"やさしい"ウマ娘――UN-CROWNED―― 作:灯火011
東京レース場。秋の柔らかな日差しが、大観衆の熱気で歪んで見える。
伝統のG1、天皇賞(秋)。出走を待つ地下バ道には、選ばれしウマ娘たちが放つ、ヒリヒリとするような闘気が充満していた。
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だが、その中にあって、一人だけ完全に空気が死んでいる者がいた。
タキオンの手回しで何とか用意された、最低限の装飾しかない地味な勝負服(本人は『動きづらいジャージ』と呼んでいる)。少女は壁に寄りかかり、早く帰りたいと顔に書いて欠伸をしていた。
「……相変わらず、舐め腐った態度ね」
ふいに声をかけられ、少女が横を向くと、そこには見知った顔がいくつも並んでいた。
かつて学園の中庭で「特大ステーキ定食」や「プレミアムハンバーグ」を懸けて挑んできた、現役の重賞ウマ娘たちだ。彼女たちもまた、この過酷なG1の舞台に勝ち上がってきていた。
「あ、どうも。その節はごちそうさまでした」
「お礼なんていいわよ。……ねえ、あなた」
かつて食堂で血を流すほど唇を噛み締めていたシニア級のウマ娘が、呆れたような、けれどどこか憑き物が落ちたような顔で少女を見た。
「まさかとは思うけど、今日のレース……手、抜く気じゃないでしょうね?」
「抜きますよ。当たり前じゃないですか」
少女は悪びれもせず、即答した。
「俺、目立つの嫌なんで。1着なんか獲ったら、明日からまたスポーツ紙に追いかけ回されて、教育実習の準備に響くし。適当に真ん中らへんの順位でゴールして、さっさと寮に帰って寝ます」
その堂々たる手抜き宣言に、周りのウマ娘たちはズッコケそうになった。
G1の舞台だ。全国のウマ娘が血の涙を流して目指す栄光のターフだ。そこで「適当に走って帰る」など、常軌を逸している。
「……はぁ。本当に、あなたってヤツは」
シニア級ウマ娘は、深くため息をついた。だが、かつてのような「絶望」はそこにはなかった。
「でも……ま、あなたらしいわね。私たちがどれだけ絶望しようが、熱くなろうが、あなたには関係ない。自分の『教員になる』って目的以外、全部どうでもいいんだから」
「わかってくれて助かります」
「でもね!」
ドンッ、と。彼女は少女の胸を軽く突いた。その瞳には、ウマ娘としての確かな誇りの炎が灯っていた。
「せめて、この大歓声の空気くらいは味わいなさい。何万もの人が、私たちの走りに熱狂するのよ。……もし、走りながらほんの少しでも『燃えるような想い』が生まれたら、その時は……本気で来なさい。私たちが、真正面から叩き潰してあげるから」
それは、ウマ娘からウマ娘への、最高の敬意と挑戦状だった。少女は少しだけ目を丸くしたが、やがて小さく肩をすくめた。
「……善処します」
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ファンファーレが鳴り響き、大歓声が東京レース場を揺らす。ゲートが開き、天皇賞(秋)がスタートした。
ウマ娘たちが、一斉にターフを蹴り上げる。地鳴りのような足音と、土煙が立ち上がる。
先頭集団を形成するのは、少女に野良レースで完敗し、彼女を「絶対的な壁」として己を極限まで磨き上げてきた重賞ウマ娘たちだ。彼女たちの走りは、かつての自分たちを遥かに凌駕する、美しくも凄まじいものだった。
(みんな、速いなぁ……)
少女は、バ群の中団にぽつんと収まりながら、そんな呑気な感想を抱いていた。スタンドからの地鳴りのような歓声。実況の絶叫。隣を走るウマ娘たちの、魂を削るような荒い息遣い。
シニア級ウマ娘が言っていた。
「燃えるような想いが生まれたら、本気で来い」
と。少女は、自分の胸の奥に意識を向けた。何か、熱いものが湧き上がってくるだろうか。ウマ娘としての本能が、この大歓声の中で目を覚ますだろうか。
……結論から言うと、『微塵も来なかった』。
(あ、今日の夕飯のハンバーグ、目玉焼き乗せるの忘れないようにしなきゃ)
少女の心は、完全なる「凪」だった。周りがどれだけ熱狂しようと、彼女にとってはただの「うるさい場所でのランニング」でしかなかった。むしろ、この熱狂の中で目立てば目立つほど、自分の平穏な未来が遠のくというリスク計算だけが冷静に働いていた。
(よし、このまま6着か7着くらいをキープしてフェードアウトしよう。タキオンさんに頼まれた心拍数のデータはちゃんと取れてるし、ノルマ達成だ)
最終直線。
大歓声が最高潮に達する中、先頭集団のウマ娘たちが死闘を繰り広げる。
少女は、その集団に加わることなく、完璧にコントロールされた「全力を出している風のフォーム」で、集団の後ろを悠々とついていった。息一つ乱れていなかったが、顔だけは少し疲れたふりをして。
そして、レースは決着した。
野良レースで少女に挑み続けたあのシニア級ウマ娘が、涙のG1初制覇を成し遂げたのだ。少女は、狙い違わず7着でゴール板を駆け抜けた。
◆
夕暮れの検量室前。
勝者が歓喜の涙を流し、敗者がターフに崩れ落ちるその空間の隅で、少女はジャージに着替え、帰る準備をしていた。
「……終わったか」
振り返ると、そこには生徒会長、シンボリルドルフが立っていた。彼女は、少女の額に汗ひとつ浮かんでいないことを、静かに見つめていた。
「お疲れ様です、会長さん。いやー、G1ってすごいですね。周りが速すぎて全然ついていけませんでしたよ。7着がいっぱいいっぱいです」
「……白々しい嘘はいい。君の心拍データは、タキオンからリアルタイムで見せてもらっていた」
ルドルフは、小さく息を吐いた。
「君は、最後の直線ですら心拍数が『安静時』からほとんど変わっていなかった。……見事なまでの、完璧な手抜きだ」
「あちゃー、バレてましたか。タキオンさんの裏切り者め」
少女は舌を出して笑った。かつてのルドルフなら、ここで激昂し、ウマ娘の誇りを説教していただろう。だが、ルドルフの表情は、どこか憑き物が落ちたように穏やかだった。
「……私は、君の圧倒的な才能を見出して、君をウマ娘の理想の未来にしようと躍起になっていた。君の意思を無視して、私の『皇帝』としての理想を押し付けていたんだ」
ルドルフは、少女の真っ直ぐな、けれどどこまでも「熱」を持たない瞳を見た。
あの熱狂のターフを走ってなお、この少女の心には火がつかなかったのだ。それはもう、呪いでもなんでもない。ただ、「そういう生き方」なのだと、ようやく理解できた。
「君の魂は、ターフの上にはない。黒板の前に、教壇の上にある。……そうだな?」
「はい。最初からずっとそう言ってるじゃないですか」
少女のブレない返答に、ルドルフはふっと、自嘲するように笑った。ルドルフは懐から、一通の分厚い封筒を取り出し、少女に差し出した。
「……これは?」
「地方にある、小規模なトレセン学園への『教育実習』の推薦状と、各種手続きの書類だ。私の権限で、最優先で通しておいた。君の教員免許取得のための、最後のステップだ」
少女の目が、今日一番の輝きを見せた。高級フルコースを提案された時と同じか、それ以上の輝きだった。
「マジですか!? 会長さん、いや、ルドルフ会長! 一生ついていきます!」
「現金なやつだな。ターフではあんなに無気力だったというのに」
ルドルフは苦笑しながら、少女の肩をポンと叩いた。
「もう、君に無理に走れとは言わない。……立派な教育者になりたまえ。そして、いつか君の教え子たちが、このターフで熱狂を生み出す日を楽しみにしている」
「はい。ウマ娘の指導はお任せください。俺より速いヤツなんて、どうせいないんですから」
最後に飛び出した、傲慢極まりない、けれど紛れもない「真実」。ルドルフはそれにもう反論することなく、ただ呆れたように肩を揺らして笑った。
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絶対的な才能を持ちながら、ただの一度も本気で燃えることなく、ターフを去っていく無冠の怪物。しかし、彼女が学園に残した「圧倒的な壁」の記憶は、生徒たちを間違いなく強くした。
夕日に照らされる東京レース場を背に、少女は教育実習の書類を大事そうに抱えながら、軽やかな足取りで家路につくのだった。