"やさしい"ウマ娘――UN-CROWNED――   作:灯火011

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DTL編―2話 埋まる空席

 宇都宮から新幹線を乗り継ぎ、数年ぶりに見上げる中央トレセン学園の正門は、記憶にあるよりもずっと巨大で、ひどく威圧的に見えた。

 

 擦り切れた赤いジャージのポケットに手を突っ込みながら、最速のウマ娘は整備された石畳を歩く。すれ違うエリート候補生たちは、見慣れないジャージ姿の女を不思議そうに眺めては通り過ぎていく。無理もない。彼女がかつてこの学園で振るった「無関心という名の暴力」は、もはや一部の世代の心に深く刻まれただけの、生きた都市伝説に過ぎないのだから。

 

 ターフから聞こえてくる芝を蹴る音、熱を帯びた歓声。

 

 かつては、他人の感情をぶち壊してしまうのが恐ろしくて、ただ耳を塞いで逃げ出したかった音。だが、今の彼女の耳には、それが純粋な「命の躍動」として、どこか心地よく響いていた。

 

 迷うことなく足を進め、重厚な樫の扉の前に立つ。

 

 コン、コン。

 

 短くノックをすると、中から「入れ」と、昔と何も変わらない、深く静謐な声が響いた。

 

 

 扉を開けると、そこには机に山と積まれた書類に向かっているシンボリルドルフの姿があった。

 

 彼女が顔を上げ、来訪者の姿を視界に捉えた瞬間。皇帝の手に握られていた万年筆が、ピタリと止まった。

 

「……久しぶりですね、生徒会長さん」

 

 飄々とした態度で部屋に入ってきたかつての「無冠の最速」を前に、ルドルフはゆっくりとペンを置き、立ち上がった。その瞳には、驚きと、そして隠しきれない緊張が走っていた。

 

「君が、自らここへ足を運ぶとはな」

 

 ルドルフは、彼女の手にある金色の封筒――ドリームリーグへの招待状に目を落とした。

 

「あの馬鹿が、わざわざこんな物まで同封してきやがってさ」

 

 最速のウマ娘は、招待状と一緒に送られてきた『逃げんなよ、最強』と殴り書きされた手紙をヒラヒラと振ってみせた。

 

「……出走を、受けるつもりか」

 

 ルドルフの声は、ひどく低く、硬かった。挑戦を受ける歓喜よりも先に、教育者としての強い懸念が前に出ていた。

 

「本当にか? タキオンから、君の過去については聞いている」

 

 ルドルフは、机に両手をつき、最速のウマ娘を真っ直ぐに見据えた。

 

「君が子供の頃に抱えた傷。……自分の本気が世界を壊し、愛する者たちから『バケモノ』として距離を置かれたという絶望。君はそれを封印し、他人の心を守るためにターフを降りたはずだ。もし、このドリームリーグという狂乱の極致とも言える舞台で君が本気を出せば……あの日の恐怖が、再び君を苛むかもしれないんだぞ」

 

 それは、かつて彼女の傷を知らずにナイターのタイマン勝負を強要してしまった、ルドルフ自身の深い後悔から来る制止だった。これ以上、この不器用で優しい怪物を傷つけたくない。皇帝としてのエゴではなく、一人のウマ娘としての、痛切な気遣いだった。

 

 その言葉を受け、最速のウマ娘は少しだけ俯き、手の中の招待状をギュッと握りしめた。

 

「……確かに、恐怖はあります」

 

 静かな告白だった。宇都宮の駅前でG1ウマ娘と走り、教え子たちと走り、本気を受け止めてもらえる喜びを知った。それでも、完全に傷が癒えたわけではない。何万という大観衆の前で、歴代の頂点を極めたバケモノたちをまとめて蹂躙してしまった時、世界が自分にどんな目を向けるのか。想像するだけで、足がすくむ。

 

「ですが」

 

 最速のウマ娘は、顔を上げた。

 

 その瞳の奥には、かつての「凪」のような虚無はなかった。宇都宮のダートコースで生徒たちに見せるような、ただの教師の顔でもなかった。

 

 そこにあったのは、純粋な飢え。

 

 今までずっと押し殺し、否定し、自分自身の手で葬り去ろうとしてきた、ウマ娘としての原始的な闘争心が、剝き出しになっていた。

 

「一度ぐらいは……本気で、勝ちに行ってみたいんです」

 

 その言葉が、生徒会室の空気を震わせた。

 

 今まで「適当に走る」「手心を加える」「コスパが悪い」と嘯き、勝利という概念から逃げ続けてきた彼女が、生涯で初めて口にした『勝ちに行く』という明確な意思表示。

 

 誰のためでもない。他人の感情を忖度するためでもなく、自分自身が、一番先にゴール板を駆け抜けるために走る。

 

「…………っ」

 

 ルドルフの目が、カッと見開かれた。教育者としての理性を、ウマ娘としての本能が完全に食い破った瞬間だった。

 

 彼女の脳裏に、あの夜のターフで、全く手が届かずに大の字で笑い転げた記憶がフラッシュバックする。圧倒的な絶望の化身。手が届かないからこそ、狂おしいほどに焦がれた「絶対的な最強」。

 

 それが今、自らの意思で、自分たちを『打倒すべき敵』と認識してターフに降り立とうとしているのだ。

 

 ルドルフの口角が、吊り上がる。品行方正な皇帝の仮面が割れ、血の飢えを満たそうとする肉食獣のような、獰猛で、最高に美しい笑みだった。

 

「――正真正銘の『最強』に挑めるか。……よろしい。受理しよう」

 

 ルドルフは、引き出しからドリームリーグの出走者名簿を取り出すと、空欄になっていた18番ゲートの欄に、力強い筆致でサインを書き込んだ。

 

「レースは一ヶ月後だ。……それまでは、この中央トレセン学園で過ごすといい」

 

「え? いや、俺は宇都宮の学校が……」

 

「理事長権限で、すでに宇都宮側への根回しと特別休暇の手配は済ませてある。君の教え子たちからも、『絶対に勝ってこい』と伝言を預かっているぞ」

 

 完全に退路を断たれていた。最速のウマ娘は「うわぁ……」と顔を引き攣らせたが、その表情はどこか嬉しそうでもあった。

 

「勝負服の採寸、調整。それにトレーニングメニューの再構築、コンディション調整。……その全てを、この学園が誇る最高水準の設備で行いたまえ」

 

 ルドルフは、万年筆を置き、ゆっくりと手を差し出した。それは、あの日、ターフの上に座り込んで求めた「敗者の握手」ではない。これから大舞台で命を削り合う、対等な好敵手としての握手だった。

 

「歓迎しよう。……そして、今度こそ君のその背中を、我々が捕らえてみせる」

 

「……言っときますけど、俺の背中、めちゃくちゃ遠いですよ」

 

 最速のウマ娘は、不敵に笑い返し、差し出されたルドルフの手を、力強く握り返した。

 

 ――空席だった18番ゲートの扉が、埋まる。

 

 かつて世界を壊すことを恐れた孤独な怪物は、今、自らの意思で、世界中の「正しい物語」を真っ向からぶち壊し、己の勝利を掴み取るために、伝説のターフへと足を踏み入れる。

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