"やさしい"ウマ娘――UN-CROWNED――   作:灯火011

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エピローグ:最速の残香と、泥だらけの挑戦者たち

 春のうららかな陽光が差し込む、宇都宮のトレセン学園の職員室。

 

 古びたブラウン管のテレビに映し出された中山レース場のターフは、異様なまでの静寂と、直後に爆発した熱狂の渦に包まれていた。

 

『――アグネスタキオン、圧倒的! もはや次元が違う! 後続を全く寄せ付けず、今、一着でゴールイン!! 見事な皐月賞制覇です!!』

 

 画面の向こう側。白の勝負服を纏ったウマ娘が、息一つ乱すことなく悠然とターフを流している。

 

 二着以下には、絶望的とも言える大差がついていた。圧倒的な蹂躙。ウマ娘の限界すらも科学でねじ伏せるような、完璧で無慈悲な走りだった。

 

 

 赤いジャージ姿の最速のウマ娘は、パイプ椅子に深く腰掛けたまま、その光景をじっと見つめていた。

 

(……あんなに走れたのか、タキオンさん)

 

 中央の学園にいた頃、面倒な雑事をすべて引き受け、自分の平穏な教員生活への道を裏から支えてくれた奇妙な恩人。いつもビーカーで怪しげな紅茶を啜っていた彼女の、底知れぬ真の実力を初めて知った。

 

「……すっごいな」

 

 画面越しのその美しく恐ろしい走りに、最速のウマ娘の口から、純粋な感嘆の吐息が漏れる。あれほどの才能を持ちながら、自分の不器用な生き方を咎めることなく背中を押してくれた彼女への、静かな敬意だけがあった。

 

 

 放課後。土埃が舞うダートコースには、いつにも増して熱気と興奮が渦巻いていた。

 

「見た!? 今日の中継!」

 

「見た見た! アグネスタキオン、やばすぎでしょ! あんなのどうやって勝てばいいの!?」

 

「でもすっごくかっこよかったー! 私もあんな風に走ってみたいなぁ!」

 

 地方の生徒たちは、テレビで見た同世代のバケモノの走りに、絶望するどころか目をキラキラと輝かせていた。ウマ娘とは、圧倒的なものを見せつけられるほどに、本能の底から闘争心を掻き立てられる生き物なのだ。

 

「おーい、お前ら。人のレース見てはしゃいでる暇があったら、さっさとアップ終わらせろー」

 

 首からストップウォッチを下げたジャージ姿の彼女が、パンパンと手を叩いて生徒たちを集める。

 

「はーい、先生!」

 

「先生もタキオンのレース見ました!? すごかったですよね!」

 

 興奮冷めやらぬ生徒たちに、最速のウマ娘はニヤリと悪戯っぽい笑みを浮かべた。

 

「ああ、見たよ。……でもな、上ばかり見てても足元掬われるぞ。今日は特別メニューだ。実戦形式の追い切りをやる」

 

 彼女は、コースのスタートラインに歩み寄り、軽くアキレス腱を伸ばした。

 

「今日は俺について来れたヤツに、駅前の特大餃子、腹いっぱいおごるぞー。もちろんライス付きな!」

 

「えっ!?」

 

「マジで!? やったー!!」

 

「先生のおごりだー! 絶対食う!」

 

 食欲という分かりやすい餌に、生徒たちの目の色が変わる。最速のウマ娘は軽く笑いながら、生徒たちと共にスタートラインに並んだ。

 

「位置について。……よーい、ドン!」

 

 生徒の合図と共に、一斉にダートコースを駆け出す。最初は、いつものようにペースメーカーとして、生徒たちの集団の少し前をゆっくりと走っていた。息を合わせ、フォームを確認しながらの穏やかなランニング。

 

 生徒たちも「餃子餃子!」と笑い合いながら、必死に食らいついてくる。

 

(……よし)

 

 最終コーナーを曲がり、直線に入った瞬間。最速のウマ娘は、ふっと息を吐き――ほんの少しだけ、ストライドを広げた。

 

 バツンッ! と、空気が弾ける音がした。

 

 彼女の身体が、一瞬にして生徒たちの視界から遠ざかる。

 

 土埃を巻き上げ、ダートのバ場を削り取るような、圧倒的な加速。ほんの数秒、ほんの数パーセントだけ見せた「本気」の片鱗。それだけで、生徒たちとの間には、数十メートルという絶望的な距離が一瞬にして開いた。

 

「え……っ?」

 

「うそっ、はや……っ!?」

 

 後ろから、生徒たちの悲鳴のような声が聞こえる。

 

 その瞬間、最速のウマ娘の心臓が、ドクンと冷たく跳ねた。

 

(――また、やってしまった)

 

 あの日、G1ウマ娘との夜のレースで、トラウマは乗り越えたはずだった。それでも、心の奥底にこびりついた「恐怖」は、そう簡単に完全に拭い去れるものではない。

 

(もし、後ろを振り返って……)

 

 教え子たちが、あの頃の友達のように絶望して、顔を引き攣らせて、足を止めてしまっていたら。

 

 最速のウマ娘は、ゴール板を駆け抜けながら、ビクッと肩を震わせ、恐る恐る後ろを振り返った。

 

「あ……」

 

 土煙の向こう側。そこに見えた物は――。

 

「待ってえええええ!!」

 

「先生! それズルい! 大人げない!!」

 

「絶対抜かす! 餃子ァァァァッ!!」

 

 泥だらけになり、顔をくしゃくしゃに歪めながら。

 

 それでも、誰一人として足を止めることなく、その瞳をギラギラと獣のように輝かせて、一直線に彼女の背中を追いかけてくる教え子たちの姿があった。

 

 圧倒的な力を見せつけられても、決して折れない。

 

 G1ウマ娘だけでなく、この泥だらけの地方の生徒たちすらも。ウマ娘の魂は、皆一様に強く、美しく、そしてどこまでも諦めが悪かった。

 

「……ふっ」

 

 最速のウマ娘は、呆れたように、そして心の底からの安堵と共に、顔を綻ばせた。

 

「なんだよ、お前ら。……最高じゃねえか」

 

 自分がどれだけ理不尽な本気を見せても、この世界は壊れない。受け止めて、笑って、牙を剥いて向かってきてくれる。

 

 ドタドタとゴールになだれ込んで、そのままダートに大の字に倒れ込む生徒たち。

 

「はぁっ、はぁっ……! 先生、速すぎ……っ」

「くそーっ! 絶対、卒業までに一回は勝ってやる……っ!」

 

 悔し涙を滲ませながらも、闘志を燃やす生徒たちを見下ろして、フッと小さく笑みを浮かべた。

 

「……良いもんだな、レースって」

 

 それは、まぎれもない本心からの言葉。呪いはもう、呪いでは無くなっていた。

 

「よっし、頑張ったなお前ら。今日はその頑張りに免じて、餃子、奢ってやるよ」

 

「え? マジ! 先生サイコー!」

「おおー! いっぱい食べるぞー!」

 

 最速のウマ娘は、喧しい生徒たちを尻目に、青く澄み渡る宇都宮の空を見上げた。

 

 その横顔に浮かんでいたのは、一人の『最速のウマ娘』としての、純粋で、どこまでも晴れやかな笑顔だった。




曇らせモノっぽい物語でした。

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