エアマスター~遅れてきた伏龍~   作:ドラマ・ドラマ

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第2話 最速

ビルの合間を縫うように、二つの影が進んでいく。

 

前を歩くのは深道。一定の歩幅で、振り返ることもなく進む。その後ろを、気だるげに欠伸を噛み殺しながら、中年の男――コウがついていく。

 

一見すれば、ただのだらしない歩き方だった。重心は低く、肩は落ち、足取りも緩い。だが、その動きは不思議と途切れない。足が止まる瞬間がなく、わずかな段差や散乱したゴミを、視線を向けることもなく自然に外していく。身体の方が先に反応しているような歩き方だった。視線は上げないまま、それでも足取りに迷いはなかった。

 

細い路地を抜けるにつれ、空気の質が変わる。生活の匂いが消え、代わりに、捨てられたものと湿ったコンクリートの気配が濃くなる。むき出しのダクト、視界の端に引っかかるゴミ集積場。壁面には非常階段が貼り付くように伸びている。

 

深道は振り返らない。だが、後ろの気配が一度も乱れないことだけは、分かっていた。

 

やがて、ビルの隙間が不自然に開けた。意図して作られたものではない。削り残されたような空間だった。頭上を塞ぐものはなく、わずかに落ちてくる光が、地面の汚れと壁面の染みをぼんやりと浮かび上がらせている。

 

人の気配は薄い。だが、完全に途切れているわけでもない。視線を滑らせれば、どこかに“いる”。姿は見えないのに、見られている気配だけが、空気の底に沈んでいた。

 

音が、やけに遠い。外の喧騒は届いているはずなのに、この場所だけが切り離されているようだった。踏み込めば何かが始まる―――そんな気配だけが静かに満ちていた。

 

その中心で、深道が足を止める。振り返らない。だが、後ろの気配が止まったことだけは外していない。

 

「ここです」

 

短い言葉が、妙にこの場に馴染んだ。その声が空間に馴染むよりも早く、コウの視線はすでにその奥を捉えている。深道の向こう側。光の届ききらない位置に、バンダナを巻いた長身の男が立っていた。

 

壁にもたれているわけでも、構えているわけでもない。ただ、そこに“置かれている”ように立っている。重心は高い。肩の力は抜けているが、腕だけがわずかに前へ出ている。力んでいる様子はない。それでも、その位置だけは崩れない――いつでも出せる形だった。

 

コウは目を細める。空気が、ほんのわずかに揺れた。相手の立ち方を、一度だけなぞるように捉えた。重心の位置、足の置き方、腕の遊ばせ方―――そのすべてを、一瞬で拾う。

 

「……なるほどな」

 

誰に向けるでもなく、低く落ちる。それに応じるように、長身の男が口を開く。

 

「オイ、深道。なんだこのオッサンは?」

 

遠慮のない声音が、そのまま投げられる。隠そうともせず、値踏みする視線がまっすぐコウへ向く。その視線に敵意はない。ただ、軽く見ている。深道は振り返らず、肩越しに告げる。

 

「馬場、今日のお前の対戦相手だ」

 

余計な情報は添えない。馬場と呼ばれたバンダナの男の眉がわずかに寄る。

 

「コイツが?」

 

軽く転がすような声音。だがその視線はすでに相手を測っている。体格、間合い、重心。言葉とは裏腹に、観察はすでに終わっている。

 

深道はわずかに口角を動かす。ここで肩書きを添えることもできる。流派や実績を出せば、場は乗る。だが、出さない。情報は予測を呼び、予測は対応を生む。それだけで遅れる。

 

「言っておくが、この人は―――」

 

それでも最低限の“導入”だけを置こうとした、そのとき。

 

「おい、もういいだろ」

 

横から差し込まれた声が、流れを断ち切った。コウは一歩だけ前に出ている。動きは緩く、力みがない。だが、その位置が、深道と馬場の間に自然に割り込んでいた。言葉を遮る位置と、視線を切る角度。そのどちらも外していない。

 

名乗らない。語らせない。

 

誰が見ているか分からない以上、手の内は削る。拾わず、渡さず、そのまま終わらせる。コウは頭を掻きながら、気の抜けた声で言う。

 

「ガキと違ってオジサンは忙しいんだ。サッサと片付けて帰りてぇ」

 

軽い。だがその軽さが、逆に余計な探りを封じ、測らせない。深道は言葉を止めたまま、わずかに目を細めた。

 

―――なるほど。

 

見せないまま勝つ。それ自体が一つの見世物になる。空気がわずかに張る。馬場の眉が動いた。視線の温度が一段落ちる。

 

「……あッ?」

 

短い声に、苛立ちが混じる。だが踏み込まない。踏み込めば始まると、分かっていた。その境界で、時間だけが伸びる。コウは、もう一歩距離を詰める。力みはない。ただ位置が変わっただけだ。だがそれだけで、間合いはすでに触れている。

 

何も起きていない時間だけが、わずかに重く沈んでいた。

 

「分かりました。では――」

 

深道が開始を告げようとした、その瞬間だった。言葉が形になる前に、コウはすでに動いている。踏み込みは小さい。床を蹴るでもなく、重心が前に滑る。

 

だが、その一歩で間合いは消える。同時に、深道の身体が一瞬だけ視界に割り込む。視線と反応を、半拍だけ遅らせる“壁”。

 

その陰から、拳が伸びる。肩は動かず、予備動作がない。腕だけが、直線に弾ける。縦に立てた拳が、最短で顔面を捉える。認識が追いつく前に、終わっている。

 

打撃は収束され、威力が点で入ると馬場の顔面がわずかに歪み、次の瞬間には鼻梁が折れていた。音は遅れてやってくる。衝撃だけが先に届き、内側で揺れる。

 

だが、コウは止まらない。

 

一撃目で意識を外し、そのまま重心を半歩だけずらす。踏み込みは変わらず、軸をずらしただけで、位置が次の急所へ繋がる。

 

二撃目も、軌道も速度も変わらない。

 

だが、当たる場所だけが違っていた。衝撃が脳を揺らす前に、さらに上から重ねる。身体の芯が抜ける。長身の体が、糸の切れたように崩れ落ちた。

 

一連の動作に“間”はない。見ていた者には、一発にしか見えない。

 

静止した世界にわずかな遅れで、空気が戻る。深道は半歩だけ横へ退いていた。巻き込まれない位置を、最初から選んでいる。

 

その視線は、倒れた男ではなく、コウへ向けられていた。

 

―――今のは…。

 

思考が一気に組み上がる。初動で視線を切るために、自分を“壁”に使った。認識を半拍遅らせ、その隙を通す。相手の認識を半拍遅らせ、その隙に最短距離を通す。

 

ジークンドーの代名詞―――ストレートリード。予備動作を消し、肩を使わず、腕だけで初速を最大化する。

 

それで終わらせない。最初の打撃で意識を散らし、同じ軌道で重ねて、防御の選択肢を潰す。反応する前に終わる。

 

―――合理的だ。

 

無駄がないから、速い。だから間に合わない。深道の口元が、わずかに歪む。

 

「……いい」

 

小さく漏れた声に、愉悦が混じる。コウは振り返りもしない。何もなかったように、脱いだジャケットを肩に引っ掛ける。

 

「で、コイツでいくら?」

 

間を置かずに出る。張り詰めた空気を、自分でほどくような調子。呼吸も視線も、すでに外にある。

 

―――崩している。

 

高ぶりを残さない。深道はその変化を見ていた。視線を外さず、答える。

 

「初戦ですから。それに……あまりにも早すぎました。興行としては、少々物足りない」

 

淡々としている。だが、声の奥にわずかな熱が残る。すでに別の尺度で測っている。

 

「ご期待に沿える額には、ならないかと」

 

コウは軽く鼻を鳴らす。

 

「ああ、なるほどな。見せ物としては盛り上げろって話か」

 

理解は早い。

 

「じゃあさっき、ゲーセンで筐体ぶっ壊しちまってな」

 

軽い。戦闘の直後とは思えないほど、力が抜けている。

 

「弁償しねぇと面倒なことになる。……分かるよな?」

 

視線だけが、わずかに動く。深道は一瞬だけ間を置いた。どこまで織り込んで動いているかを測る間だった。前から後まで、どこまで計算しているのか。

 

「つまり、その分をファイトマネーで相殺したい、と」

 

言葉にする。

 

「そ。できれば、な」

 

軽い。だが、逃げ道はない。深道は小さく頷いた。

 

「分かりました。こちらで処理しておきます」

 

即答だった。合理的な要求には、合理的に応じる。コウが小さく笑う。

 

「話が分かるじゃねぇか。どうだ、弟子にしてやろうか?」

 

軽口を挟むが、目は笑っていない。呼吸はすでに整っている。さっきまでの速さは、もう残っていない。深道は間を置かずに返す。

 

「結構です」

 

即答だった。コウは肩をすくめる。

 

「最近の若いのは照れ屋だな」

 

すでに戦闘の温度ではない。深道はそれを受け流しながら、内心で評価を更新する。

 

―――ここまで含めて、か。

 

戦いだけではない。終わらせ方にも無駄がない。その時だった。空間の端に沈んでいた気配が、ひとつ前に出る。

 

「俺がやろう」

 

低い声が、空気の質をわずかに変える。コウはゆっくりと視線を向ける。

 

先ほどの一連のやり取りを、最初から最後まで見ていた男だった。にもかかわらず、その眼には迷いがない。状況を理解した上で、なお踏み込んでくる目だった。その目に、迷いはない。選んで踏み込んでいる。コウはわずかに目を細め、口元だけで笑う。

 

「へぇ……まだやる気のある奴がいるのか」

 

一歩、前へ出る。構えは取らない。重心もそのまま上に置く。隙だらけに見える姿勢で、ただ右手の指先だけを軽く揺らした。招くように、試すように。どこか型をなぞったような、軽い誘い。その実、距離と反応を見るための“餌”だ。

 

挑戦する男―――スナイパー空手の創始者である戸叶の眉が動く。一瞬、迷う。次の瞬間には、踏み込んでいた。

 

―――速いッ!

 

だが、その速さは“届く”前提のものだった。

 

コウの身体が、わずかに沈む。迎え撃たない。逸らしもしない。ただ、相手の直線に対して“半歩ずらす”ことで、到達点を空振りさせる。打突が、届かない。その誤差の中に、すでにコウは入っていた。最短で入る。だが、肘も肩も使わない。指先だけが、滑り込むように喉元へ走る。

 

喉を潰し、呼吸を断つ。声にならない息が、喉で詰まる。

 

間はなく、呼吸を奪ったその位置から、身体を開かずに角度だけを変え、肋へ移る。打つというより差し込む一撃が入り、鈍い感触が確かに伝わる。支点が崩れ、上体が折れる。そこで相手の時間が遅れる。

 

三撃目は、その遅れの中に落とされた。下から痛撃。視界の外から抉るように急所を撃ち抜く。戸叶は痛みに意識が落ちる。ギャラリーから悲鳴が上がる。おぞましさに、思わず股間を押さえる者もいる。三連撃はすべて繋がっている。最初の誘いから最後の一撃まで、一つの流れになっている。

 

その場に崩れ落ちた戸叶を一瞥することなく、コウは欠伸を噛み殺し、軽く首を回した。関節が小さく鳴る。やけに乾いた音だった。

 

「あちゃ~、またやっちまった」

 

わざとらしく肩をすくめ、周囲に聞かせるように言う。先ほどと同じく、余熱を外へ逃がしている。観戦者がざわつき、遅れて現実が追いつく。深道はその一部始終を見ていた。視線は動かず、思考だけが回る。

 

―――強い。

 

結論は早い。だが、その内訳は見えている。挑発で反応を引き出し、踏み込みを測る。直線を外し、呼吸を断ち、体幹を崩し、止める。

 

たったの三撃。勝負は最初の“誘い”で決まっている。速さではない。速く見せるための順序だ。

 

コウはすでに興味を失っていた。倒れた男にも、ざわつく周囲にも視線を向けない。

 

「今日はこんなもんか」

 

気の抜けた声で言い、背を向ける。

 

「なんかあったら道場に連絡くれ」

 

それだけ残し、歩き出す。止める理由はない。深道は、その背中を見送った。ざわめきが、形を持ち始める。

 

「今の……何だよ」

 

「速すぎだろ……」

 

「二発……いや、三発?」

 

認識が追いつかず、言葉だけが先に出る。やがて一つにまとまる。

 

――最速。

 

誰かが呟いたその呼び名は、すぐに空間へと広がった。深道の口元がわずかに歪む。抑えきれない愉悦が滲む。

 

「……いい」

 

小さく、零す。

 

「実に、いい」

 

退屈が、削れる。

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