"やさしい"ウマ娘――UN-CROWNED―― 作:灯火011
「もぐもぐ……んー! やっぱり本気のレース後の特大デミグラスハンバーグは最高だな! 飯が美味いって、生きる喜びそのものだよ!」
すっかり日の落ちたトレセン学園の学生食堂。
貸し切り状態の静かなフロアで、赤いジャージ姿の少女は、タキオンの奢りである特大ハンバーグを幸せそうに頬張っていた。あの皇帝とスーパーカーを完膚なきまでに蹂躙した直後だというのに、彼女の関心はすでに「肉汁」へと完全にシフトしている。
向かいの席に座るアグネスタキオンは、自身の特製ブレンドティーを啜りながら、その様子をじっと観察していた。
「しかし、驚いたよ。君があそこまで『完璧な絶対値』を出せるとはね。……シンボリルドルフもマルゼンスキーも、見事に心を叩き折られながら、憑き物が落ちたような清々しい顔をしていたじゃないか。あれは、科学的にも非常に興味深い検体……いや、光景だった」
「いやー、疲れましたよ。でもまあ、これで本当に未練なく教職に専念できますからね。タキオンさんのおかげですよ、色々と面倒事押し付けちゃって」
少女は無邪気に笑い、付け合わせのポテトを口に放り込む。
タキオンは、ティーカップをコトリとソーサーに置き、ふと、ずっと気になっていた核心を突いた。
「ねえ、最速君。君はなぜ、そこまでして『教員』にこだわるんだい?」
「ん? なんでって、安定してるし、公務員だし、食いっぱぐれないし……」
「嘘だね」
タキオンの目が、科学者のそれに変わる。
「君のあの走り……今日見せた本気のストライドには、極限まで無駄を削ぎ落とした『洗練』があった。あれは、最初から走ることに興味がなかった者のフォームじゃない。君はかつて、誰よりも『速く走ること』を愛し、真剣に向き合っていた時期があるはずだ。……違うかい?」
カチャリ、と。
少女がフォークを皿に置く音が、静かな食堂に響いた。
■
少女は少しの間、残ったハンバーグを見つめていたが、やがて自嘲気味に息を吐いた。
「……タキオンさんって、本当に嫌なところ突いてきますよね」
「研究者の性でね。で? 君の口から直接聞きたいものだ。君のような怪物が、なぜ夢を捨てたのかを」
「……もちろん、三冠、獲りたかったですよ。私だって。誰よりも速く、一番になりたかった」
ぽつりと漏れたその声には、今まで彼女が一度も見せたことのない、微かな「温度」があった。
「昔は、走るのが大好きだったんです。でも、私は『速すぎた』んですよ」
少女は、窓の外の暗い空を見つめながら、淡々と語り始めた。
「最初はみんな、すごいねって褒めてくれました。でも、私が速くなればなるほど、周りの空気が変わっていったんです。一緒に走っていた友達は、私に蹂躙されてボロボロ泣いて、次々とターフを去っていきました。地元のトレセンの教員たちも、私のタイムを見て顔を引き攣らせるようになった。親ですら、私の脚を見て……『化け物を見るような目』をしたんです」
向けられるのは、羨望ではなく、絶望と恐怖。少女が速くなればなるほど、彼女の周りからは「人」が消えていった。
「それでも、私は走りたかった。でも、ある地方のレースで……私、初めて『わざと』手心を加えたんです。少し手を抜いて、2着になった」
「……」
「そしたらね。周りの大人たちも、友達も、親も……みんな、心の底から『ホッとした顔』をしたんですよ」
少女は、フォークの先でポテトをツンツンと弄びながら、ふっと自嘲気味に笑った。
「『よかった、あの子も普通のウマ娘だったんだ』って。私が負けたことで、周りの世界が、急に優しくなったんです。……この間のナイターで、私がルドルフ会長にわざと負けた時……観客席のみんな、地鳴りみたいな大歓声を上げたでしょ? 泣いて喜んでるヤツもいた」
「……ああ。皇帝がウマ娘の尊厳を守ったと、誰もが熱狂していたね」
「そんなもんなんですよ、他人の感情って。トレセン学園なら……っていう、少しの希望はあったんですけれど、まぁ……」
少女は、窓の外の暗い空へ視線を投げた。
「誰かが一生懸命に血反吐を吐いて頑張って、ギリギリのところで強敵を倒して勝つ。それがみんなの見たい『正しい物語』なんです。そこに私みたいな、息も乱さずに全部蹂躙しちゃうバグが混ざってたら、誰も感動できないし、誰も幸せになれない」
あの日、わざと負けた時に見た、周囲の安堵した顔。
そしてこの間、わざと負けた時に聞いた、地鳴りような歓声。
「私が勝っても……喜ぶ人は居ない」
それが、彼女にとっての「世界」の正体だった。
「私の本気は、世界を壊してしまう。愛する人たちを恐怖させて、他人の正しい物語をぶち壊してしまう呪いだ。だから、私はもう二度と本気で走らないって決めたんです」
その時、タキオンは初めて気づいた。
主人公のあの底知れぬ無関心、俗物的な態度は、ただの気質ではない。
自分という怪物を、凡庸な世界の中に押し留めておくための、彼女自身の手による「葬儀」そのものだったのだ。彼女は誰よりも深く、誰よりも傷ついて、自分という存在を殺していた。誰よりも、一番で、速く走りたい心を隠して。
「……でもね。タキオンさん。私に負けて走るのを辞めようとしてた友達に、フォームのアドバイスをしたことがあって。そしたらその子、次のレースで自己ベストを出して……私に、泣きながら『ありがとう』って言ってくれたんです」
少女の瞳に、再び静かな光が宿った。
「自分が勝ってバケモノ扱いされるより、あの子たちが勝って笑ってくれるのを見るの方が、ずっと嬉しかった。……私が教員になりたい理由は、それだけですよ」
語り終えた少女は、「あー、ハンバーグ冷めちゃった」とおどけながら、再びフォークを手に取った。
そこにはもう、悲壮感はなかった。彼女はとうの昔に、自分という怪物を殺し、その死体の上に「教員」という穏やかな居場所を築いているのだから。
「ごちそうさまでした! じゃ、俺は明日から地方での実習準備があるんで、寮に戻りますね! タキオンさんも、色々と本当にありがとうございました!」
少女は快活に笑い、タキオンにヒラヒラと手を振って、食堂を後にした。
■
深夜のトレセン学園。
冷たい秋風が吹き抜けるキャンパスの遊歩道を、アグネスタキオンは一人、白衣を翻して歩いていた。だが、彼女の足取りは、いつものような軽快なものではなかった。
「……フン」
タキオンは、ポケットに突っ込んだ手を、ギリッと強く握りしめた。彼女の脳裏に焼き付いているのは、夕暮れのターフで見せた、あの少女の神懸かった走りのデータ。そして先ほど聞いた、あまりにもくだらない、そしてあまりにも深い走りを辞めた理由。
ウマ娘の限界。その先にある「向こう側の景色」。
あの少女は、間違いなくそれを掴み取れる、ただ一人の器だった。
「……ウマ娘の、向こう側を、見れたであろう、才能が」
タキオンの口から、低く、ドス黒い怒りに満ちた声が漏れた。
「凡夫に――、いや、『凡夫の世界を壊さぬため』に、潰された、というわけだ」
タキオンの心にあったのは、科学者として、真理を探求する者としての、理不尽なまでの「損失」への憤りだった。少女はターフを愛していた。だが、彼女はそれ以上に、他人の感情が壊れることを恐れた。自分が怪物であることを拒絶し、凡庸な世界のために、自らその羽を無残にもぎ取って、殻に閉じこもったのだ。
「誰のせいでもない。君自身の、あまりにも優しい選択だ」
タキオンは、誰もいない夜空に向かって吐き捨てるように呟いた。彼女の奥歯が、ギリッ、と強く噛み締められる。
「ならば私が往こうじゃないか。君が恐れた孤独の先へ」
それはもう、決して交わることのない二つの道。
「たとえ、この私の脚がどうなろうともね」
マッドサイエンティストは、闇に溶けるように寮へと歩みを進めながら、二度とターフに戻ることのない「史上最高の実験体」にして「唯一無二の友人」が抱える深い深い闇と――彼女を潰した凡庸な世界に、静かに、そして激しく歯噛みをした。
「……そうだろうとも」