空に近づくほど、余計なものが削ぎ落ちていく。
ビルの非常階段を、コウはゆっくりと上っていた。鉄の踏み板が足裏で乾いた音を返す。カン、カン、と規則的に鳴る音が、やけに長く尾を引く。急ぐ理由はない。上で何が待っているかも、すでに見当はついている。 それでも足取りは変わらない。重心は低く、力は抜けている。それでも足は止まらない。段差も錆びた縁も、視線を落とさずに外していく。 思考が追いつく前に、身体だけが正解をなぞっている。
西日が強い。ビルの隙間を抜けた光が、鉄骨の影を長く引き、踊り場を斜めに切り裂いていた。最後の段を踏み越える。扉を押し開けた瞬間、光がまともに目に入る。わずかに目を細めたまま外へ出ると、熱を含んだ風が正面から抜けた。遮るもののない空気が、そのまま肌を撫でていく。
屋上の中央に、二つの影があった。
一人は深道で、変わらない立ち方のまま、すでにこちらを待っている。もう一人は、わずかにリズムを刻んでいた。身体を揺らしながら、一定の間で足を運ぶ。ヘッドセットから流れる音は外には漏れないが、そのビートだけが動きとして表に出ている。
ポケットに手を突っ込んだまま、重心を落とし、足先だけで地面を拾うように動く。軽い。だが浮いてはいない。リズムの中に、いつでも踏み込める余白が残されていた。サングラス越しに視線は読めない。だが、その意識だけは最初からこちらに向いている。
コウは一歩だけ進み、その場で足を止めた。
「ようやくお出ましですか、コウさん」
深道が口を開く。その声はいつも通り丁寧だったが、わずかに間を含んでいる。コウは欠伸を噛み殺しながら、肩を回した。
「悪いな。最近トイレが近くてよ」
軽く言って、視線だけを前に戻す。呼吸も視線も、すでにこの場に馴染んでいた。深道はそれを見て、小さく頷いた。
「そうですか。……では、始めましょうか」
深道の視線だけが、わずかに横へ動く。
「オイ、深道」
その声で、刻んでいたリズムが止まった。ヘッドセットを外し、首に掛けた男が口を開く。ガムを噛む音が、やけに耳につく。
「そいつは特別扱いか?」
深道は視線だけを向ける。
「ああ、そうだ」
間を置かずに返す。
「融通が利く相手だからな。これは差別じゃない、区別だ」
言葉は短いが、余地を残さない。
「同じ扱いをして欲しいなら―――」
顎でコウを示す。
「勝て。それからだ、沢村」
その名を呼んだ瞬間、場の線が一本に収束する。沢村は舌打ちし、肩を鳴らした。そのまま、再び身体を揺らす。
だが、先ほどとは違う。リズムは崩れていない。それでも、その奥で間合いだけが一段、静かに詰まっていた。
「……分かったよ」
吐くように言う。次の瞬間、足の裏が地面を捉える。それまで“乗っていた”動きが、わずかに“掴む”側へ変わる。
夕陽がさらに傾く。伸びた影が、ゆっくりと重なり―――距離が、消えた。
沢村が動いた。
地面に手をついた瞬間、身体が沈み、そのまま回る。視線の下へ潜り込むように低く入り込み、横薙ぎの脚が走った。
遠心力を乗せた一撃。それでも軌道はぶれない。アスファルトに吸い付くように接地し、回転そのものが攻撃へと変わっている。動きは止まらない。
手を支点に身体が跳ね上がり、逆さに近い体勢から蹴りが落ちる。連続した回転の中で、打撃だけが切り出されてくる。コウは動かない。だが、当たるはずの位置にいない。触れる瞬間だけ、わずかにずれている。
「……大道芸か?」
軽く吐いた。蹴りは当たらない。紙一枚分だけ、位置がずれている。踏み込まず、逃げもせず、触れる軌道だけを外している。
沢村の動きが加速する。回転し、接地し、そのまま反転へ繋がる。流れは途切れない。リズムそのものが攻撃となり、地面と身体が噛み合ったまま、あらゆる角度から打撃が噴き出す。
それでも、一度も当たらない。
コウの身体が、水のように流れる。受けず、止めず、触れた瞬間に形を変え、力の芯だけを外していく。打撃はわずかにずれ、そのすべてが空を切る。流れを切らないまま、半歩だけ前に入る。位置が入れ替わる、その一瞬で足が動いた。
低く、最短で踏み込み、振り抜かずに叩きつける。乾いた音が遅れて響く。沢村の身体が止まる。理解が追いつくより先に、脛の奥から鈍い痛みが広がる。骨にひびが入った感触だけが、遅れて残った。
リズムが崩れる。着地がわずかに遅れ、そのズレが回転のキレを奪う。
「……っ」
息が詰まる。コウは肩を落としたまま、視線だけを向けた。
「もう、しまいか?」
沢村の顔が歪む。
「なめるなッ!」
痛みを踏み潰すように踏み込み、地面に手をつく。そのまま、切れかけた流れを無理やり繋ぐように回した。速い。それでも噛み合っていない。回転は続く。それでもどこかで引っかかる。崩れたリズムを、力だけで押し戻している。
踏み込んだ、その瞬間だった。また同じ位置に入る。コウの視線は最初からそこに固定されていた。軌道も、距離も、わずかな誤差も―――すべてが一度目と同じ場所へ収束する。
二度目。叩き込まれる。深い。沢村の身体が崩れた。声にならない息が漏れ、膝から落ちる。地面に手をつくが、もう支えにならない。コウが歩み寄る。
「言わんこっちゃない」
足元を見下ろした。
「まだ、その足でやる気かい?」
沢村は歯を食いしばる。震えは止まらない。それでも、目だけは逸れない。
「……俺は……」
かすれた声を押し出す。
「俺は、アスファルトマスターだぞ……!」
その瞬間、空気の質が変わる。コウの動きが止まり、わずかに沈む。
「……マスター、ねぇ」
低く吐き出す。深く息を吸い、ゆっくりと吐く。その一呼吸で、場の温度が一段落ちた。
「お前さん」
視線が、まっすぐ落ちる。
「その言葉の意味、分かって使ってんのか?」
静かな声だった。だが、逃げ場がない。沢村が構え直す。遅い。そう思った時には、すでに終わっている。
コウの身体がわずかに傾き、そのまま爆ぜるように加速する。踏み込む動きは見えない。ただ、距離だけが一瞬で消える。
三度目の踏み込みで軌道も、距離も、誤差も―――すべてが同じ場所へ収束する。それでも、速度が違う。威力が違う。蹴りが叩き込まれた。骨が砕ける音が、遅れて響く。
沢村の脚が潰れ、支えを失った身体がその場に崩れ落ちた。衝撃の余韻だけが、わずかに遅れて空間に残る。
屋上を抜ける風が、さっきまでの熱を運び去っていく。西日はすでに傾き、朱に染まっていた街の色がゆっくりと沈んでいく。
コウは動かない。何もしていないように立っている。だがその足元だけが、戦いの結果を静かに物語っていた。
「マスターってのはな」
視線も向けずに言う。
「物事を修めた奴のことを言うんだよ」
一度、息を吐く。
その吐息が、わずかに白く見えた気がした。
「ガキは、言葉が軽くて嫌になる」
それだけ言い残し、コウは背を向ける。伸びきった影が、沢村のそれと一瞬だけ重なり、すぐに離れた。足音は響かない。ただ距離だけが、静かに開いていく。
沢村は動かない。
崩れたまま、もう立ち上がる気配はなかった。地面に落ちた影だけが、形を歪めたまま残っている。
空の色が、さらに沈む。朱は消え、群青が滲み始める。少し離れた場所で、深道がそれを見ていた。腕を押さえたまま、わずかに震えている。恐怖ではない。昂揚でもない。もっと静かな、確信に近いものだった。
―――見つけた。
思考が、ゆっくりと収束していく。
この男なら、届く。
あの領域に。夜が屋上に落ちる。深道の口元が、暗がりの中でわずかに歪んだ。