エアマスター~遅れてきた伏龍~   作:ドラマ・ドラマ

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第1話 伏龍

ゲーセンという場所は、どこか息が詰まる。

 

汗と油と、安っぽい娯楽の匂いが混ざり合い、逃げ場のない空気になって淀んでいる。電子音は途切れることなく鳴り続け、外の時間や季節の感覚を、ゆっくりと削り取っていく。

 

気づけば同じ顔ぶれが、同じ席に座っている。

 

働くでもなく、どこかへ向かうでもなく、ただそこに居続けるためだけに時間を使っている連中。誰も口にはしないが、その場に長くいるほど、外の世界から少しずつ切り離されていくのが分かる。

 

昼間だというのに、光は薄い。筐体の前に座る男も、その中の一人だった。画面には麻雀の牌が並んでいる。だが男の視線は、それを追っているようで、どこにも焦点が合っていない。

 

指だけが動く。迷いはない。即断即決を是とする男の打ち方。考えるよりも感じる事で、“勘”は冴え渡り、手牌はより高みへと昇華する。負けるつもりは毛頭ない。気付けば男は国士無双をテンパイしていた。

 

場には既に三枚切れている“西”の地獄待ち。が、男が張った役満という最大火力の一撃に対して、画面の中で女が笑う。色の濃い唇が開き、ノミ手の1000点で勝利を告げる声が弾む。作られた仕草が、やけに軽い。男はそれを見ていない。光だけが網膜に残る。ただ、像だけは拾っていた。

 

奥の区画で歓声が弾けた。反射的に、視線がそちらへ流れる。格闘ゲームの筐体。人だかり。その中心で、若い女が拳を握りしめている。丈の短いスカートが翻るのも気にせず片足を椅子にかけ、拳を掲げる。

 

――若いな。

 

それだけ思って、視線を戻した。関わる理由がない。関われば、余計なものが増える。なけなしの100円玉を投入し、コンテニューする。牌を切り、間を置かず、3巡でリーチをかける。軽い電子音が、やけに遠く聞こえた。

 

そのときだった。背後で、足音が止まる。気配が、近い。

 

「おい、さっさと退けよ。オッサン」

 

振り向くと三人組のヤンチャそうなグループがポケットに手を突っ込んだままこちらを威圧する様に佇んでいた。中年は気怠げに溜息をつくと、画面に顔を向けプレイを続ける。喧嘩自慢のグループのリーダーである男の退去命令を無視し、脱衣麻雀に興じる中年の態度に男達の怒りの沸点が超える。

 

「聞こえてんだろ」

 

中年の肩に不良グループのリーダーが手をかける。その重さと力の入り方を、絡まれた中年は座ったままの状態で測る。次の瞬間、視界がぶれる。いや――ぶれたのは、相手の方であった。

 

リーダーの掴んだ腕を引き、後頭部に手を載せるとそこから思い切り、全体重を乗せる。それだけで、最初の一人の顔面が筐体へ叩きつけられていた。乾いた音。ひびの走った画面の中で、二次元の女が笑っている。遅れて、血が滲んだ。

 

男は手を離すと、その流れのまま二人目の懐へ入る。踏み込みは浅いが、十分だった。不良の顎が跳ね上がる。骨の砕ける感触だけが、わずかに手に残った。身体は遅れて崩れ、椅子とぶつかり、音を立てて床に落ちる。周囲は、まだ理解していない。何が起きたのか。いつ終わったのか。

 

三人目だけが、取り残される。目が泳いでいる。呼吸が合っていない。逃げる、という選択に辿り着く前に――男が、半歩だけ距離を詰めた。その動きは見えたはずだった。だが、次の瞬間にはもう遅い。視界の中心を、まっすぐ撃ち抜く。何をされたのか、形として認識する前に顔面が潰れ、血が散った。速さだけが残る。

 

ざわめきが、遅れて広がった。現実がようやく追いつく。店員が駆け寄るも、そのときには、男はもう歩き出していた。揺れるような足取り。だらしなく見える、重心の低い歩法。人混みの中へ、そのまま入っていく。誰にも触れず、誰にも止められない。気づけば、そこだけが静かに割れて――道が、できていた。

 

外に出た瞬間、光が刺さった。反射的に目を細める。だが、完全には閉じない。滲んだままの視界を、そのまま受け入れる。

 

――年のせいかな。もう若くねぇもんな。

 

ぼやける理由を考えること自体、億劫であった。憂鬱な気持ちを抱えながらゆっくりと顔を上げると正面に、男が立っていた。距離は近い。だが、不自然さはない。まるで最初からそこにあった“影”のように、動かず立っている。

 

「初めまして、コウさん」

 

声が通る。張っているわけではない。ただ、よく届く。コウは目を細めたまま、相手を見た。焦点は合わせない。輪郭だけを拾う。

 

「……誰だ」

 

短く、吐く。相手は、わずかに頭を下げた。動きに無駄がない。

 

「申し遅れました。私は深道と申します」

 

胡散臭い男が名乗るも、それ以上は踏み込まない。間が落ちる。風が、遅れて通り抜けた。

 

「“稲垣直人”はご存じですよね?」

 

その名で、わずかに思考が動く。

 

「ああ……俺ん所の道場の奴だな」

 

それだけで済ませる。深道は頷く。

 

「その彼が、負けました。数秒で、です」

 

深道は淡々と続けた。誇張も、含みもない。事実だけを置くような言い方だった。コウの表情は動かない。その言葉に対して、驚きも、苛立ちも浮かべないまま、わずかに顎を引く。

 

「……だから?」

 

低く返す。関心がないわけではない。だが、それが感情にまで至るほどの重みを持たないだけだ。弟子が負けた。それだけの話だと、切り捨てている。深道は、その反応を確かめるように一瞬だけ間を置いた。そして、言葉を選ぶ。わずかに順序を変えれば、意味も温度も変わる――そう理解した上で。

 

「負ける前まで彼は“ジークンドー・マスター”と、名乗っていました」

 

その瞬間、風が抜けた。ビルの隙間を通る乾いた空気が、二人の間を横切る。ただそれだけのはずだった。だが、空気がわずかに軋む。目に見える変化はない。それでも確かに、場の密度が一段、沈んだ。コウの視線が上がる。これまで輪郭だけを捉えていた目が、初めて相手を正面から捉えた。

 

コウはしばらく深道と名乗る謎の人物を見たまま、何も言わなかったが、やがてわずかに視線を外すと、顎だけで方向を示した。

 

「……こっちだ」

 

それ以上の説明はない。

 

人の流れを横切り、雑踏から外れる。足を止めることなく進み、やがてビルとビルの隙間へと入り込んだ。昼間だというのに光は細く、空気も一段低い。外の喧騒が遠のき、音の輪郭だけが遅れて届く。

 

その奥で、ようやく足を止めた。振り返りはしない。背後に気配を感じたまま、短く問う。

 

「……本当に、そう名乗ったのか」

 

確認は、それだけだった。深道は間を置かずに頷く。余計な言葉を挟まないことが、かえって答えの強さを補強していた。沈黙が落ちる。風も入らないその場所で、わずかに空気が滞る。コウは壁に背を預けた。煤の付いたコンクリートに体重を預けることにも、特別な意味はない。ただ、立っている理由がなくなっただけだった。

 

「で?」

 

促すように、視線も向けずに言う。深道は一歩も動かない。距離を保ったまま、声だけを差し出す。

 

「一つ、お願いがありまして」

 

言い切らず、わずかに間を残す。相手に“続きを待たせる”ための間だった。

 

「私が主催している路上格闘のランキング戦に、参加して頂きたいのです」

 

そこで初めて、用件を明かす。コウは顔を上げない。興味が動いたわけでも、拒絶したわけでもない。ただ一度、視線を横へ逃がす。

 

「ガキの喧嘩だろ」

 

軽く吐き捨てるように言ったが、そこに侮蔑はない。価値を測るための、単なる確認だった。

 

「……大人が混ざったら、面倒なことにはならないのか」

 

コウは壁にもたれたまま、視線を向けずに言った。問いというより、条件の確認に近い声音だった。深道はすぐには答えなかった。わずかに間を取り、その言葉の意図をなぞるように視線を細める。

 

「面倒、ですか」

 

繰り返しながら、わずかに愉しむように笑う。

 

「仮に表に出れば、それなりに騒ぎにはなるでしょう。年齢も立場も、無関係とは言えませんから」

 

言葉をそこで一度切る。断定はしない。現実的な不都合をあえて認めた上で、次の一手に繋げるための間だった。コウは何も返さない。ただ、続きを待っている。深道はその沈黙を受け取り、声の調子をわずかに落とした。

 

「ですが、表に出なければ――問題は存在しません」

 

言い切る。理屈としては単純だが、その単純さ自体が一種の説得になっている。さらに一歩、踏み込む。

 

「それに、これは“大人かどうか”という話でもないんですよ」

 

そこで初めて、コウへと視線を向けた。

 

「……どういう意味だ?」

 

短く返る。深道は間を置かずに答える。

 

「強いかどうか、それだけです。勝てば上に行く。負ければ終わる。それ以上でも、それ以下でもない」

 

簡潔に区切りながらも、言葉の流れは途切れない。余計な装飾を削ぎ落とすことで、むしろ構造だけを際立たせている。

 

「ですから、“ガキの喧嘩”という認識であれば――むしろ都合がいい」

 

わずかに肩をすくめる仕草を交え、軽く言う。

 

「負けても、誰も気にしない。勝てば、それだけで価値になる」

 

そこでようやく、笑みを深めた。押しつけるでもなく、引くでもなく、ただ選択肢として差し出す。

 

「悪くない話だと思いませんか?」

 

言葉は柔らかいが、引く気はない。沈黙の中で、答えを待つ位置に、すでに立っていた。コウは深道を見ないまま、わずかに顔を背けた。興味の有無ではなく、もはや考える順序が決まっているような動きだった。

 

「金は?」

 

それだけを、確認する。深道は即座に応じた。間を挟まないこと自体が、用意していた答えであることを示している。

 

「お出しします。ランキング上位者であれば、それ相応の額をお支払いします」

 

具体的な数字は出さない。だが不足も感じさせない言い方だった。コウは一瞬だけ沈黙し、そのまま何事もなかったように頷く。

 

「……なら、いい」

 

決断は早い。熟考した形跡も、迷いもない。ただ条件が満たされたから受け入れた、それだけの軽さだった。その応答に、深道の目がわずかに細くなる。予想していたはずの展開でありながら、その“速さ”だけは想定よりも一段上だった。

 

「何なら、今からでも対戦カードを組みますが?」

 

確認の形を取りながら、半ば試すように問う。コウは肩の力を抜いたまま、気怠げに答える。

 

「……いいだろう」

 

その言葉には誇張も気負いもない。ただ事実として、可能ならやるというだけの温度だった。ビルの隙間を、乾いた風が通り抜ける。わずかに視線を上げたコウは、空の見えない細い光を一度だけなぞり、すぐに興味を失う。

 

「……今からやってやる。案内しな」

 

結論は、あまりにもあっさりと落ちた。深道はその言葉を受けて、小さく笑った。抑えた笑みの奥に、隠しきれない満足と、わずかな愉悦が滲んでいた。

 

「そうこなくては」

 

歓迎でも称賛でもない。予定調和が成立したことへの、静かな肯定だった。二人はそのまま、並ぶこともなく歩き出す。昼の光が差し込まない路地の奥へ、吸い込まれるように進みながら、やがてその姿を影の中へ沈めていった。

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