松下千秋にセ〇ハラしたい   作:マメち

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第四話

入学して数日が経過し、クラス内の人間関係の図式は固まりつつあった。

女子のカースト上位は、軽井沢恵を中心としたグループ。 そこには佐藤麻耶、篠原さつき、そして——俺の「共犯者」である松下千秋も、あくまで「オシャレな女子高生」の一員として自然に溶け込んでいた。

 

本来なら、この時期のDクラス男子は、女子グループとの接点を持てず分断されていることが多い。

 

だが、俺は違う。 「一之瀬帆波の弟分」というブランドに加え、この数日で俺は男子側のヒエラルキーも掌握しにかかっていたからだ。

 

 

          ◇

 

 

4月の体育、屋内プール。 Dクラスの初体育の授業で、早速事件は起きた。

 

「すごいな…須藤。水泳部に入る気はないか?」

 

「そんなのごめんっすよ。俺はバスケ一筋なもんで。おいコラ! 俺より速く泳げる奴はいねーのかよ! バスケ片手のやつに恥ずかしくねーのか!?」

 

須藤健が吠えていた。 誰もが彼の威圧感に尻込みする中、俺は水泳キャップを被りながら、彼の隣のレーンに立った。

 

「じゃあ、俺が相手しようかな」

 

「ああん? 一ノ瀬……お前、そんなヒョロい体で勝てると思ってんのか?」

「やってみないとわからないよ」

 

俺が笑うと、さらにもう一つの影が落ちる。

 

「フフフ……。美しさだけでなく、速さもまた私が頂点であることを証明してあげよう。レッドヘアーくん」

 

高円寺六助。 授業に参加する気配すらなかった彼が、なぜか俺たちの勝負に興味を持ったらしい。

 

「面白くなってきたな。……よーい、ドン!」

 

スタートの合図と共に、俺たちは水面を割った。 須藤の力強いストローク。高円寺の無駄のない、まるでイルカのような推進力。 俺は——その二人に、ピタリと食らいついた。

 

(本気を出す必要はない。だが、ナメられるわけにもいかない)

 

俺はあえて「僅差の2位」を演出しながらゴールタッチした。もちろん、須藤と同着、高円寺が1位だ。

 

 

「はぁ、はぁ……! お、お前、やるじゃねえか一ノ瀬!」

 

 

須藤が驚きの表情で俺を見る。 不良にとって、身体能力の高さはそのままリスペクトに直結する。

 

 

「須藤くんこそ速いね。バスケ部だっけ? 肺活量がすごいな」

 

「へへっ、まあな!」

 

 

水泳部のコーチは高円寺の勧誘に夢中になっている。これで目立たずに速さだけは証明できたというわけだ。

 

単純な須藤を懐柔しつつ、俺はプールサイドへ上がる。 水に濡れた髪をかき上げると、女子たちがこちらを見てざわめいているのがわかった。

 

 

「一ノ瀬くん、意外と筋肉すごくない?」

 

「細マッチョってやつ? ヤバい、目の保養……」

 

 

その視線の中に、松下千秋のものもあった。 彼女は、俺の腹筋の割れ具合をジッと観察している。

 

 

(……あいつも身体能力が高い。俺の筋肉の付き方から、実力を測ろうとしてるな?)

 

 

俺は松下に向けて、水滴の滴る体で爽やかに手を振った。 彼女は慌てて視線を逸らし、篠原との会話に戻るふりをした。 その耳が赤いのが、何とも可愛らしい。

 

 

 

          ◇

 

 

 

放課後。俺はグラウンドにいた。 Dクラスのまとめ役、平田洋介とパス回しをするためだ。

 

「ナイスパス、旭くん! 本当に初めて?」

 

「昔少しやってただけだよ。洋介くんこそ、プロ並みだね」

 

平田とはすぐに名前で呼び合う仲になった。 彼のような善人は、「裏表のない(ように見える)協力者」を常に求めている。俺がそのポジションに収まるのは容易かった。

 

だが、俺がサッカー部に入った本当の理由は、平田とのコネ作りだけではない。

 

 

「おーい! 平田ー! こっちとも練習試合しようぜー!」

 

 

爽やかな声と共に現れた、Bクラスの柴田颯。 サッカー部のエースであり、一之瀬帆波と同じクラスの男。 そして——原作において、帆波とやけに距離が近い「危険因子」だ。

 

(……見つけたぞ、害虫)

 

俺は内心で冷たく呟き、表面上は最高の笑顔で柴田に向き合った。

 

 

「あ、君がBクラスの柴田くんだね? 姉さんから聞いてるよ」

 

「えっ、姉さん? ……あ、もしかして一之瀬の!」

 

柴田が目を丸くして近づいてくる。

 

 

「すげー! 本当に『一ノ瀬』なんだ! 俺、柴田。よろしくな!」

 

「こちらこそ。……柴田くん、姉さんと仲良くしてくれてるんだって?」

 

 

俺は握手を交わしながら、グッと指に力を込めた。 柴田は気づかないまま、「おう! 一之瀬はいい奴だからな!」と笑う。

 

「そうだね。姉さんは優しすぎるから……悪い虫がつかないか、俺、心配なんだ」

 

「あはは、確かにモテるもんなぁ」

 

「だからさ、柴田くん。……『変な男』が近づかないように、部活中も見張っててよ。頼れるのは君みたいな、純粋でたくましい男の子だけだ」

 

俺は「信頼」というオブラートに包んで、「お前も『姉さんの男』候補じゃなくて『番犬』になれ」という呪いをかけた。

 

柴田のような直情型は、こうやって役割を与えれば、無意識に「守る側(恋愛対象外)」に回ってしまうものだ。

 

「おう! 任せとけって! 弟くん公認なら張り切るわ!」

 

(チョロいな……)

 

これでBクラス方面の防壁も一つ完成した。

 

 

          ◇

 

 

 

部活を終え、教室に戻ると、数人の女子が残っていた。 軽井沢グループだ。

 

「あ、一ノ瀬くん! お疲れー!」

 

「サッカー部入ったんでしょ? 平田くんと一緒とか最強じゃん」

 

軽井沢恵と佐藤麻耶が声をかけてくる。 カースト上位の女子からの認知。これも計画通りだ。 俺は彼女たちと当たり障りのない会話を交わしつつ、帰り支度をしていた松下千秋の元へ近づいた。

 

 

「千秋ちゃんもお疲れ。……待っててくれたの?」

 

「……まあね。君、教科書貸したままじゃん。」

 

松下は呆れたように溜息をつきつつも、決して不機嫌な態度は見せない。 周囲の女子に対して「仕方ないから待っててあげた」というポーズを崩さないあたり、さすがの演技力だ。

 

「ごめんごめん。お詫びに何か奢るよ」

 

「いいよ別に。……それより、早くしてよ」

 

そんな俺たちのやり取りを見て、佐藤麻耶がニヤニヤと茶々を入れてくる。

 

 

「もー、相変わらず仲良いよねー、あんたたち」

 

「ホントホント。入学してすぐカップル成立とか、早すぎでしょー」

 

「えっ」

 

松下がわずかに反応するが、すぐに余裕のある笑みで返す。

 

「ちょっと、やめてよ佐藤さん。そんなんじゃないって」

 

「えー? でも旭くん、松下さんのことばっかり見てるじゃん」

 

「そ、それは……」

 

 

松下が言葉に詰まる。強く否定しすぎると「ノリが悪い」と思われるし、肯定するわけにもいかない。その絶妙な「困った顔」が、周囲には「照れ隠し」に映る。

 

俺はその隙を見逃さず、松下の背後に回り込み、耳元へ顔を寄せた。

 

「……今日のプールの授業、随分熱心に俺の体を見てたね」

 

「っ!?」

 

松下の肩がピクリと震える。

 

だが、彼女は逃げなかった。

 

軽井沢たちの手前、ここで過剰反応すれば怪しまれると計算したのだ。 彼女は引きつった笑顔を張り付けたまま、小声で応戦してくる。

 

 

「……自意識過剰よ。見てないわ」

 

 

「嘘つき。そんなに見たいなら、今度個別に『筋肉の付き方』教えてあげようか? ……君の『中身』も、詳しく知りたいしね」

 

 

誰にも聞こえない声量での、粘着質なセクハラ。

 

松下のこめかみに青筋が浮かぶのが見えた。内心では「死ね」と毒づいているに違いない。

 

けれど、彼女はあくまで「仲の良いクラスメイト」として、肘で軽く俺の腹を小突いてきた。

 

「もう、バカなこと言ってないで準備してよ。……置いてくぞ?なーんてね」

 

「はいはい」

 

表面上は「軽口を叩き合う二人」。

 

だがその実態は、俺が一方的に彼女の急所を握っている主従関係だ。

 

この「誤解」が広まれば広まるほど、松下は俺から離れられなくなる。

 

その時、教室のドアが開き、爽やかな風が吹き込んだ。

 

 

「あ、みんなまだ残ってたんだ」

 

 

サッカー部の練習を終えた平田洋介だ。 汗を拭きながら入ってきた彼は、俺と松下が並んでいるのを見て、花が咲くような笑顔を見せた。

 

 

「旭くん、お疲れ様。着替えるの早かったね」

 

「洋介くんこそ。一軍だから後片付けとか大変だったろ?」

 

「ううん、全然。……あ、そうだ」

 

平田はふと思いついたように、俺と松下、そして軽井沢たちを見渡した。

 

「もしよかったら、みんなでご飯食べて帰らない? 旭くんと松下さんも一緒に」

 

その提案に、佐藤たちが色めき立つ。 Dクラスのツートップ・イケメンからの誘いだ。断る理由がない。

 

 

「行く行くー! 平田くんと一ノ瀬くんとご飯とか最高じゃん!」

 

「松下さんも行くでしょ?」

 

話を振られた松下は、一瞬だけ俺をチラリと見た。

 

 

(断りたい。でも、ここで断ったら『彼氏(仮)の一ノ瀬』と一緒に帰ることになるかもしれないし、付き合いが悪いとも思われたくない……)

 

 

そんな葛藤が一瞬で読み取れる。

 

「……うん、いいよ。行こっか」

 

「やった! じゃあパレットに行こうよ!」

 

 

盛り上がる女子たち。

 

俺は平田の隣に並び、「じゃあ行こうか、洋介くん」と爽やかに微笑みかけた。 平田も「うん、そうだね」と優しく微笑み返す。

 

その光景——「正統派王子様」の平田と、「少しミステリアスな優男」の俺が並び立ち、互いに微笑み合う図。 それは、女子たちにとってあまりにも破壊力が高かったらしい。

 

 

「……ねえ、ちょっと」

 

「うん、わかってる……」

 

 

佐藤と篠原が、顔を赤らめてヒソヒソと囁き合う声が聞こえた。

 

 

 

「……旭くんと平田くんの並び、ヤバくない?」

 

「わかる……。なんかもう、絵画?」

 

「松下さんとお似合いだと思ってたけど……こっちもアリかも……」

 

「……朝陽尊い(あさようとうとい)……」

 

(……は?)

 

 

予想外の評価に、俺は一瞬だけ真顔になりかけた。 どうやら「一之瀬帆波の弟分」という属性と、平田との絡みが化学反応を起こし、一部の女子に「あらぬ幻想」を抱かせているらしい。

 

「旭くん? どうしたの?」

 

「いや……なんでもないよ。行こう」

 

 

俺は苦笑いで誤魔化しつつ、ちゃっかりと松下の隣をキープして歩き出した。

 

松下は、女子たちの「尊い……」という熱視線と、俺からの「湿っぽい視線」の両方に晒され、いたたまれなさそうに視線を彷徨わせている。

 

その「逃げ場のない顔」が、たまらなく唆(そそ)る。

 

(みんなで食事、か。テーブルの下で何ができるかな?なんてな)

 

俺は誰にも気づかれないように、歩きながら松下の手の甲を指先でなぞった。

 

彼女はビクッとしながらも、平田や他の女子にバレないよう、無言で俺の手をギュッと握り潰して抵抗してきた。

 

その抵抗すらも、俺にとっては心地よいスパイスだった。

 

 

 

 

 

          ◇

 

 

 

カフェレストラン『パレット』。 放課後の店内は、ポイント長者となった生徒たちで賑わっていた。

 

「ここ、座りなよ」

 

「あ、うん……」

 

 

俺はボックス席の奥、壁側の席を松下千秋に譲り、そのすぐ隣——逃げ道を塞ぐ形——で腰を下ろした。

向かいには平田洋介と軽井沢恵。 通路を挟んで佐藤麻耶と篠原さつきが座るという配置だ。

 

「みんな、注文は決まった?」

 

平田が爽やかにタブレットを操作する。 彼は自然に女子たちの希望を聞き出し、水を取り分け、完璧なレディーファーストを披露している。

 

「平田くんって本当、気が利くよねー」

 

「誰かさんとは大違い」

 

軽井沢がチラリと俺を見る。俺は肩をすくめた。

 

 

「俺は、千秋ちゃんの世話で手一杯だからね」

 

「……余計なこと言わないでよ」

 

松下がメニュー表で顔を隠しながら、小声で威嚇してくる。 だが、その太ももはすでに緊張で硬くなっていた。 なぜなら——俺の左手が、テーブルクロスの死角で、彼女の膝の上に置かれているからだ。

 

 

          ◇

 

 

料理が運ばれてくると、会話はさらに弾んだ。

 

 

「いただきまーす! うわ、このパスタ高かったけど美味しい!」

 

「ポイントあるし余裕だよねー。明日カラオケ行かない?」

 

篠原や佐藤が、メニューの中でも高額なセットを躊躇なく頬張っている。 松下も表向きは「美味しいね」と合わせているが、その瞳の奥には焦りが見えた。

 

(……このバカたち、来月の収入がゼロになるかもしれないのに)

 

彼女は俺から吹き込まれた情報のおかげで、この散財が「破滅への行進」に見えているはずだ。 俺は自分の安価なコーヒーを啜りながら、テーブルの下で彼女の膝をゆっくりと撫でた。

 

「っ……!」

 

松下がフォークを取り落としそうになる。

 

「どうしたの、松下さん?」

 

「ううん、なんでもない。……ちょっと足が痺れちゃって」

 

「大丈夫? 旭くん、席狭くない?」

 

 

平田が心配そうに聞いてくる。 俺は「糸目」を細め、申し訳なさそうに頭を下げた。

 

 

「ごめんね、洋介くん。俺がもっと詰めた方がいいかな?」

 

「いや、無理しなくていいよ。あ、僕の水飲む?」

 

 

平田が自分のグラスを差し出そうとする。 それを見た佐藤たちが、またしても色めき立った。

 

「……見た? 今の」

 

「見た。平田くんが旭くんに水あげようとしてた……」

 

「やばい、この二人セットだと画面が綺麗すぎる……」

 

 

女子たちの視線が「旭×平田」の尊い空間(と彼女たちが勝手に思っているもの)に釘付けになっている。 まさに絶好のチャンスだ。

 

俺はテーブルの下で、松下の膝に乗せていた手を滑らせ、彼女の左手を捕まえた。 彼女が抵抗しようと指に力を入れるが、俺はそれを強引にこじ開け、指と指を絡ませる——いわゆる『恋人繋ぎ』の形にする。

 

 

「……ッ!」

 

松下が顔を真っ赤にして俺を睨む。 だが、声は出せない。 目の前では、平田と軽井沢が楽しそうに会話している。 この状況で「手を握られてる」なんて叫べば、彼女が必死に守ってきた「普通の女子高生」の仮面が剥がれ、「一ノ瀬とイチャついている女」として確定してしまうからだ。

 

俺は左手で彼女の指を弄びながら、右手でサンドイッチを摘まみ、平然と会話に参加する。

 

 

「そういえば、洋介くん。サッカー部の次の試合っていつだっけ?」

 

「来月の頭だよ。旭くんもレギュラー狙えると思うな」

 

「まさか。俺はベンチで応援してるよ。……千秋ちゃんに応援してもらえるなら、頑張るけど」

 

 

俺は隣の松下に話を振る。 彼女は右手のフォークでパスタを巻きながら、左手を俺に握り潰される感覚に耐え、引きつった笑顔を作った。

 

 

「……気が向いたらね」

 

「つれないなぁ。でも、そういうとこも好きだよ」

 

 

俺はテーブルの下で、繋いだ手をさらに強く握りしめ、親指で彼女の手のひらをくすぐった。 敏感な部分を刺激され、松下の肩が微かに跳ねる。

 

 

(いい顔だ……)

 

 

みんなと楽しく食事をしているはずなのに、自分だけが逃げ場のない檻の中にいる。 その焦燥感と、男の体温を強制的に感じさせられる背徳感。 松下の理性が、音を立てて削れていくのがわかる。

 

 

「あ、そうだ。旭くん」

 

ふと、平田が思い出したように言った。

 

「一之瀬さん……Bクラスの一之瀬さんからメッセージ来てたよ。『旭くん、ちゃんとご飯食べてるかな?』って」

 

「えっ、平田くん一之瀬さんと連絡先交換してるの?」

 

「うん、部活のことで少しね」

 

姉さんの名前が出た瞬間、俺は繋いでいた松下の手をパッと離した。

 

 

「……そうなんだ。姉さん、心配性だからなぁ」

 

 

俺は何食わぬ顔でスマホを取り出し、すぐに返信を打つふりをする。 松下は解放された左手を膝の上に戻し、反対の手でその手首をさすっていた。 その顔には「助かった」という安堵と、俺の急変した態度への「不審」が混じっていた。

 

 

(……一之瀬さんの名前が出た途端、やめた?)

 

 

彼女の思考が手に取るようにわかる。

 

「一ノ瀬旭にとって、一之瀬帆波は絶対的な存在なのか?」 「あの子の前では、いい子でいたいのか?」

 

 

その通りだ、松下。 そしてそれは、お前にとっての「希望」であり「絶望」でもある。

 

 

俺はスマホをしまい、再びテーブルの下に手を伸ばした。 今度は手を握るのではなく、彼女の太ももの内側を、人差し指でツツ、となぞり上げる。

 

 

「ひぅっ!?」

 

 

松下が変な声を上げ、ガタンとテーブルを揺らした。 全員の視線が集まる。

 

 

「だ、大丈夫!?」

 

「ご、ごめんなさい! ちょっと虫が……!」

 

 

 

松下は真っ赤な顔で立ち上がり、「ト、トイレ行ってくる!」と言い捨てて逃げ出した。

 

 

「虫? いたかな?」 「松下さん、虫嫌いだからねー」

 

 

不思議がる平田たち。 俺は「心配だな、見てこようかな」と言いかけて、やめた。 追い込みすぎると壊れてしまう。今日はこれくらいで許してやろう。

 

 

「……あいつ、意外と可愛いとこあるんだよ」

 

 

俺は残された松下のバッグを見つめながら、愛おしそうに(傍目には恋人のように)呟いた。 女子たちが「ヒューヒュー!」と茶化す中、俺は冷めたコーヒーを飲み干した。

 

トイレの鏡の前で、赤くなった顔と乱れた呼吸を整えている彼女の姿を想像しながら。

 

カフェレストラン『パレット』での夕食会はお開きとなった。 平田と軽井沢たちは、店の前で楽しそうに連絡先を交換している。

 

 

          ◇

 

 

 

「じゃあね、旭くん、松下さん! 明日も学校で!」

 

「うん、またね」

 

 

 

俺は平田たちに手を振り、隣に立つ松下千秋に視線を移した。

 

彼女は完全に「オフ」の顔をしていた。

 

トイレから戻ってきて以来、彼女は俺と一切目を合わせようとしない。 だが、帰り道は同じ寮へ向かう一本道だ。

 

周囲からは「付き合いたてのカップル」と思われているため、別々に帰るわけにもいかない。

 

 

 

「……送っていくよ、千秋ちゃん」

 

「……勝手にして」

 

 

 

 

拒絶の言葉は弱々しい。

 

俺たちは並んで、夕闇に沈むケヤキモールを歩き出した。

 

春の夜風が心地よい。

 

だが、松下との間にはヒリヒリとした緊張感が漂っている。 俺は歩きながら、彼女の手の甲にわざと自分の手をぶつけた。

 

 

 

「っ、触らないで」

 

「冷たいなぁ。さっきの店ではあんなに熱かったのに」

 

「誰のせいだと……!」

 

 

 

松下が睨みつけてくるが、その目には涙が滲んでいた。 恐怖と屈辱。そして「どうして私がこんな目に」という理不尽への怒り。 最高だ。その表情が見たかった。

 

学生寮に到着し、エレベーターホールへ。

 

運良く(あるいは俺の悪運のおかげで)、他に生徒はいなかった。 二人きりで箱に乗り込む。 扉が閉まり、密室が出来上がった瞬間——俺は松下を壁際に追い詰めた。

 

 

 

「な、何よ……」

 

「今日の『デート』、楽しかったよ。君の太ももの感触、最高だった」

 

「最低。……あんた、本当に一之瀬さんの親戚なの? 信じられない」

 

 

 

彼女の口から出た「一之瀬」の名前に、俺は少しだけ目を細めた。

 

 

 

「姉さんは関係ない。……言っただろ? 姉さんは『光』だ。俺みたいな『影』の欲望を受け止めるのは、君の役目なんだよ」

 

 

俺は彼女の顎を指で持ち上げ、無理やり上を向かせる。

 

 

 

「来月、このクラスは地獄を見る。その時、君が頼れるのは俺だけだ」

 

「……脅しのつもり?」

 

「予言だよ。——ほら、部屋に着いた」

 

チン、と軽い音がして扉が開く。 俺は彼女を解放し、何食わぬ顔で廊下へ出た。

 

「おやすみ、千秋ちゃん。夢で会おうね」

 

 

 

松下は何も言わず、逃げるように自分の部屋へと駆け込んでいった。

 

バタン、と乱暴にドアが閉まる音。 俺はそれを見届け、口角を歪めた。

 

 

これでいい。 彼女の中で、俺は「恐怖の対象」でありながら、「唯一情報を共有する相手」として深く刻まれたはずだ。

        

 

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