"やさしい"ウマ娘――UN-CROWNED―― 作:灯火011
トレセン学園、生徒会室。
放課後の喧騒から切り離された静寂の中、シンボリルドルフは机に積まれた書類に目を通していた。ウマ娘たちの輝かしい未来を形作るための、大切な業務。しかし、今日に限ってはどうにもペンが進まなかった。
数日前にこの学園を去り、教員として宇都宮へと旅立っていった「あのジャージ姿の少女」のことが、脳裏にこびりついて離れなかったのだ。
コン、コン。
規則正しく、礼儀を弁えた控えめなノックの音が響く。
「入れ」
ルドルフが応じると、重厚な扉が静かに開いた。そこに立っていた人物を見て、皇帝は微かに目を丸くした。
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「……アグネスタキオンか。珍しいな、君がここへ来るとは」
白衣を纏ったウマ娘――アグネスタキオン。普段であれば、扉など蹴り開ける勢いで飛び込んでくるか、怪しげな薬品の煙と共に窓から現れてもおかしくない奇人である。だが今日の彼女は、手ぶらだった。しかも彼女は、わざわざ生徒会の正規の面会手順を踏み、アポを取ってからこの時間に訪ねてきたのだ。
あまりにも彼女らしくない行動に、ルドルフは警戒すら覚えながら席を立った。
「やあ。忙しいところすまないね。会長」
タキオンは静かに歩み寄り、ルドルフの対面に腰を下ろした。その瞳には、いつものような「未知の実験体を前にしたマッドサイエンティスト」の狂熱はなく、どこまでも静かで、底知れぬ理知的な光だけが宿っていた。
「それで、タキオン。用件はなんだろうか。君がわざわざ正規の手続きを経てまで私に会いに来るなど、天変地異の前触れかと疑ってしまうが」
「ククッ、違いない。だが、今日ばかりは手順を踏む必要があった。……私情ではなく、一つの『報告』としてね」
タキオンは、ふう、と短く息を吐き、静かに告げた。
「あの最速のジャージ君……彼女がなぜ、あれほどの異常なまでの無関心を装い、ウマ娘としての夢を捨てて教員という道に固執したのか。その理由についてだ」
ルドルフの肩が、ピクリと揺れた。あの日、タイマン勝負で完膚なきまでに叩きのめされた後でも、ルドルフは彼女の真意を完全には理解しきれていなかった。圧倒的な才能を持ちながら、なぜターフに一切の未練を残さずに去れたのか。
「……君は、何か知っているのか」
「ああ。あの天皇賞の日、夜の食堂でね。……ひどく、くだらなくて、あまりにも残酷な話だったよ」
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タキオンは、静かな声で語り始めた。
かつて、走ることが大好きだった純粋な少女がいたこと。
しかし、その才能が『速すぎた』こと。
一緒に走っていた友人たちが、圧倒的な蹂躙の前に心を壊し、泣きながら次々とターフを去っていったこと。
地元の教員たちが、限界を超越したタイムを前に顔を引き攣らせたこと。
そして――、何より愛していたはずの親すらも、彼女の脚を見て、『化け物を見るような目』をして距離を置いたこと。
「初めてわざと負けた時、周りの人間が心の底から安堵した顔を見せたそうだよ。彼女は、自分の本気が世界を壊し、他人の感情を恐怖に染め上げる『呪い』なのだと、子供ながらに悟ってしまったのさ」
タキオンの言葉が、重い鉛のように生徒会室の空気を沈ませていく。
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「それは……っ」
ルドルフは絶句した。
ウマ娘にとって、走ることは本能だ。速くありたいと願うのは、呼吸をするのと同じくらい自然なことだ。その本能のままに生きた結果、愛する者たちから「バケモノ」として排斥され、孤独の淵に叩き落とされた少女の絶望がいかほどのものだったか。
「彼女は、ターフを愛していた。だが、それ以上に……他人の感情が壊れるのを恐れたんだ。だから自分という怪物を殺し、絶対に本気を出さないという殻に閉じこもった。それが、あの底知れぬ無関心と、徹底した俗物主義の正体だよ」
タキオンの視線が、ルドルフを真っ直ぐに射抜いた。
「会長。彼女が学園のベンチで、食堂で、いつも読んでいた分厚い本を覚えているかい?」
「……教育法規や、児童心理学……そうか……!」
ルドルフの顔が蒼白になった。教員免許を取るためだと思っていた。だが、それだけではない。彼女が常に『心理学』の本を読み漁っていたのは、単なる単位取得のためではない。
「そう。彼女はずっと探していたのさ。自分が壊してしまった普通の人間の『心』の仕組みを。どうすれば他者を傷つけずに済むのか。どうすれば、敗者の心に寄り添い、凡夫たちを正しく導けるのかを……彼女は血を吐くような思いで、あの本から答えを見出そうとしていたんだ」
ガタンッ!
ルドルフは、弾かれたように椅子を蹴立てて立ち上がった。視界が揺れていた。胸の奥を、取り返しのつかない罪悪感が激しく掻き毟っていた。
「私は……何ということを……っ!」
ルドルフの手が震えていた。自分は彼女の才能だけを見て、ウマ娘の理想を押し付けた。
あろうことか、大観衆のひしめく天皇賞のターフに彼女を引きずり出し、ナイターのタイマン勝負で「本気で走れ」と強要までしたのだ。彼女がどれほどの血の涙を流して封印したトラウマかも知らずに。他人の世界を壊さないために築き上げた防壁を、力ずくでこじ開けようとした。
「すまない、タキオン。私は、今すぐ宇都宮へ行かなければならない。彼女に……あの無惨な傷を抱えたまま一人で歩ませてしまった彼女に、謝罪を……!」
ルドルフが扉へ向かおうとしたその瞬間。
「やめ給え、シンボリルドルフ」
冷徹な、しかし絶対の拒絶を孕んだタキオンの声が、ルドルフの足を縫い止めた。
「……退いてくれ、タキオン。これは生徒会長としてではなく、私の個人的な――」
「だから、行くなと言っているんだ。私にも……君にも、その資格も、権利もない」
立ち塞がるタキオンの瞳は、決して冷たいものではなかった。それは、傷ついた友人の平穏な居場所を、絶対に荒らさせまいとする強固な「盾」の目をしていた。
「子供の頃に受けたそのトラウマは、すでに治る、治らないの次元ではないんだよ。彼女は完全にそれを受け入れ、その死体の上に『教員』という生きがいを見つけたんだ。……今の彼女にとって、君のような存在は猛毒だ」
「猛毒……?」
「そうだ。君は、彼女が絶対に手に入れることの許されなかった『三冠』という夢を叶え、皆に愛され、祝福されながら走る喜びを体現したウマ娘だ。君という眩しすぎる光が今更彼女の前に立てば、彼女がようやく見つけた静かな生活の歯車を狂わせる『劇薬』にしかならない」
タキオンの言葉は正論だった。残酷なまでの正論だった。ルドルフが謝罪に行くことは、ルドルフ自身のエゴを満たすための贖罪でしかない。彼女はすでに、自分の力で立ち上がり、前を向いて歩いているのだ。
ルドルフは、その場に力なく膝をついた。ウマ娘の幸福を誰よりも願っていた自分が、一人の少女に対して、これほどまでに無理解で、暴力的な振る舞いをしていたという事実。
「私は……取り返しのつかないことをした。天皇賞という、彼女にとって最も残酷な舞台に引っ張り出し、さらにナイターで……彼女に、再び世界を壊す恐怖を味わわせてしまった……っ」
床に落ちたルドルフの視界に、後悔の涙が滲む。
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そんな皇帝の姿を見下ろしながら、タキオンはふっと、憑き物が落ちたような、どこか優しい息を吐いた。
「……いや。きっと、そうではないよ」
「え……?」
「あの日、私の前でハンバーグを平らげながら、彼女はこう言ったんだ。『やっぱり本気のレース後の特大デミグラスハンバーグは最高だな! 飯が美味いって、生きる喜びそのものだよ!』……とね」
ルドルフは、ハッとして顔を上げた。
「君と、マルゼンスキー。二人相手に、本気で走れたのさ。彼女は」
タキオンの言葉が、静かに、温かく生徒会室に響き渡った。
「あのナイターのタイマン勝負……。彼女がどれだけ理不尽な本気を振るっても、君とマルゼンスキー君は決して心を壊さなかった。絶望して泣き叫ぶどころか……大口を開けて、泥だらけになって笑い飛ばしたじゃないか」
タキオンは、少しだけ得意げに笑った。
「彼女にとって、自分の全力をぶつけても『壊れない人間』がこの世界にいたということは、どれほどの救いだったか。……あの一瞬だけは、彼女はトラウマを忘れ、誰の目も気にせず、ただの一人のウマ娘として風になれたんだ。君が、彼女にその瞬間を与えたんだよ」
ルドルフの瞳から、一粒の涙が零れ落ちた。
圧倒的な敗北を喫し、ターフに寝転がってマルゼンスキーと共に大笑いしたあの夜。
あれは、自分たちが重圧から解放されただけの笑いではなかったのだ。無意識のうちに、あの孤独な怪物の魂を、ほんの少しだけ肯定してやれた笑いだったのだと。
「……そうか。彼女は……あの日の夜、笑っていたか?」
「ああ。――最高に美味しそうに、下品にポテトを頬張りながらね」
ルドルフは、ゆっくりと立ち上がった。
その顔には、先ほどまでの悲痛な後悔はなかった。代わりに宿っていたのは、一人の偉大な教育者としての、確かな覚悟と慈愛だった。
「ありがとう、タキオン。君が止めに来てくれなければ、私はまた、自分の理想というエゴで彼女の平穏を土足で踏み躙るところだった」
「気にすることはないとも。私も、私の研究対象のデータがこれ以上外部要因でブレては困るからね」
タキオンはいつものように肩をすくめ、白衣を翻して扉へと向かった。そして、扉のノブに手をかけたところで、振り返らずにぽつりと言った。
「私たちは怪物だ。真理を求め、頂を求める、業の深い怪物だ。……だが、あの凡庸な世界を選んだ優しき友人の背中くらいは、邪魔せずに見守ってやろうじゃないか。シンボリルドルフ」
「……ああ。約束しよう」
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重厚な扉が閉まる。生徒会室に一人残されたシンボリルドルフは、窓の外を見た。
遠く、宇都宮の空へと続く青空。
あの下で、赤いジャージを着た不器用で、優しい怪物が、ストップウォッチを片手に、教え子たちに不器用なエールを送っているのだろう。
「往け、無冠の最速。君の選んだ、君だけの正しい物語を」
皇帝は、誰に聞こえるでもなく静かに呟き、そして、晴れやかな顔で再び自身の机の上の書類――未来のウマ娘たちを導くための仕事へと、ペンを走らせ始めた。