"やさしい"ウマ娘――UN-CROWNED―― 作:灯火011
あの天皇賞からしばらくこと。
宇都宮の空は、今日もどこまでも高く澄み渡っていた。
都心の喧騒から離れたこの地にある地方の小規模なトレセン学園。その土のダートコースに、ホイッスルの甲高い音が鳴り響く。
「はい、そこペース落ちてるぞ。腕振って、呼吸整えてー。終わったらちゃんとストレッチしろよ、怪我するからな」
赤いジャージに身を包んだ女性教師が、ストップウォッチを首から下げて気怠げに指示を出していた。数年前、中央のトレセン学園を「特例」で卒業し、念願の教員免許を取得してこの宇都宮の地に赴任してきたウマ娘だ。
彼女の周りには、泥だらけになった地方所属のウマ娘たちがへたり込んでいる。中央のエリートたちには及ばないが、誰もが純粋に走ることを愛し、汗を流している生徒たちだ。
「はぁっ、はぁっ……。せんせぇ、今日のメニューきつすぎます……っ」
「甘ったれるな。この程度でへばってたら、週末の県大会で入賞すらできねえぞ。ほら、水分補給」
主人公は、スポーツドリンクのボトルを生徒たちに放り投げた。生徒たちはそれを受け取りながら、ふと不思議そうな顔で主人公を見た。
「ねえ先生。先生って、中央のトレセン出身なんですよね?」
「ん? ああ、そうだけど」
「じゃあ、昔はすごかったんですか? トゥインクル・シリーズとか走って、めちゃくちゃ速かったとか!」
目を輝かせる生徒たち。地方のウマ娘にとって、中央の舞台は憧れの的だ。しかし、主人公は欠伸を噛み殺しながら、心底どうでもよさそうに手をヒラヒラと振った。
「別に速くはねぇって。G1で1着獲ったことなんて一度もないしな。俺はただ、タダ飯食って単位取るために中央にいただけの、モブウマ娘だよ」
「えー、なんだ。ちょっと期待したのにー」
「先生いっつもジャージだし、走るの面倒くさがりますもんね」
「うるせえ。いいから早くクールダウンしろ。終わったら食堂行くぞ」
生徒たちと軽口を叩き合う、どこにでもある平和なトレセンの風景。主人公にとって、これこそが望んでいた「完璧な日常」だった。スポーツ紙に追われることもなく、誰かの重い情熱を背負わされることもない。ただ、目の前の生徒たちを指導し、仕事終わりにご飯を食べるだけの、最高の生活。
その時だった。
■
「……あ、あれ! 見て!」
コースの脇に停まった一台の高級車を見て、生徒の一人が声を上げた。車から降りてきたのは、スーツ姿の大人たちに囲まれた、一人の洗練されたウマ娘だった。その顔には見覚えがある。
いや、今のウマ娘界隈で彼女の顔を知らない者などいない。
「うそ……っ! 今年の春のグランプリも制した、現役最強ウマ娘じゃん!」
「なんで!? なんであんな雲の上の人が、うちの学園なんかに!?」
生徒たちがパニックになりながら色めき立つ。
彼女は、中央トレセン学園からの『特別視察・実技指導』のゲストとして招かれた超一流のG1ウマ娘。かつて、主人公が天皇賞(秋)で手を抜き、1着を譲ったあのシニア級ウマ娘だった。
彼女は、地方の生徒たちの歓声に優雅な微笑みで応えながら、コースの方へと歩みを進めていた。その洗練された歩みには、幾多の大舞台を乗り越えてきた王者としての風格と、確固たるウマ娘の誇りが満ち溢れている。
しかし。
コースの脇でストップウォッチを首から下げている「赤いジャージの教師」の姿を視界に捉えた瞬間、彼女の足がピタリと止まった。
「……っ」
優雅な微笑みが、一瞬にして凍りついた。呼吸が止まり、全身の毛穴が一気に開くような感覚。何年経っても決して忘れることのできない、圧倒的で、理不尽で、残酷なまでの『最速の幻影』。
「……あ。どうも。遠いところからお疲れ様です」
主人公は、いつもと全く変わらない、気の抜けた声で挨拶をした。
G1ウマ娘は、取り巻きの大人たちや歓声を上げる地方の生徒たちを完全に無視して、フラフラと主人公の前に歩み寄った。そして。
バッ!!と、一切の躊躇なく、完璧な90度の角度で、深く、深く頭を下げたのだ。
「ご、ご無沙汰しております……ッ! 『先生』!!」
震える声で絞り出されたその最敬礼に、その場にいた全員の思考が停止した。
「えっ……?」
「は……? い、いま、あのG1ウマ娘が、うちのジャージ先生に……お辞儀した?」
生徒たちが、信じられないものを見る目で固まっている。
だが、G1ウマ娘は頭を下げたまま、微動だにしない。彼女にとって、目の前のジャージの女性は、自分の全盛期を遥かに凌駕するタイムを「あくびをしながら」叩き出していた正真正銘のバケモノであり、自分たちを極限の領域まで引き上げてくれた絶対的な恩師なのだ。
「おう、久しぶり。相変わらず走ってんな。最近、G1何勝したんだっけ?」
「は、はい! あなた様から見れば児戯に等しい実績ですが、なんとかG1を5勝させていただきました……ッ!」
「そっかそっか、頑張ってるな。怪我だけは気をつけるんだぞ」
「もったいないお言葉、光栄の極みです……!」
完全に「師匠と弟子」の構図だった。それも、絶対服従の。パニックに陥る生徒たちをよそに、主人公はポンポンとG1ウマ娘の肩を叩いた。
「いやー、ちょうどよかった。今日の実技指導、俺が教えるよりお前が走って見せてやった方が、こいつらも喜ぶだろ。全部任せていいか?」
「なっ……私などが、あなた様を差し置いて指導など……!」
「いいからいいから。俺、これから事務作業あるし。あ、そうだ」
主人公は、ふと思いついたように指を鳴らした。
「今日の仕事終わったら、駅前の宇都宮餃子、食いに行かね? お前が天皇賞勝った時、結局お祝いらしいこと何もしてなかったしな。特大のやつ、奢るよ」
G1ウマ娘は、ハッと顔を上げた。かつては「食券」のためだけにレースを蹂躙し、他人の情熱など見向きもしなかった彼女からの、初めての「食事の誘い」。
G1ウマ娘の瞳に、ほんの少しだけ涙が滲んだ。
「……はい! 喜んで、お供させていただきます!」
最高の笑顔で頷くチャンピオンの姿を、地方の生徒たちはただポカンと口を開けて見つめている。
「速くはねぇって」と嘯く自分たちの担任教師が、実はとんでもない怪物なのではないかと、ようやく気づき始めていた。
「よし、じゃあ頼んだぞ。……ほらお前ら、天皇賞春秋制覇の走り、しっかり目に焼き付けとけよ! レポート提出させるからな!」
主人公は生徒たちにそう言い残すと、ジャージのポケットに手を突っ込みながら、のんびりとした足取りで職員室へと向かっていく。
テレビの向こうの華やかなターフではなく、土埃の舞う地方のダートコース。
そこには、名誉にも栄光にも興味を持たない、世界で一番速くて、世界で一番食い意地の張った教育者の、確かな足跡が残されていた。