昼休みのカフェテリア。 俺、一ノ瀬旭は、約束通り一之瀬帆波と、彼女の友人である網倉麻子、白波千尋と共にテーブルを囲んでいた。 周囲からの視線は痛いほどだ。一人だけの男子が、Bクラスの面構えのいい女子たちに囲まれて食事をしているのだから当然だろう。
話題の中心は、今朝から生徒たちの間で出回っている非公式のアプリ『イケメンランキング』についてだった。
「えっと……旭くん、3位に入ってるんだね。すごい!」
帆波がスマホを見ながら、純粋に感心した声を上げる。
1位はAクラスの里中聡。2位はDクラスの平田洋介。そして3位に俺、一ノ瀬旭がランクインしていた。
入学直後だからこの順位には意味がある。単純に顔面力のみで測られるからだ。だが、問題はその『投票コメント』の内容だった。
「でも、コメントがちょっと……」
帆波が眉を下げて、画面の文字を読み上げる。
「『典型的な京弁を使いそうな糸目男』……」 「『笑顔が嘘くさい』『この子絶対裏切るって感じが良い』……」
「『人の心がなさそう』……ええっ?」
「極めつけはこれだね。『冷たい目で見下されて罵ってほしい』……」
読み上げながら、帆波は悲しそうな顔で俺を見た。
「こんな評価だけど……嘘だよね……? 旭くん」
彼女は本気で心配している。俺が傷ついているんじゃないかと思って。 俺は細めた目(糸目)をさらに細め、トレードマークの「胡散臭い笑顔」を貼り付けたまま答える。
「あはは、ひどい言われようだなぁ。生まれも育ちも普通だし、裏切るなんて滅相もないよ。……ただ、昔から『目が笑ってない』とはよく言われるけどね」
「もう! みんな旭くんの優しさを知らないんだよ。私がちゃんと訂正しておこうかな……」
プンスカと怒る帆波。本当にいい子だ。 だが、その横でサンドイッチを食べていた網倉麻子と白波千尋の反応は違った。彼女たちは冷静に俺を分析していた。
「でもさー、帆波ちゃん。あたしたち的には、旭くんの評判いいよ?」
網倉があっけらかんと言う。
「え、そうなの?」
「うん。だってさ、男子って大体、帆波ちゃんのことジロジロ見るじゃない? いやらしい目つきで。でも旭くんはそれがない」
「……それは、わかります」
人見知りの激しい白波も、小声で同意して頷いた。
「旭くんって、ぶっちゃけて言うと帆波を性的な目で見てないのがいいんだよね。ちゃんと『家族』として見てるっていうか。下心がないから安心できるっていうか」
その言葉に、俺は内心で(その通りだ)と深く頷く。
帆波は俺にとって『聖域』だ。 泥にまみれた俺が唯一仰ぎ見る『光』だ。 そんな祭壇の女神に対して、発情するなんて不敬なことができるわけがない。俺の歪んだ性欲は、もっと別の——『汚してもいい影』に向くようにできている。
「そりゃそうだよ。俺にとって姉さんは憧れで、守るべき人だからね。そんな目で見るなんてありえない」
「ほらー! やっぱり旭くんは信用できるよ!」
網倉が笑い、白波も少しだけ警戒を解いた目を向けてくる。
帆波だけが「え、えへへ……なんか照れるなぁ」と頬を赤らめていた。
(完璧だ……)
「裏切りそう」というヴィジュアルイメージを持ちつつ、「でも一之瀬さんには誠実」というギャップ。 これで俺は、Bクラスという派閥に『安全な男』として入り込むパスポートを手に入れた。
「……あ、俺ちょっと飲み物買ってくる」
俺は席を立ち、自販機コーナーへ向かうふりをして、カフェテリアの柱の影へと移動した。 そこには——俺たちの様子を遠くから冷ややかに観察していた、栗色の髪の少女がいたからだ。
---
◇
---
自販機コーナーの死角。 俺は、コーヒーを買おうとしていた松下千秋の背後に、音もなく忍び寄った。
「よう、千秋ちゃん。奇遇だね」
「……っ!」
松下がビクリと肩を跳ねさせ、コーヒーのボタンを押し間違えそうになる。 彼女は振り返り、俺の顔を見るなり露骨に嫌な顔をした。
「……背後に立たないでよ。気配がないのよ、あんた」
「よく言われるよ。『人の心がなさそう』だからかな?」
俺は先ほどのランキングのコメントを引用して、ニヤリと笑う。 常に細めている目が、この時ばかりは少しだけ開き、獲物を狙う爬虫類のような光を宿す。
「聞いたわよ、あのランキング。……『裏切りそう』だなんて、言い得て妙ね」
「ひどいなぁ。俺はこんなに一途なのに」
「どこがよ。さっきも一之瀬さんにデレデレして……」
「おや? 嫉妬かな?」
俺は一歩踏み出し、松下を自販機と俺の体の間に閉じ込める。 いわゆる『壁ドン』だが、手はつかない。体全体で圧迫する。
「なっ……離れなさいよ。ここ、人が通るわよ」
「大丈夫、ここは死角だ。……それに、君も気になってるんだろ? 俺が本当に『裏切る男』なのかどうか」
俺は彼女の耳元に顔を寄せ、低い声で囁く。
「網倉さんたちは言ってたよ。『旭くんは帆波を性的な目で見てないから安心』だって」
「……だから何?」
「正解だよ。俺は姉さんには欲情しない。……でも、それは『他の女にも欲情しない』って意味じゃない」
俺の手が、松下の腰にそっと這う。 彼女の体が強張る。
「俺が『人の心がない』裏切り者なら……君みたいな、すました顔して腹の底で計算してる女を、めちゃくちゃにしてやりたいって思うかもしれない」
「……っ、やっぱりクズね……!」
松下は睨みつけてくるが、その瞳は揺れている。 『糸目キャラ』特有の、何を考えているか読めない不気味さと、色気。 それが今、自分だけに向けられているという事実。
「『罵ってほしい』なんてコメントもあったけど……逆だね」
俺は彼女の腰を引き寄せ、吐息がかかる距離で告げる。
「俺は、君がプライドを折られて、泣きながら俺に許しを乞う声が聞きたいんだ」
「——ッ!」
松下が息を呑んだ瞬間、俺はパッと体を離し、いつもの「糸目の笑顔」に戻った。
「おっと、そろそろ戻らないと姉さんが心配する。……コーヒー、奢ってあげるよ」
俺は自分のIDカードを端末にかざし、彼女が買おうとしていたカフェオレのボタンを押した。 ガコン、と落ちてくる缶。
「……じゃあね、千秋ちゃん。放課後、楽しみにしてて」
俺はヒラヒラと手を振り、一之瀬たちのテーブルへと戻っていく。 残された松下千秋は、取り出し口のカフェオレを握りしめながら、しばらくその場から動けなかった。
(あいつ……何なのよ、本当に……!)
「裏切りそう」な男の、嘘か本当かわからないアプローチ。 松下千秋の「計算」という防壁に、また一つ、大きな亀裂が入った。
昼休みが終わり、午後の授業が始まった。 教室の空気は、午前中よりもさらに緩みきっていた。
授業中だというのに、池や山内は隠れてスマホをいじり、須藤は堂々と机に突っ伏して寝ている。 教師たちはそれを注意しようともしない。ただ冷ややかな目で、タブレット端末に何かを入力しているだけだ。
(……マイナス、マイナス、マイナス、と)
俺は頬杖をつき、糸目の奥でクラスメイトたちの「自殺行為」を冷笑していた。 この学校のSシステム。 彼らは気づいていない。自分たちのその怠惰な態度が、来月の給料(ポイント)をリアルタイムでドブに捨てているという事実に。
俺の視線は、隣の席へとスライドする。 松下千秋は、真面目にノートを取っているふりをしながら、教師の挙動を不審そうに観察していた。
(教師が注意しないことに違和感を持ってるな。さすがだ)
彼女のその「勘の良さ」は、俺の計画に不可欠だ。 このバカばかりのDクラスで、俺の手足となって動く「共犯者」が必要だからな。
俺は教科書の端を破り、サラサラと走り書きをした。
『放課後、図書室の奥へ。 この学校の「本当のルール」と、 来月の君の所持金が「ゼロ」になる理由を教える』
俺はその紙片を小さく折り畳むと、机の下で手を伸ばした。 隣の松下の太ももの上に、ポトリと落とす。
「っ……!」
松下がビクリと肩を震わせ、殺人級の睨みを俺に向けてきた。 『授業中よ、何してんの変態』という口パクが見える。 俺は人差し指を唇に当て、「シーッ」と笑って、自分の股下を指差した。
彼女は嫌そうな顔をしながらも、太ももの上の紙を拾い上げ、こっそりと開く。 その内容を読んだ瞬間——彼女の瞳孔が開いた。
『来月の所持金がゼロ』 『本当のルール』
金と保身。彼女の琴線に触れるキーワードだ。 松下は横目で俺を見た。 「嘘だったら承知しないわよ」という鋭い視線。 俺は口角だけでニヤリと笑い、小さく頷いてみせた。
(商談成立だ)
---
◇
---
放課後。 多くの生徒が部活やケヤキモールへと流れる中、俺は人気の少ない特別棟の図書室に向かった。 静寂に包まれた館内。 一番奥の、書架に囲まれた死角となるスペース。
そこに、腕を組んで不機嫌そうに待つ松下千秋の姿があった。
「……遅いわよ、糸目」
「人聞きが悪いな。ホームルームが終わってすぐ来たよ」
俺はヘラヘラと笑いながら近づく。 松下は警戒心を露わにしながら、俺を睨み据えた。
「で? 『来月のポイントがゼロになる』ってどういうこと? 私たちには毎月10万ポイントが振り込まれるって説明だったはずよ」
「茶柱先生は言った。『今月分として』10万ポイントを振り込む、とね。『毎月』とは一言も言ってない」
俺の指摘に、松下の眉がピクリと動く。
「……言葉の綾よ。そんな詐欺みたいなこと、国がするわけ……」 「この学校は『実力至上主義』だ。何もしていない無能に、年間120万もの大金を与えると思うか? 俺なら与えない」
俺は一歩、また一歩と距離を詰める。 松下は背後の本棚に背中を預け、逃げ場を失っていく。
「授業中の私語、居眠り、遅刻。それらすべてが『減点対象』だとしたら?」 「減点……?」 「教師たちがタブレットに入力していたのは、評価だ。Dクラスの今の惨状なら……来月1日の支給額は、限りなくゼロに近いだろうね」
松下の顔から血の気が引いていく。 彼女は頭の回転が速い。俺の言葉が「あり得る話」だと直感的に理解したのだ。 おしゃれやカフェ、優雅な高校生活。それらがすべて崩れ去る未来を想像して。
「そ、そんな……。じゃあ、どうすれば……」
「止める方法は一つしかない。クラスの連中を統率して、マイナスを減らすことだ」
俺は松下の目前まで迫り、片手を彼女の耳の横——本棚のフレームにドンとついた。
「でも、俺一人じゃ手が足りない。表立って動けば、俺の『無害な一般生徒』というポジションが崩れるからね」
「……私に、協力しろっていうの?」
「ご名答。君は頭がいい。状況判断も早い。そして何より——」
俺は顔を近づけ、彼女の髪を一房、指先で掬い上げた。
「自分の実力を隠している『嘘つき』だ。俺と相性がいい」
「っ……! ちょっと、近い……」
松下が嫌そうに顔を背け、俺の手を払いのけようとする。 だが俺は、彼女が払うよりも早く指を離し、今度は自然な動作で、彼女の制服の襟元を整えるように手を伸ばした。
「リボン、曲がってるよ」
「自分でやるから触らないで!」
松下がパシッと俺の手を叩く。 乾いた音が響くが、俺は痛みなど感じていないかのように、ニヤニヤと笑い続けた。
「手厳しいなぁ。これからパートナーになるかもしれない相手なのに」
「誰がパートナーよ。……情報は感謝するけど、あんたと組むなんて言ってない」
「おや? 君は特権がほしいんじゃないのか?」
その言葉に、立ち去ろうとした松下の足が止まる。
「今のままだと、Dクラスは沈没船だ。泥舟に乗ったまま沈むか……俺と組んで、裏からクラスを操縦するか」
俺は彼女の背後に回り込み、耳元で囁く。
「俺は、君を一番いい席に座らせてやれる自信があるよ」
悪魔の勧誘。 松下の背中が強張るのがわかる。 拒絶したい生理的嫌悪感と、Aクラスへの渇望。天秤にかけて揺れている。
「……条件は?」
「簡単さ」
俺は彼女の肩に手を置いた。 今度は払われなかった。 それをいいことに、俺の手は肩から二の腕へ、そして背中へと、まるで値踏みするようにゆっくりと這わせていく。
「俺の手足となって動くこと。……そして、俺の『スキンシップ』を拒まないこと」
「はあ!? 何よそれ、セクハラじゃない!」
「人聞きの悪い。俺は『仲間』との絆を深めたいだけだよ。……ほら、海外の挨拶みたいなもんだ」
言いながら、俺の手は彼女の腰——スカートのウエスト部分に到達していた。 服の上からでもわかる、くびれのライン。 俺はわざと指に力を入れ、その柔らかさを確かめるように揉んだ。
「ひゃっ……!?」
松下が小さく悲鳴を上げ、体をよじる。
「や、やめなさいよ! ここ学校よ!?」
「大丈夫、誰も見てない。それに、大きな声を出したら……『松下千秋は実は計算高い女だ』って、クラス中に言いふらすことになるかもな。君との会話は録音してあるから」
「っ……! 最低……!」
松下は真っ赤な顔で俺を睨みつける。 だが、その場から逃げ出さない。逃げ出せない。 俺の持つ情報と戦略が、彼女にとってあまりにも有益だからだ。
「ん、いい感触だ。スタイル維持にも金がかかってるのがわかるよ」
俺は嫌がる彼女の腰を執拗に撫で回し、さらには指先で背骨をなぞり上げる。
「くっ……ん……離して……!」
「交渉成立だね、千秋ちゃん。……これからよろしく」
俺は最後に、彼女の耳たぶを甘噛みするような距離で息を吹きかけ、パッと体を離した。
「っ~~~!!」
松下は脱兎のごとく距離を取り、自分の耳と腰を必死に拭っている。 その目は潤み、完全なる軽蔑と、わずかな恐怖に彩られていた。
「あんた……いつか絶対、足元掬ってやるから……!」
「あはは、楽しみにしてるよ。……あ、そうだ」
俺は出口へ向かいながら、思い出したように振り返る。
「姉さん……一之瀬帆波には、今の会話は内緒だよ? 俺はあくまで『可愛い弟』じゃなきゃいけないんだ」
「……言わないわよ。あんたに関わってるって思われたくないもの」
「助かるよ。じゃあね」
俺はひらひらと手を振り、図書室を後にする。そしてため息をついた。
(種まきはした。一息つくか)
そのとき、柔らかい感触がした。
「君さ、手慣れてる感じがしたけど」
松下が後ろにいた。
「!?」
「悪巧みしたあとに深呼吸とか、意外と可愛らしいところもあるんだね」
「…どうしたの、千秋ちゃん。報酬の前払いかな?」
「あんたのことなんて信用できるわけ無いでしょ、バーカ」
そういうと俺の手に柔らかい球体状のものが掴まれる。
「…痴女かな」
「これで指紋はべったりついた。あんたがもし嘘ついてたらパートナー関係はなし。5月までは見定めさせてもらうわ。」
「…僕たちはDクラスだよ?取り返しのつかないことになっても…」
「あんたみたいな糸目にあのでこぼこクラスのリーダーが務まるわけ無いでしょ。どう考えても平田くんがそのポジションに付くわ」
「ふーん。軽く見られてるわけだ。仕返しする余裕があるとは正直思わなかったな、ますます興味があるよ。千秋ちゃん」
本当にますます興味が湧いてきた。俺の黒い感情をどこまで彼女は受け止められるだろうか。
「あんたのことはそれとなく評判がよいように流しとくけど、私の秘密を喋ったらただじゃおかないから。」
「わかった。じゃあ——」
俺は踵を返しかけて、止まった。
「5月まで、か。随分と猶予をくれるんだね」
「勘違いしないで。あんたの化けの皮を剥がすのに必要な時間よ」
松下の声は平静を取り戻していた。さっきまで潤んでいた目が、もう乾いている。切り替えが早い。やはり、只者じゃない。
「一つだけ聞いていい?」
「何?」
「さっき、逃げなかった理由」
沈黙。
松下は視線を本棚の背表紙に向けたまま、しばらく動かなかった。やがて、細い指先でリボンの結び目を引き締めながら、吐き捨てるように言った。
「逃げたら負けでしょ」
それだけだった。
俺は口角を上げる。
「そうだね。正解だ」
「褒めてもらわなくて結構。……行くわよ、邪魔」
松下は俺の横をすり抜けていく。すれ違いざま、シャンプーか何かの匂いが鼻先を掠めた。甘いようで、どこか薬品っぽい。いかにも高そうな匂いだった。
靴音が遠ざかる。
書架の間に、静寂が戻る。
俺は一人、窓の外を見た。夕陽が校舎の壁を橙色に染めている。特別棟の下では、部活帰りの生徒たちが笑いながら歩いていた。何か知っていそうな顔で。
(……5月か)
廊下に出ると、掃除当番の生徒が隣のクラスの床を拭いていた。バケツの水が、薄暗い蛍光灯の光を反射してゆらゆらと揺れている。
(Dクラス、か)
平田くん、と松下は言った。あの男が前に出ると、確かに絵になる。顔がよくて、声がよくて、誰に対しても誠実そうに見える。あの手のタイプは使いやすい——本人がそれを望まなくても。
問題は、俺が前に出ないことで誰かが割を食う構造にならないよう、駒を配置することだ。
(急ぐ必要はない)
俺は靴底の音を殺しながら階段を下りる。
手には、まだほんのり体温が残っていた。