"やさしい"ウマ娘――UN-CROWNED――   作:灯火011

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第1話:特大ハンバーグと、ひとかけらの絶望

 河川敷に広がる非公式のダートコース。ひび割れた乾いた土が、夕暮れの風に吹かれて砂埃を巻き上げている。

 

 ここでは週末になると、トレセン学園に入れなかった者、あるいは己の脚一つで日銭を稼ごうとする「野良」のウマ娘たちが集まり、草レースに身を投じていた。

 

 

 今日の目玉は、地元商店街が協賛したレースだ。優勝賞品は「特大霜降りハンバーグ(1年分)」。

 

 生活費を浮かせたい者から、純粋に肉に飢えた者まで、出走ゲートにはギラギラとした欲望と闘争心を剥き出しにしたウマ娘たちが並んでいた。

 

 その中に、ひときわ異質な空気を放つ少女がいた。

 

 色あせたジャージ。足元は、スーパーの靴売り場で特売にされているような、底の薄い安物のランニングシューズ。彼女はゲートの中で、軽くあくびを噛み殺していた。

 

「……ねむ」

 

 緊張感の欠片もない呟き。隣のレーンにいた、筋骨隆々の野良ウマ娘が舌打ちをする。

 

「おいジャージ。こいつは遊びじゃねえんだ、ケガする前に帰りな」

「あー、はいはい」

 

 気のない返事。少女は前髪を適当に掻き上げ、ただ前を見た。

 

 パンッ!

 

 と、火薬銃のくぐもった音が河川敷に響く。土を蹴り上げる轟音とともに、十数人のウマ娘が一斉に飛び出した。

 

 誰もが、ジャージの少女は最初のコーナーで砂を舐めると思っていた。しかし――。

 

「……は?」

 

 先頭を走っていたはずの野良ウマ娘が、間抜けな声を漏らした。

 

 横を、何かが通り過ぎたのだ。

 

 足音すらなかった。

 

 息遣いも聞こえなかった。

 

 ただ、無機質な「風」が横をすり抜けていったような。

 

 ――気づけば、ジャージの少女が遥か前方を走っていた。いや、「走っている」という表現すら正しいのかわからない。彼女のフォームには、ウマ娘特有の闘争心や、大地を砕くような力強さが一切なかったからだ。

 

 ただ、物理法則を無視したかのように、極めて合理的に、機械的に、脚を前へ出しているだけ。重心のブレはミリ単位で存在せず、まるで透明なレールの上を滑っているかのようだった。

 

「嘘だろ……っ! ふっざけんな! テメェ!!!」

 

 後続のウマ娘たちが血の滲むような悲鳴を上げ、心臓が破れるほどに脚を回す。彼女たちの中には、かつてトレセン学園の入試で涙を呑み、それでも夢を諦めきれずに泥水をすすってきた者もいた。この草レースに、彼女たちの人生のすべてが懸かっていた。

 

 だが、残酷なまでに距離は開いていく。

 

 努力、執念、夢、情熱。そんな泥臭い感情のすべてを、少女の背中はあざ笑うことすらなく、ただただ「無関心」に置き去りにしていった。

 

 大差。いや、大差という言葉すら生ぬるかった。少女がゴール板を駆け抜けたとき、2番手はまだ最終コーナーを曲がったばかりだった。

 

「……ふう。これで夕飯のオカズには困らねえな」

 

 ゴール直後だというのに、少女の息は一切乱れていない。じんわりと汗すらも、かいていない。彼女にとって今の走りは、コンビニへジュースを買いに行く程度の散歩でしかなかったのだ。

 

 少女が運営本部テントに向かい、賞品のハンバーグ目録を無表情で受け取ろうとしたその時だった。

 

「き、君ィィィィィッ!!!」

 

 鼓膜を破らんばかりの絶叫とともに、一人のスーツ姿の男が少女の前にスライディング土下座のような勢いで滑り込んできた。男の目は血走り、スーツは土埃で汚れ、その顔は滝のような涙と汗でぐしゃぐしゃになっていた。

 

「な、なんだよアンタ」

 

「私は……っ、トレセン学園でスカウトをしている者だ! 長年この仕事をしているが、あんな走りを見たのは初めてだ! 君のその脚は、世界を変える!!」

 

 スカウトマンは震える手で少女のジャージの裾を掴んだ。

 

「トゥインクル・シリーズに出よう! いいいいや、出なければならない! 君にはその義務がある! 三冠も、凱旋門も、君ならすべてを歴史に刻める!!」

 

 それは、この場にいるすべてのウマ娘が喉から手が出るほど欲した言葉だった。トレセン学園からの直々のスカウト。それは栄光への切符であり、選ばれし者だけの特権。

 

 周囲のウマ娘たちが、嫉妬と羨望の入り混じった目で少女を見つめる。しかし、少女の瞳には何の熱も宿らなかった。

 

「世界? 歴史? ……あー、いや、そういうの興味ないんで」

 

 底冷えするほど平坦な声だった。

 

「俺、走るのとか別に好きじゃないし。疲れるし、靴減るし。今日はこのハンバーグ目当てで来ただけだから。じゃあな」

 

 少女はスカウトマンの手をあっさりと振り払い、帰路につこうとする。スカウトマンは絶望的な顔になり、必死にすがりついた。

 

「ま、待ってくれ! お願いだ、君の才能を腐らせるわけにはいかないんだ! トレセン学園の環境は最高だぞ! 最新のトレーニング設備に、専属のトレーナー、そして……っ、衣食住は完全保証だ! 三食、最高の栄養管理がされた食事がタダで食べられるんだ!!」

 

 ピタリ、と。少女の足が止まった。

 

「……タダ飯?」

 

 少女がゆっくりと振り返る。今日初めて、その無機質な瞳にわずかな光が宿った瞬間だった。

 

「三食、タダ?」

 

「あ、ああ! もちろんだ! 食堂のメニューも豊富で、デザートだってつく! 君の望む環境をすべて用意しよう!」

 

 少女は少しの間、顎に手を当てて考え込んだ。

 

(……俺の目標は、教育者になることだ。でも、普通に進学するには金がかかる。もしトレセン学園に入れば……夢には近づくか)

 

「なあ」

 

「は、はいっ! 何でも言ってくれ!」

 

「そのトレセン学園ってとこ、教員免許を取るための大学への推薦とか、トレーナーへの道が拓けるとか、そういうコネはあるの?」

 

 予想外すぎる質問に、スカウトマンは一瞬呆けた。栄光でもなく、金でもなく、教員免許。だが、彼はなりふり構っていられなかった。

 

「も、もちろんだとも! トップクラスの成績を残せば、進路は選び放題だ! 学園のカリキュラムを使えば、教員免許取得のための支援だって受けられる!」

 

「ふーん……」

 

 少女は手元のハンバーグ目録と、スカウトマンの顔を交互に見比べた。三食タダ飯で、生活費が浮く。おまけに将来の就職へのコネまで手に入る。たまにこうして土埃にまみれて「かけっこ」をするだけで、それらがすべて手に入るというのなら。

 

「……オッケー。まあ、悪くない条件だな」

 

 少女は、まるでアルバイトの面接に受かった程度の気だるさで言った。

 

「じゃあ、行くわ。トレセン学園」

 

「おおおおおっ! 素晴らしい! ありがとう、君は必ず伝説になるっ!!」

 

 スカウトマンは歓喜の涙を流し、何度も地面に頭を擦り付けた。その後ろでは、敗れた野良ウマ娘たちが、自分たちの人生を懸けた夢が「タダ飯のついで」として拾われた現実に、音を立てて心を壊していた。

 

 スカウトマンは知る由もなかった。

 

 自分が今、学園に「ウマ娘の希望」を招き入れたのではなく。すべてのウマ娘の誇りと情熱を無に帰すごとく、最悪の『虚無』を招き入れてしまったのだということに。

 

 そして、少女の顔が一瞬、不快感に満ち満ちていたことに。

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