"やさしい"ウマ娘――UN-CROWNED―― 作:灯火011
天皇賞(秋)の大歓声が嘘のように引いた、夕暮れの東京レース場。
西日が長く伸びる広大なターフには、奇妙な静寂が下りていた。スタンドには観客の姿はなく、マスコミはおろか、学園の一般生徒すら完全にシャットアウトされている。
■
コースの芝の上に立っていたのは、ごく僅かな人間だけだった。先ほどまでこの場所で死闘を繰り広げ、天皇賞(秋)を走り抜いたG1ウマ娘たち。コース脇で固唾を呑んで見守る秋川理事長と駿川たづな。
そして、スタートラインに並び立つ三つの影。
大外に、赤いジャージ姿の少女。
その隣に、シンボリルドルフと、マルゼンスキー。
「……急な呼び出しに応じてもらい、感謝する」
ルドルフの声が、誰もいない巨大なスタジアムに響いた。彼女はすでに、生徒会長としての顔も、皇帝としての威厳もかなぐり捨て、ただ一人の「ウマ娘」として極限の闘気を放っていた。
隣のマルゼンスキーも同様だ。彼女の瞳には、かつて少女に完膚なきまでにへし折られた絶望はなく、純粋な渇望だけが燃え上がっていた。
少女は、ジャージのポケットに突っ込んでいた手をゆっくりと引き抜いた。
その手には、先ほどルドルフから渡されたばかりの分厚い封筒――地方トレセン学園への『教育実習推薦状』が握られている。少女はそれをコース脇のフェンスに丁寧に立てかけると、軽く首を鳴らした。
「マスコミをシャットアウトして、観客もゼロ。その上で、俺と走りたいと」
「そうだ」
ルドルフは、射抜くような視線で少女を見据えた。
「受けてくれるか? 条件も、賭けの対価もない。ただ純粋な、底の底を見せ合うためのタイマン勝負だ」
少女は、ふうむ、と短く息を吐いた。
いつもなら「面倒くさい」「コスパが悪い」と一蹴して帰る場面だ。事実、彼女の胃袋はすでに夕飯のハンバーグを求めて鳴り始めている。
だが、少女はスタートラインの芝をスニーカーの底で軽く踏み固めると、真っ直ぐにルドルフたちを見た。その瞳の奥から、いつもまとっていた「気怠さ」という分厚いベールが、初めて、完全に剥がれ落ちた。
「……いいですよ」
低く、静かな声だった。
しかし、その声が発せられた瞬間、コースの空気が物理的に重くなったように錯覚した。見守っていたたづなが、思わず息を呑んで一歩後ずさる。
「会長さんが、俺に『教員への道』をくれたので。俺、借りはきっちり一括で返す主義なんですよ」
それは、闘争心でも情熱でもない。
受け取った対価に対する、完璧な業務遂行の宣言にすぎない。
少女が初めて重心を深く沈め、走るための『本気のフォーム』を取った。ただそれだけの動作で、周囲の空間が歪んだかのような錯覚に陥る。圧倒的、かつ暴力的なまでの機能美。
「行くわよ、ルドルフ……ッ!」
「ああ……本懐だッ!」
ゲートはない。合図もない。ただ、三人の呼吸が完全に重なった瞬間。
風が、爆ぜた。
■
――踏み込みの音が聞こえなかった。と、ルドルフは後に語る。
ルドルフとマルゼンスキーが、大地を砕かんばかりの力強いストライドで飛び出したその瞬間、彼女たちの視界から「赤いジャージ」が完全に消失した。
「……ッ!?」
二人が前を向いた時、少女はすでに遥か彼方、数十メートル先を無音で滑空していた。
走っているのではない。飛んでいると形容するのすら生ぬるい。物理法則、空気抵抗、骨格の限界。ウマ娘という種族が背負うありとあらゆる枷を完全に無視した、ただの「絶対速度の現象」がそこにあった。
「あ……あぁっ……!」
コース脇で見ていた天皇賞覇者のシニア級ウマ娘が、震える両手で口元を覆い、腰から崩れ落ちた。
先ほどの天皇賞で、自分はあの怪物を相手に勝利した。そう思っていた。だが、今目の前で繰り広げられている光景はなんだ。
先ほどのレースで少女が見せていた走りは「手抜き」どころの話ではない。例えるならばあれは、最速にとってはただの「歩行」だったのだと、自覚させられる。
ターフの上では、ルドルフとマルゼンスキーが文字通り血の涙を流さんばかりの形相で追走していた。皇帝と、スーパーカー。ウマ娘の歴史の頂点に君臨する二人の、間違いなく生涯最高の走りだった。極限まで研ぎ澄まされた命の燃焼。
だが、残酷なまでに距離は開いていく。
大人が、よちよち歩きの幼児を置いていくような、絶対的で埋めようのない残酷な差。どれほど手を伸ばしても、どれほど魂を叫ばせても、少女の背中は小さくなっていく一方だった。
蹂躙。その二文字すら、この圧倒的な暴力の前では陳腐に思えた。
最終コーナーを曲がり、直線に入る頃には、少女の姿ははっきりと見えなくなっていた。そして、静寂のゴール板を、少女が無音で駆け抜ける。
それから遅れること、数十バ身。いや、もはや計測不能なほどの絶望的な距離と時間を経て、ルドルフとマルゼンスキーがようやくゴール板になだれ込んだ。
「はぁっ……! はぁっ……! はぁっ……!」
二人は、そのまま芝の上に大の字に倒れ込んだ。肺が千切れ、心臓が爆発しそうだ。指先一つ動かす余力すらない。全身の筋肉が断末魔の悲鳴を上げている。
持てるすべてを出し切った。己のウマ娘としての存在意義のすべてを懸けて、彼女の背中を追った。
だが、結果はどうだ。
少し離れたところで、少女は膝をつくどころか、息一つ乱していなかった。うっすらと額に汗を浮かべてはいたが、ただそれだけだ。彼女はジャージの裾でパタパタと風を送りながら、空を見上げて「あー、腹減った」と呟いている。
ルドルフは、荒い息を吐きながら、横で倒れているマルゼンスキーを見た。
マルゼンスキーも、首だけを動かしてルドルフを見た。
ウマ娘の頂点たる私たちが、まるで子供のように手も足も出なかった。今まで自分たちが積み上げてきた栄光も、歴史も、誇りも、あの子の本気の「恩返し」の前に、ただの砂の城のように吹き飛ばされてしまった。
あまりにも理不尽。あまりにも残酷。絶望して、泣き叫んで、心が完全に壊れてしまってもおかしくないほどの圧倒的な敗北だったのだが……。
「…………っ」
ルドルフの喉の奥から、くくっ、と奇妙な音が漏れた。マルゼンスキーも、肩を震わせた。
「ふ、ふふ……っ。あははははっ!」
「あーっはっはっはっはっは!!」
夕暮れの空に、二人の大爆笑が響き渡った。それは、狂ったわけではなく、すべての重圧、すべての「頂点であることの呪い」から解放された、清々しいほどの哄笑だった。
「見たか……マルゼンスキー……! あははっ、まるで、私たちが止まっているようだった……ッ!」
「ええ、見たわよ……っ! スーパーカーなんて名乗るのが恥ずかしくなるくらい……私たちはただの三輪車じゃない……あははははっ!」
ターフに寝転がったまま、涙を流して腹を抱えて笑う伝説の二人。それに釣られるように、コース脇でへたり込んでいた天皇賞覇者のウマ娘も、他の出走者たちも、やがて肩を震わせ、大声で笑い始めた。
自分たちは、あんな規格外の化け物と真面目に競い合おうとしていたのだ、と。
本気で絶望し、本気で泣き、本気で勝とうとしていた。それがどれほど滑稽で、無謀で、そして最高に「馬鹿げた青春」だったか。絶対的な力を見せつけられたことで、彼女たちの心にあった「届かないことへの未練」は、嘘のように雲散霧消していた。
「……何でみんな笑ってんですか。気持ち悪いな」
少女が、呆れたような顔で倒れ伏す二人の元へ歩み寄ってきた。
「約束通り、本気出しましたよ。俺の教員としてのポテンシャル、これくらい高いって証明できました?」
その言葉に、ルドルフは腹を抱えたまま、さらに吹き出した。これだけの神の如き走りを見せておいて、本人はまだ「教員になるためのアピール」だと本気で思っているのだ。ブレない。この怪物は、どこまで行っても絶対にブレない。
「ああ……っ。見事だった。君は……間違いなく、最高の教育者になるだろう」
ルドルフは、芝の上に身体を起こし、泥だらけの手をスッと前に差し出した。
「君のその途方もない才能を、私たちの身勝手な夢に付き合わせて悪かった。……どうか、君の信じる道を往け。無冠の最速」
それは、ウマ娘の頂点たる皇帝が、一人の少女に対して完全な敗北を認め、同時に最大の敬意を示す「握手」の求めだった。
少女は、差し出されたその泥だらけの手をじっと見つめ、やがて小さくため息をついた。
「ですから、俺は速さなんてどうでもいいんです。……でもまあ、会長さんたちの『お遊び』、結構楽しかったですよ。良い経験になりました」
少女は、面倒くさそうに、しかしどこか優しい手つきで、ルドルフの手をしっかりと握り返した。
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誰もが、ターフの中央でジャージ姿のまま飄々と立つ少女に、心からの畏敬と尊敬の念を向けていた。
彼女はG1のレイを首にかけることはなかった。殿堂入りのウマ娘として歴史に名を残すこともないだろう。
しかし、この場にいるすべてのウマ娘の魂に、決して消えることのない「最強」の烙印を刻み込んだのだ。
「あー、終わった終わった。じゃあ俺、推薦状もらって帰りますね。食堂の夜の部、限定ハンバーグ無くなっちゃうんで」
皆が見守る中、少女はフェンスに立てかけていた封筒を回収すると、そのままヒラヒラと手を振りながら、夕闇が濃くなる地下バ道へと歩き出していった。
その背中を見送るルドルフたちの顔には、もう一片の曇りもなかった。残されたのは、吹き抜ける秋の風と、伝説を見届けた清々しい疲労感だけ。
無冠の怪物は、最後までただの教員志望のまま、中央トレセンのターフから永遠に姿を消したのだった。