松下千秋にセ〇ハラしたい   作:マメち

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第一話

深夜2時。

 

PCのファンが鳴いている。それ以外、何もない。

 

「……はぁぁぁぁぁぁ、完全にクソゲーじゃんか」

 

スタッフロールが流れている。『ようこそ実力至上主義の教室へ』の二次創作シミュレーション。グラフィックは良かった。AIの思考ルーチンも、原作のヒリついた心理戦を再現したシステムも、文句のつけようがなかった。

致命的な問題が一点だけあった。

 

主人公が綾小路清隆だということ。

 

画面の中、一之瀬帆波がこちらを見ている。エンディングの彼女は座っていた。膝の上で両手を組んで、焦点の合わない目をしていた。口元だけが笑っていた。

 

*——清隆くん。私、清隆くんだけでいい。他は全部どうでもいい。命令して。何でも言うから*

 

俺はマウスから手を離した。

 

彼女が壊れたのではない。壊されたのだ。綾小路という劇薬が彼女の「善性」を重力として利用した。誰よりも他人を信じ、誰よりも仲間を守ろうとするその性質を——てこの支点にした。かけた荷重は彼女自身の善意だ。

 

「……救ったんじゃなくて、壊しただけじゃないか」

 

声が思ったより低かった。

 

綾小路清隆という男のやり方は効率的だった。帆波が抱えていたストレスを限界まで高め、「自分以外に縋るものがない」という状況を、外科手術みたいな精度で作り上げた。彼女は確かに生き残った。Aクラスにも上がった。

 

ただ、もう笑っていなかった。

 

あの眩しさが、なかった。

 

椅子の背もたれに体を預ける。天井のシミを数える。三つ。

 

帆波が壊れたのは、彼女が弱かったからじゃない。あの「光」の量が多すぎたのに、それを守る人間がいなかったからだ。綾小路みたいな劇薬じゃなく——彼女の代わりに泥を被る「誰か」が。

 

彼女が笑っていられるように、その笑顔が曇る前に汚れ仕事を全部引き受ける。嘘をつく。罠を仕掛ける。必要なら裏切る。そういう「誰か」が。

 

「……俺がやれば、よかったんだ」

 

言葉にすると、思ったより本気だった。

 

 

 

彼女の「光」を守るには汚れ役が要る。嘘をつき、罠を張り、手を汚す人間が。綾小路がやったことを、綾小路と逆の動機でやる人間が——必要だ。

 

問題は別のところにある。

 

そういう役を演じ続ける人間の内側だ。聖人でいることは俺にはできない。清廉潔白な彼女の隣で「良い子」を演じ続ければ、その反動はどこかに向かう。向かわなければ俺が壊れる。

 

視線が画面の隅に引っかかった。

 

クラス別生徒リスト、Dクラス。

 

**松下千秋。**

 

写真の中の顔は整っていた。整いすぎていた。頬杖をついた姿勢に「私はここにいるべき人間ではない」という信念が滲んでいる。隠された身体能力、隠された知性、そして——隠し方が下手なプライド。

 

「いい」

 

自分の声が、さっきと違う温度をしていた。

 

帆波の前では「理想の弟分」を演じる。それは本物だ、偽物ではない。だが裏では——この女を引きずり下ろす。安全圏から他人を見下すその顔を、俺だけが知る場所で歪ませる。嫌がらせと呼ぶには生温い。もっと直接的な言葉がある。

 

俺にはその言葉を使う資格がある。なぜならこれは俺の欲だからだ。帆波のためではなく、俺自身のための行為として、きちんと処理する。

 

「NEW GAME」

 

クリックした。

 

入力画面。名前の欄。

 

俺は一文字ずつ打った。

 

一ノ瀬 旭。

 

帆波と同じ音、違う字。偶然を演出するための最初の一手。この学校では使えるものをすべて使う。名前でさえ。

 

エンターキーを押した瞬間、モニターが白くなった。

 

意識が——

 

---

 

 

振動が背中から来る。

 

エンジンの音。バスだ。

 

目を開けると窓の外に橋があった。長い橋で、両側が海だった。閉鎖された島へ向かう一本道。俺の手の上にブレザーの袖がかかっている。手首が細い。俺の手なのに、記憶の中の俺より若い。

 

ポケットに手帳があった。表紙に名前が書いてある。

 

*一ノ瀬 旭*

 

本物になった。

 

バスのエンジン音が、背中の骨に響いている。

 

瞼を開けると、知らない天井があった。いや——知っている。知っているはずの場所が、現実の空気を纏って目の前にある。

 

窓の外。海へ続く長い橋。

 

(来た)

 

自分の手を見る。袖から出ている手首が、昨日までより細い。制服の袖口が白い。ポケットに手帳。開くと『一ノ瀬 旭』の文字が、自分の筆跡で書いてある。

 

顔を上げた。

 

バスの前方、優先席の手すりに軽く手を添えて立っている女がいた。

 

ストロベリーブロンドの髪が、バスの揺れに合わせてわずかに揺れている。肌が白い。顔の輪郭が柔らかい。周囲の空気のざわつきに馴染みながら、自分だけ少し別の光を帯びているような——そういう女だった。

 

一之瀬帆波。

 

心臓が一回、大きく打った。

 

まだ、壊れていない。物語が始まる前の彼女だ。あのエンディングの、焦点のない目じゃない。

 

それから、視界の端。

 

通路側から三列目。頬杖をついて、窓の外を見ている女。栗色の髪が肩の上で切り揃えられている。整いすぎた横顔。「私はここにいる連中と関係ない」と言い切っている目の色。

 

松下千秋。

 

写真で見るより、少し顎が鋭い。退屈そうに見えて、バスが揺れるたびに体の重心が微妙に動いている。無意識の体幹制御。隠している身体能力が、そういうところに出る。

 

(役者は揃ってる)

 

俺は立ち上がった。

 

揺れるバスの中を、手すりを伝いながら前へ進む。一之瀬帆波まであと二歩というタイミングで、路面の継ぎ目をバスが踏んだ。俺は計算した通りに重心を前へ流した。

 

「おっと——」

 

「あ、大丈夫?」

 

反応が、速かった。

 

伸びてきた手が俺の腕を掴んだ。

 

華奢だった。指が細くて、温かかった。至近距離で見る顔は——直視すると目に障る種類の眩しさをしていた。太陽を直接見るなという話と同じ構造だ。

 

「すみません、助かりました」

 

「ううん、気にしないで」

 

笑い方が本物だった。損得を計算しない人間の笑顔だ。

 

*使える。使えるが——*

 

人間は、一方向にだけ歪み続けることができない。聖人君子を演じ続けるなら、その反動が必要だ。ドス黒い部分の捌け口が。じゃないと——いつか、一番守りたいものに向かって、それが噴き出す。

 

「すみません。助かりました」

 

「ううん、気にしないで」

 

声が柔らかかった。嫌みのない柔らかさ。彼女はもう俺の腕から手を離していたが、体の向きはこちらを向いたままだ。

 

「私、一之瀬帆波って言います。三年間よろしく」

 

「……君も、一之瀬なんですか」

 

「え?」

 

きょとんとした顔。それから、自分の胸元の名札を確認して、俺の顔を見る。

 

「もしかして——」

 

「奇遇ですね」

 

俺はポケットから保険証を出した。『一ノ瀬 旭』の文字を、彼女の目の高さに持っていく。一秒の間があった。

 

「本当だ! カタカナの『ノ』!」

 

目が輝いた。計算通りではあったが、生で見るとその輝度が予想を上回っていた。俺は少し、目を細めた。

 

「親戚以外で同じ苗字の人に会ったの、初めてかも。なんか——弟ができたみたいで嬉しいな」

 

「待ってください。同い年で弟は変でしょう」

 

「でも旭くんって感じじゃないよ、絶対。旭ちゃんって感じ」

 

「……それは流石に怒りますよ」

 

「あはは! じゃあ握手しよ、弟」

 

 

差し出された手を、俺は握った。

 

小さかった。華奢だった。

 

だから若干、力を込めた。

 

 

「い、いた——なにするの!?」

 

「背が低くてもパワーは上ですよ」

 

「このっ……弟のくせに生意気だ!」

 

 

笑い声が上がった。屈託がなかった。俺も笑った。こちらは計算だったが、つられた部分が少しあったかもしれない。

 

帆波の警戒心がゼロになっていく感触が、手のひらからじわりと伝わってくるようだった。「同じ苗字」という一点で、俺は「他人」の枠から外れた。この女にとって、それで十分なのだ。

 

(かかった——じゃなくて)

 

俺は内側の言葉を、途中で止めた。

 

これは単純な罠じゃない。彼女はただ、善性のまま動いているだけだ。その善性を守るために俺がここにいる。順番が違う。

 

 

「あ、あのお婆さんに席譲ろうと思ってたんだけど、荷物が……」

 

 

帆波が通路の先を見ながら言った。白髪の女性が手すりにつかまって立っている。

 

 

「俺が声かけます。荷物、持っててください」

 

 

俺はすでに動き出しながら言った。

 

 

「え、ありがとう。旭くん気が利くね」

 

「姉に育ててもらいましたから」

 

 

でたらめを言いながら、老女の隣に立った。席を譲る。礼を言われる。帆波が嬉しそうな顔でそれを見ている。

 

そのやり取りを——視界の端が捉えた。

 

松下千秋が、こちらを見ていた。

 

頬杖のまま。興味なさそうに。だが視線の焦点は、確かに俺の上にあった。

 

*(初対面で姉弟ごっこ。寒い)*

 

口は動いていない。だがその目が、そう言っていた。俺と目が合った瞬間、彼女は視線を窓の外へ戻した。鼻を鳴らす音が、聞こえた気がした。

 

俺の背筋を、何かが這い上がった。

 

 

冷たくて——心地よかった。

 

あの目だ。俺の「演技」を透かして見ているつもりの、あの確信に満ちた冷めた目。俺をただの調子のいい男と値踏みして、最初から最後まで自分の方が上だと思い込んでいる目。

 

 

その目が歪む瞬間を——

 

 

「旭くん? どうかした?」

 

帆波の声に、俺は顔を戻した。

 

「いえ」

 

最高の弟の顔を作った。

 

 

 

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