バスを降りた瞬間、昇降口に人だかりができていた。
クラス分け表だ。
「あーあ」
隣に立った一之瀬帆波が、眉尻を下げる。形のいい唇が、子供みたいに尖った。
「残念。旭くんとはクラス違っちゃったね」
帆波はBクラス。俺はDクラス。既定どおりだ
「仕方ないですよ」
俺は言う。
「でも何かあれば、すぐ飛んできますから」
「うん! お昼、絶対一緒に食べよ? 約束だよ!」
周囲の男子の視線が刺さる。羨望と嫉妬が混ざった、あの特有の眼差し。
最高だ。
「じゃあまた後でね、旭くん!」
「行ってらっしゃい。姉さん」
手を振って校舎へ消えていく背中を見送り、俺は一人になった。
人ごみが引く。ネクタイを一センチ緩め、Dクラスへ向かう。
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◇
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教室の空気は、すでに澱んでいた。
窓際に堀北鈴音。その斜め前に綾小路清隆が無気力に座っている。須藤健が後ろの席で椅子を引っかいている音がする。
だが俺の視線はそのどれにも止まらない。
教室の中ほど、窓側の席。
栗色の髪の少女が、スマホをいじっていた。
バスで見かけた顔だ。松下千秋。
一見、周囲に無関心な女子高生の擬態。だが目だけが違う。視線が教室をなめるように動き、誰がリーダーになるかを、誰が使えるかを、静かに値踏みしている。
まるで松下ルートを攻略しろと言わんばかりに彼女の隣席は俺へ転がり込んだ。
「ここ、いいかな」
顔を上げた松下の表情が、ほんの一瞬だけ歪んだ。
バスで繰り広げた「姉弟ごっこ」を見ていたのだろう。
彼女の目には「痛い男」という評価がはっきり書いてある。
「……空いてるけど。というか座席表見たんでしょ」
「ありがとう」
鞄を置き、椅子を引く。座る位置は通常より半歩分近い。
「さっきのバスでも一緒だったよな」
「……見てた。仲良さそうだったじゃない、首席の一之瀬さんと」
「帆波姉さんのこと? 本当にいい人だよ。話せばわかると思う」
「そう」
視線がスマホへ戻りかける。会話終了のサインだ。
俺は右手を差し出した。
「一ノ瀬旭。よろしく。」
「は?」という顔で俺の手を見る。
一秒、二秒。
無視の選択肢が頭をよぎったのだろうが、初日からクラスメイトとの関係を悪化させるのは「普通の女子高生」の立ち回りに反する。彼女はそう判断した。
「……松下千秋です。よろしく」
渋々、手が伸びてくる。
華奢な指先だった。手入れが行き届いている。だが握り返したとき、その芯にある力に俺は内心で息をのんだ。
帰宅部の手ではない。
——捕まえた。
握手を続けたまま、親指の腹を彼女の手の甲に這わせた。
「っ——」
肩がびくりと跳ねる。引き抜こうとする手首を、俺は逆に引き寄せた。二人の顔が、急に近
くなる。
「な、何——」
「綺麗な手なのに」
俺は小声で言う。
「変な筋肉の付き方してるな」
松下の息が止まる。
「帰宅部じゃないよな。何かやってた? ……それとも、何か別のことを『隠してる』のかな」
瞳孔が、きゅっと収縮した。
図星を突かれた顔ではない。「なぜわかった」という顔だ。
「……離して」
「ごめんごめん、肌触りがよくて」
パッと手を離す。何事もなかったようにヘラと笑う。
「これからよろしくね、千秋ちゃん」
そう言うと更に目を開き、彼女は一度深呼吸をして体制を整えた。
「……はぁ。隣人ガチャ外れかな?一ノ瀬くん。イケメンだからってなんでも許されるわけじゃないんだよ?だから…気安く呼ばないで。」
松下は自分の手をスカートの布地に押しつけるようにして、俺を睨んだ。その目から「無
関心」の色が消えている。代わりに「警戒」と、薄い「嫌悪」と——判断を保留している目
が、俺を測っている。
悪くない。
「——ホームルームを始める。席につけ」
茶柱佐枝が入ってきた。
俺は前を向く。机の下で足を組み、つま先を松下の太ももの側面にそっと当てた。
「っ」
息を呑む気配。足が引かれる。
俺は気づかないふりで黒板を見たまま、口元だけで笑った。
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◇
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「今月分として、お前たちの学生証には十万プライベートポイントが振り込まれている」
茶柱が言い終わった瞬間、教室が爆発した。
「マジかよ!」
「何でも買えんじゃん!」
池が椅子から転がり落ちそうな勢いで叫んでいる。女子たちがスマホ画面を見せ合っている。
俺は隣を見た。
松下千秋が、スマホの残高表示をじっと見ていた。
表情は「すごい」と驚いたふりをしている。だが目は笑っていない。
*本当に、リスクなしで?*
そう疑っている目だ。
俺は体を斜めに傾け、彼女の顔を下から覗き込んだ。
「すごいね、千秋ちゃん。いきなり大金持ちだ」
松下が露骨に体を引いた。
「……だから、その呼び方やめてって言ってるでしょ」
「いいじゃないか、クラスメイトなんだし。それにしても10万円かぁ……。これだけあれば、君のその『綺麗な見た目』を維持する化粧品も、たくさん買えそうだね」
耳元での囁き。 松下はハッとして俺を睨んだ。
「……何が言いたいの?」
「いや? ただ、君は周りの女子よりも身だしなみに気を使ってるみたいだからさ。お金がかかって大変そうだなって思っただけだよ」
これは半分カマかけで、半分は事実だ。 彼女は自分の価値を高めるための投資を惜しまない。 「金がかかる女」というレッテルは、彼女にとって決して不快なものではないはずだが、俺の言い方には含みがある。
「っ、余計なお世話。……あんたこそ、一之瀬さんに何か奢ってあげたら? 『弟』なんでしょ?」
皮肉で返してくる。
俺はさらに距離を詰めた。二の腕が彼女の肩に触れる。
「帆波姉さんはそういう人じゃないよ。きっと自分のためより、みんなのために使おうとする」
「は……?」
「だから、俺が守らないといけない」
真面目なトーンで言い、それからすっと唇を彼女の耳元に近づけた。
「俺の『個人的な欲望』に使う金は別だけどね。——ねえ、千秋ちゃん」
「っ……近い——」
のけぞろうとする彼女のローファーのつま先を、俺の足で踏む。逃げ道をふさぐ。
「もし今月ポイントが余ったら、俺にちょうだいよ」
「は!? なんであなたなんかに——」
「代わりに、この学校の『本当の仕組み』を教えてあげる」
松下の動きが止まった。
「……何か、知ってるの」
「さあ。どうだろうね」
踏んでいた足を離し、体を戻す。
ちょうど茶柱が「質問がなければ終わる」と告げたタイミングだった。
「また後でね」
立ち上がり、ウインクを投げる。松下は呆然としたまま、探るような目で俺を見ていた。頬が、怒りと羞恥と困惑で薄く色づいている。
チョロいとは言わない。
ただ、反応が素直で助かる。
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◇
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平田洋介が「みんな少し時間いいかな」と自己紹介の流れを作り始めるのを横目に、俺は席を
立った。
『協調性のない男』
松下の呆れた視線にウインクで返し、廊下へ出る。
Bクラスへ向かう。一之瀬帆波の元へ。
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◇
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Bクラスの前は、すでに明るかった。
中心に帆波がいる。周りに数人が集まり、彼女はすでにそこに小さな引力を作り出していた。
「帆波姉さん!」
入り口から声をかけると、彼女がパッと顔を上げた。花が咲くような笑顔で駆けてくる。
Bクラスがざわめく。
「あの首席の一之瀬さんが」
「さっきのDクラスの子じゃん」
「名前で呼んでる」
「超イケメンじゃない!?」
「激レア糸目だ!!」
俺の設定はギャルゲー仕様で顔立ちは良くなっているらしい。
「ちょっといいかな。廊下で」
「うん、いいよ」
人の少ない廊下の隅まで連れ出し、声を落とす。
「ポイントのことなんだけど」
「十万円ね! 夢みたいだよね!」
「姉さん」
俺は彼女の目を正面から見る。
「使わないほうがいいかもしれない」
帆波の表情が変わった。
「……どうして?」
「国が運営する高校が、ただの高校生に毎月十万を、リスクなしで渡す理由がない。罠か、評価の一部か——どちらにしても、素直に使うのは危ない気がする」
俺は彼女の両肩に手を置いた。
「姉さんは優しいから、友達のために使おうとすると思う。でも、今月だけは様子を見てほしい。俺の考えすぎなら、それでいいから」
これは同時に刷り込みだ。
「俺は姉さんの役に立てる弟だ」という印象の積み上げ。そして、帆波が極貧に落ちる
未来を、俺は純粋に阻止したいとも思っている。
その二つは矛盾しない。
「……わかった」
帆波は頷いた。
「旭くんがそこまで言うなら、気をつける。確かにうまい話すぎるよね」
「ありがとう。——姉さんに何かあったら、許さないから」
「頼もしいなあ」
彼女が俺の頭を撫でた。
温かい手だ。
俺はその温度を背中に感じながら、Dクラスへ踵を返す。
彼女の「光」が、俺の歪んだ内側を照らす。影がより黒く見える。
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◇
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戻ると、ちょうど軽井沢恵の自己紹介が終わったところだった。
「遅れてすみません」と軽く手を上げ、滑り込むように席に座る。
「どこ行ってたのよ。半分終わったわよ」
松下が小声で言う。もう最初の口調とは変わっている。俺にだけ向ける声のトーンが、すでに別物になっていた。
「姉さんに会いに」
「ブラコンも大概にしなさいよ」
「シスコンだよ。間違えないでくれ」
平田がこちらに気づく。
「戻ってきたね。じゃあ次、お願いできるかな」
俺は立ち上がった。
クラス全体が向いてくる。俺は一拍置いて、口を開く。
「一ノ瀬旭です。Bクラスに遠い親戚がいて、姉弟みたいな感じで仲良くしてます。——趣味は、人間観察かな」
教室にさざ波が立つ。
「一之瀬さんの?」「あの首席の?」「コネじゃん」。
「一見普通に見えて、実は裏で何を考えているかわからない人を見つけるのが好きで。」
のが好きで。」
俺は視線を教室全体に流し、最後に松下で止めた。
「というわけで、特に秘密を持ってる人と仲良くしたいと思ってます。よろしく」
拍手はまばらだったが、注目は集まった。
着席する。
「……今の、私への当てつけ?」
松下が低く言う。
「一般論だよ」
机の下で彼女のふくらはぎを靴先で撫で上げた。
「っ——!」
声を上げられない。教室の喧騒の中、彼女の太ももが緊張で硬くなる。
顔だけが、ゆっくりと紅潮していく。
「やめ……変態……っ」
「しーっ。平田くんがこっち見てるよ」
俺は平然と前を向いたまま言う。
「次は俺の番か……」
斜め後ろから、気だるい声がした。
綾小路清隆が立ち上がる。
俺は松下の足を解放してやりながら、ほくそ笑んだ。
役者は揃っている。
これが始まりだ。