"やさしい"ウマ娘――UN-CROWNED―― 作:灯火011
すっかり日の落ちた宇都宮駅前。
ネオンが瞬く繁華街の路地裏にある、こじんまりとした老舗の餃子屋。店内には香ばしい油とニンニクの匂いが充満し、ジュージューと鉄板が音を立てている。
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「はい、特大焼き餃子三人前、追加ね!」
「あざっす! ……いやー、やっぱり仕事終わりの餃子は最高だな!」
赤いジャージ姿の彼女は、山盛りの餃子を次々と口に運びながら至福の表情を浮かべていた。
その対面。少し変装用の帽子を深く被ったG1ウマ娘――あの天皇賞(秋)を制覇し、今日も地方の生徒たちに圧倒的な走りを見せつけた現役最強のウマ娘は、箸を止めて、ウーロン茶の入ったグラスを見つめていた。
「……? どうしたんだよ、急に黙り込んじゃって。餃子冷めるぞ?」
ジャージ姿の彼女が頬袋を膨らませながら首を傾げると、G1ウマ娘はふと、顔を上げて彼女を真っ直ぐに見た。その瞳には、G1のターフに立つ時と全く同じ、ヒリヒリとするような熱が宿っていた。
「……まだ、挑みたいんだよね。貴女に」
静かな、けれど有無を言わせぬ重い宣告だった。彼女の箸が、ピタリと止まる。
「あの夜、ルドルフ会長とマルゼンスキーさんと走ったタイマン。私はコースの脇で見ていたわ。……あんなのを見せられて、私がこのまま大人しく引き下がると思う?」
G1ウマ娘の言葉に、彼女はゆっくりと視線を落とし、自嘲気味に笑った。普段の「面倒くさい」と嘯く飄々とした態度はなく、そこにあったのは、ひどく臆病で、自虐的な脆さだった。
「……いや、私にそんな価値はないよ」
「は……?」
「俺はもう、ターフには立たない。俺の走りはさ、御存じの通りで。お前たちみたいに、誰かに夢や感動を与えられるような綺麗な走りじゃないんだ。俺の走りは、ただの暴力だから……誰も幸せにしない」
過去のトラウマが、無意識に彼女にブレーキをかけさせていた。自分が本気を出せば、また人が離れていく。絶望させてしまう。せっかく今、こうして餃子を一緒に食べてくれる存在すらも、壊してしまうかもしれない。
だが。
ダンッ!! と、G1ウマ娘が、力任せにテーブルを叩いた。小皿が跳ね、周囲の客が何事かと振り返る。
「ああもう! うじうじしない!」
「……え?」
「貴女は最強なの! あんだけ圧倒的に会長とマルゼンスキーさんを叩きのめしたのに、なんでこんな場所でくすぶってるかなぁ!」
激昂するG1ウマ娘。最速の彼女は目を丸くして身を引いた。
「……うるさいなぁ。こっちにも事情が……」
「知った事じゃあないわよ!!」
一喝。
G1ウマ娘は身を乗り出し、最速の胸ぐらを掴みかからんばかりの勢いで吠えた。
「過去に何があったか知らないけどね、全く貴女は! なーにも判ってない! 自分がどれだけ理不尽で、どれだけムカつく存在か!」
「ちょ、おま……声でかいって!」
「走るわよ、今から!」
「はあ!?」
G1ウマ娘は小銭をテーブルに叩きつけると、ジャージの腕を強引に引っ張り、店を飛び出した。
■
夜の宇都宮駅前、大通り。人波が引いた広い歩道。冷たい秋風が吹き抜ける中、二人は並んで立っていた。
「……正気かよ。こんなとこで」
「正気よ。ほら、そこからあの交差点の信号機まで。……全力で来なさい!」
G1ウマ娘の瞳は、ギラギラと燃え上がっていた。
対して、最速のウマ娘はため息をついた。ここで適当に手を抜けば、彼女は納得するだろうか。いや、今の彼女の目をごまかすことなどできない。
(……もしここで私が本気を出したら。また、あの『絶望した顔』をされるんじゃないか)
得も言われぬ恐怖が足をすくませる。だが、G1ウマ娘の強烈な闘気が、最速のウマ娘の逃げ道を塞いでいた。
「行くわよ……ッ!」
G1ウマ娘が、アスファルトを蹴って飛び出した。現役最強のストライド。G1の舞台で磨き上げられた、美しくも力強い走り。
最速のウマ娘は一瞬だけ目を閉じ、そして――弾かれたように大地を蹴った。
風が、爆ぜた。
景色が線のように流れ、周囲の音が完全に消え去る。
あの日、夜のターフで感じた、血が沸騰するような極限の加速。自分という怪物の、純粋な解放。
(ああ、やっぱり。走るのって、楽しい――)
数秒後。交差点の信号機の下を、最速のウマ娘は無音で駆け抜けた。少し遅れて、激しい足音と共にG1ウマ娘がゴールし、膝に手をついて荒い息を吐き出す。
「はぁっ……! はぁっ……!」
最速のウマ娘は、立ち止まったまま振り返れずにいた。
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――やってしまった。また、圧倒的な力を見せつけてしまった。これで彼女も、俺のことをバケモノだと悟り、絶望して、距離を置く。あの日と同じように。
「……ほら」
震える声でぽつりと呟いた。
「そうやって、また化け物みたいに……」
自嘲と共に振り返った彼女の目に飛び込んできたのは、絶望でも、恐怖でも、諦めの顔でもなかった。
「はぁっ……はぁっ…………あーっ、くそっ!」
汗だくのG1ウマ娘は、顔をくしゃくしゃにして悔しがりながら、それでも、その瞳をギラギラと星のように輝かせ、真っ直ぐに彼女を睨みつけていた。
「……やっぱり、速いじゃない……!」
G1ウマ娘の顔に、ニヤリと好戦的な笑みが浮かぶ。
「ぜんっぜん届かない。ムカつく。……でも、次こそ絶対負かす……!」
最速のウマ娘は、息を呑んだ。恐怖など微塵もない。G1ウマ娘にとって、彼女の理不尽なまでの速さは「世界を壊す呪い」などではなかった。
絶対に超えるべき、そして挑み甲斐のある『最強のライバル』でしかない。
その事実を理解した瞬間、心に分厚くへばりついていた過去のトラウマが、音を立てて砕け散った。
本気で走っても、壊れない感情がある。
自分の全力を、真っ向から受け止めて、笑ってくれる相手がいる。
それはきっと、あの日のシンボリルドルフも、マルゼンスキーも、いや、トレセンで挑んできたウマ娘が、すべからく、持っていたものだった。
「…………ああ……」
最速のウマ娘の喉の奥から、くくっ、と奇妙な音が漏れた。
「……は、ははは! あーっはっはっは!」
夜の駅前通りに、心からの爆笑が響き渡った。
ずっと押し殺していた、ウマ娘としての歓喜。それは、教員という殻を脱ぎ捨てた、ただの一人の少女としての純粋な笑い声だった。
「な、何。気持ち悪い、いきなり笑って」
G1ウマ娘が顔を引き攣らせる。
「いや、ごめんごめん。……お前、本当に諦め悪いなって」
最速のウマ娘は、目尻に滲んだ涙を指で拭いながら言った。
「は? あたりまえでしょう? 確かに学園で一回は心折れたけどさ、で? それが何? 何度でも挑むに決まってるじゃない」
胸を張って言い切るG1ウマ娘の姿は、ひどく眩しかった。最速のウマ娘は少しだけ微笑むと、大きく深呼吸をして、秋の冷たい空気を肺いっぱいに吸い込んだ。
「いや……ありがとうな」
「お礼なんていらないわよ。それより、さっさと店に戻るわよ! まだ餃子残ってるんだから!」
「お、そうだった。冷める前に食わないとな!」
二人は、夜の街を肩を並べて歩き出した。
「なぁ」
「ん? 何よ?」
「今度は、……私から挑んでも……良い、……かな?」
最速のウマ娘はもう、自分が速すぎることを恐れてはいなかった。
「もちろん。良いに決まってるでしょう? むしろ願ったり叶ったりよ」
彼女が表舞台に立つことはないかもしれない。それでも、自分の全力をぶつけても壊れない「好敵手」が、この世界には確かに存在しているのだから。
「そっか。……そっか。――そっか!」
夜空には、煌々とした満月が、二人のウマ娘の影をアスファルトに長く映し出していた。