知った上で、それでも家族であろうとしている。

 そのことが、ミカには少しだけ救いだった。

 

 同時に、怖くもあった。

 知ったら、嫌われるかもしれない。怯えられるかもしれない。胸の中に埋まった四つの心臓のことを、親友たちの骨を持ち歩いていることを、人を何百何千と殺してきたことを。そういうもの全部を知って、それでも家族でいてくれるのか。分からなかった。

 

「……その時になったら、話す」

 

「そうか」

 

 父はそれ以上言わなかった。

 誠人がそこで初めてスマートフォンを机に置き、椅子の背にもたれ直す気配を見せた。

 

「じゃあ、その時までに質問をまとめとく」

 

「……なにそれ」

 

「聞きたいこと多すぎるから、整理しとかないと無駄が出る」

 

「無駄って」

 

「お前の情報の出し方が妙に絞られてるからな。そう小出しにされると多分こっちの処理が追いつかない」

 

 誠人のその言い方に、ミカは少しだけ呼吸を止めた。

 処理。

 それは戦場に近い言葉だった。事実を感情から一度切り離し、整列させて理解可能な形へ落とし込む。誠人は意識しているのか無意識なのか、そういう言葉の使い方をする。

 

「……ごめん」

 

「謝るな。そういうのは多分、お前がそうしないとやってられなかった結果だろ」

 

 見透かされた気がした。

 情報を絞る。感情を削る。必要なことだけを短く話す。戦場ではそれが当たり前だった。長く喋れば隙ができる。感情を流せば判断が鈍る。だから削ってきた。そうしないと壊れるから。

 誠人は、それをうっすら察しているのだろうか。

 

「……お兄ちゃんは」

 

「なに」

 

「怖くないの」

 

「何が」

 

「……私」

 

 その問いを口にした瞬間、病室の空気がわずかに止まった。

 聞きたくなかった。けれど、ずっと胸の奥にある問いだった。自分はもう、前の自分ではない。家族にとっても、見知らぬものが混ざっている。そういう自覚がある。だから聞かずにいられなかった。

 誠人はすぐには答えなかった。だが、躊躇いではなかった。言葉を選んでいるのだと分かる。いつもの兄の癖だ。

 

「……正直に言うと、怖い部分はある」

 

「……」

 

「でも、“お前が怖い”っていうのと、“お前の中に何があるのか分からないのが怖い”のは違う」

 

「違うの?」

 

「全然違う」

 

 ミカが思わず僅かに目を見開くほどに静かな断言だった。

 

「今のお前、前よりずっと尖ってるし、近づかれるの嫌がるし、たぶん反射で人を傷つける可能性もある。そういう意味で危ういとは思ってる」

 

「……うん」

 

「でも、それはお前が知らないものになったからじゃなくて、お前が何かで削られて帰ってきたからだろ」

 

「……」

 

「だったら、怖いのはお前じゃなくて、お前をそうしたものの方だ」

 

 言葉が、まっすぐ胸へ刺さった。

 そんな風に切り分けられるものなのか、とミカは思った。

 自分の中ではもうごちゃごちゃに混ざってしまっている。戦場の自分と本来の自分。殺した罪悪感と生き残った罪悪感。四人の死と自分の心臓の鼓動。全部が分かちがたく、くっついていて、“それに巻き込まれた自分”と“その結果としての自分”を別々に見ることなどできない。

 けれど、誠人は今、それを分けた。

 お前が怖いんじゃない。お前をそうしたものが怖い。

 その一言に、ミカは少しだけ呼吸を崩した。泣くほどではない。泣けはしない。けれど、胸の奥に固まっていた何かが微かに軋んだ。

 

「……ありがとう」

 

「礼を言われるほどのことじゃない」

 

 誠人はそう言って、たぶん少しだけ視線を逸らした。照れたのかもしれない。その反応が昔と変わらなくて、痛いくらい懐かしかった。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 父と誠人が帰ったあと、病室にはまた静けさが戻った。

 

 静かなのに、今は少しだけ冷たさが薄い。

 家族の言葉が、完全に安心をくれたわけではない。むしろ、自分がどれだけ変わってしまったのかを逆に浮かび上がらせた部分すらある。

 それでも、拒絶されなかった。分からないままでも、そこにいていいと言われた。それはミカにとって、思っていたよりずっと大きかった。

 

 その日の夕方は、響魂がひとりで来た。

 学校帰りなのだろう。制服の擦れる音がした。病室へ入ってきた足取りはやや早く、でも途中で一度だけ減速する。いつもみたいに勢いよく飛び込まず、扉のところでほんの少しだけ覚悟を決めているのだ。

 

「ミカ姉、起きてる?」

 

「……起きてる」

 

「入るね」

 

「もう入ってるよ」

 

「あ、そっか」

 

 その間の抜けた返しに、ミカは少しだけ口元を緩めた……ような気がした。うまく笑えたかは分からない。でも、響魂の空気がちょっとだけ明るくなったので、たぶん少しは伝わったのだろう。

 妹はベッドのそばまで来ると、しばらく何も言わなかった。椅子に座る音もしない。立ったまま、こちらを見ているのだと分かる。

 

「……どうしたの」

 

「うん……あのね」

 

「うん」

 

「ちゃんと見ておきたくて」

 

「……」

 

 その一言が、やけに重かった。

 ちゃんと見ておきたくて。

 三年近くいなくなって、突然帰ってきた姉が、生きているのかどうかも分からなかった姉が、こうして目の前にいるうちにちゃんと確かめたかったのだろう。ここに居たのは確かに夢じゃないと。

 ミカはゆっくりと、布団の上へ出していた右手を少しだけ動かした。招くつもりだった。だがその動きすらまだぎこちない。響魂はすぐに気づいて、そっとその手を取った。

 温かい、小さな手だった。

 いや、小さいと思ったのは記憶との差だ。実際にはもう、昔ほど小さくない。成長した少女の手だ。なのにミカの感覚の中では、まだ幼い妹の延長にある。

 

「……背、伸びた」

 

「へへ。でしょ。16センチも伸びたんだよ!」

 

「声も、変わった」

 

「ホント?」

 

「うん。知らない声。...ちょっとちがう。知ってるけど知らない声になってる」

 

「それ、なんか複雑だなあ」

 

 響魂は笑った。でも、その笑いの奥にあるものは揺れていた。明るくしているだけだと分かる。

 

「……ミカ姉」

 

「なに」

 

「怖い思い、いっぱいした?」

 

「……した」

 

 嘘はつけなかった。

 

「痛かった?」

 

「うん」

 

「寂しかった?」

 

「……」

 

 その問いだけ、答えに詰まった。

 寂しかった。

 もちろん寂しかった。何度も家に帰りたかった。何度も家族に会いたかった。だけど、戦場で“寂しい”という感情は長く持っていられない。すぐに次の死と戦いが来る。だから削るしかなかった。感じないようにしてきた。そうしないと前へ出られなかった。

 

「……覚えて、ないかも」

 

「そっか」

 

 響魂は変に掘り下げなかった。そこが昔より大人になったところかもしれない。昔なら「なんでー?」とすぐ聞いてきただろう。

 少し間を置いてから、妹はぽつりと言った。

 

「わたしね、最初、怒ってたの」

 

「……うん」

 

「なんでいなくなったの、って。なんで急にいなくなってそのままなの、って」

 

「……うん」

 

「でも、そのうち怒るのもしんどくなって、今度は、もう帰ってこないのかなって思い始めて」

 

「……」

 

「それが、たぶん一番いやだった。まるで、認めてしまったみたいだっただから」

 

 声が震えた。

 ミカは響魂の手を少しだけ握り返そうとした。力が足りなくて、たぶんほとんど軽く触れた程度にしかならなかっただろう。だが響魂は、そのわずかな返しを感じ取ったらしい。息が少し揺れた。

 

「ごめん」

 

「ううん。今はその、ごめんって言われると困る」

 

「なんで?」

 

「だって、わたし、帰ってきてくれて嬉しいもん」

 

「……」

 

「なのに“ごめん”って言われると、なんか違うよ」

 

 その感覚は、少し分かる気がした。家族はたぶん、謝罪より帰還を受け取りたいのだろう。けれどミカには、どうしても先に謝罪が浮かぶ。生きて戻ったこと自体が、どこか後ろめたいからだ。

 

「……じゃあ、何て言えばいい」

 

「うーん……」

 

響魂はしばらく考えて、それから少しだけ笑った。

 

「ただいま、でいいんじゃない?」

 

「……もう言った」

 

「もう一回言えばいいじゃん」

 

「何回も言うものなの」

 

「いいでしょ別に」

 

 その雑な肯定に、ミカは少しだけ息を漏らした。ミカ自身でも分からなかったけれど、少し笑ったのかもしれない。自分ではやっぱりよく分からない。でも響魂の空気がまたほんの少し明るくなったから、たぶん何かは伝わった。

 

 響魂はそれから、学校のことを話した。クラスのこと。先生のこと。仲のいい子のこと。三年近く前とは違う世界の話。ミカには知らない名前ばかりだったが、それでも響魂がそういう“普通の話”を自分に聞かせようとしてくれているのが分かった。

 自分を、今の生活へ繋ぎ止めようとしているのだ。

 そのことがありがたくて、同時にひどく痛かった。

 知らないうちに、この子は自分がいない時間をちゃんと生きてきたのだ。その中に泣いた日も、怒った日も、諦めかけた日もあったのだろう。それを思うと、胸が重く沈む。

 

「……ミカ姉?」

 

「なに」

 

「また今度、家帰ったらさ」

 

「うん」

 

「一緒にご飯食べようね。みんなで料理を作ってさ」

 

「……うん」

 

「ちゃんと、家で家族みんなで食べよ」

 

 その“ちゃんと”が刺さった。

 病院じゃなくて。夢みたいな再会じゃなくて家で。天瀬家の食卓で家族として、ちゃんと。

 それはたぶん、響魂なりのこの3年間抱え続けた願いの発露だったのだろう。

 

「……食べる」

 

「約束だよ?」

 

「約束、約束する」

 

 響魂はそこでようやく満足したように息を吐き、しばらくそのまま手を握っていた。

 帰る頃になって立ち上がり、扉の前まで行ってから、妹はふと振り返った気配を見せる。

 

「ねえ、ミカ姉」

 

「うん」

 

「今、目……見えてないんだよね」

 

「……うん」

 

「じゃあ、わたしが今どんな顔してるか分かんない?」

 

「そう、だね。分かんないや」

 

「そっか」

 

 一瞬だけ、寂しさが混じった。

 そのあとすぐに、響魂は少しだけ明るい声を作って言う。

 

「じゃあ、早く元気になって。見えるようにならなくても、分かるようになって」

 

「……分かるように?」

 

「うん。わたしが笑ってるかどうかとか」

 

「……それは、もう分かる」

 

「え」

 

「今、無理やり明るくしてる。見てなくても分かる。私はお姉ちゃんだから」

 

「っ……うわ、やだ、ばれてるじゃん」

 

 響魂が慌てているのが分かって、ミカはほんの少しだけ今度こそちゃんと笑えた気がした。上手くはない。でも、少なくともさっきより自然に。

 

「……また来るね」

 

「うん」

 

「またね、ミカ姉」

 

「またね」

 

 扉が閉まり、妹の足音が遠ざかる。

 病室には再び静けさが満ちた。

 けれど、その静けさの質が最初の頃とは少し違う。孤立した空白ではなく、家族の言葉の余熱が残る静けさ。手の中にまだ響魂の体温が残っている気がして、ミカは自分の指先をゆっくりと握った。

 会えてよかった。

 その気持ちは本物だ。

 でも、やっぱり同時に苦しい。会えたからこそ、自分がどれだけ遠くへ行ってしまったのかが分かる。家族は優しい。受け入れようとしてくれている。なのに、自分の方がうまく帰ってこれてない。抱きつけない。泣けない。普通の会話をしているだけで、どこかに緊張が残ったままだった。

 自分はもう壊れているのかもしれない、とミカは思った。

 壊れて、削れて、戦場の形に削り直されてしまった。だからこうしてベッドの上で家族の声を聞いていても、どこかでずっと出口や危険や逃走経路を探してしまう。優しい手に触れられても、どこかで反射で身構えてしまう。

 それでも家族は来る。

 今日も、明日も、たぶん来るのだろう。

 諦めずに、自分をこちら側へ引き戻そうとしてくれている。

 その事実だけが、痛みと同じくらい確かな熱を胸の中へ残していた。

 

 日が沈み夜は深くなっていく。

 機械音は規則的で、空調は静かに回り続ける。外の風が窓の隙間を撫でる音がした。病院の夜は、王都の夜とは違う。誰も死なず、誰も叫ばず、ただ眠りへ向かうための静けさがある。

 ミカはその静けさの中で、ゆっくりと息を吐いた。

 家族は、まだ手放していない。

 自分のことを。

 そのことが嬉しいのか、怖いのか、まだはっきりとは分からなかった。けれど少なくとも、ひとつだけ分かることがあった。

 

 自分は帰ってきたのだ。

 

 まだ心は戦場に立ったままで、身体も傷だらけで、何ひとつ上手く噛み合わないままだけれど、それでも確かに帰ってきた。

 そして家族は、その不格好な帰還を、ちゃんと受け止めようとしてくれている。

 その事実が、ミカの胸のどこか深い場所で、痛みと一緒に静かに沈んでいった。

 

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