"やさしい"ウマ娘――UN-CROWNED――   作:灯火011

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DTL編―3話 『最速』

 中央トレセン学園、メインコース。

 

 ドリームリーグに向けた合同トレーニング期間。歴代の覇者たちが集うそのターフは、ただでさえ息が詰まるような高密度の闘気に満ちていた。

 

 だが、その日の午後。コースに「赤いジャージ」が足を踏み入れた瞬間、空気が、物理的に凍りついた。

 

 

 ――ヒュッ、と。風を切り裂く音ではなく、空間そのものが削り取られるような異音。

 

 バ群の最後方からスタートしたはずのその影は、瞬きをする間に先頭集団を丸呑みにし、あっという間に彼方へと消え去っていった。

 

 圧倒的。

 

 暴力的。

 

 ウマ娘という種族の限界値を、根底から嘲笑うかのような『絶対速度』。かつて彼女が「世界を壊す呪い」と恐れ、手綱を引いて隠し続けてきた正真正銘の『本気』の片鱗が、このトレセンのターフに君臨した証拠だった。

 

「……ウソ、でしょ?」

 

 コース脇でタイムを測っていたトウカイテイオーが、持っていたストップウォッチを落としそうになりながら呆然と呟いた。

 

「ボクのフルスロットルでも……あんなの、背中すら見えないよ……っ」

 

「時計が……壊れているのでしょうか」

 

 隣に立つメジロマックイーンも、震える手でストップウォッチの盤面を見つめていた。表示された数字は、長距離を主戦場とする彼女の常識を根底から覆す、異常なタイム。

 

「いえ……あのストライドの伸び、踏み込みの深さ。そして一切のブレがない体幹……。紛れもない、本物のタイムですわ……っ」

 

 少し離れた場所では、常に一番を競い合っているダイワスカーレットとウオッカが、言葉を失って金網を握りしめていた。

 

「なんだよ、アレ……。オレ達の次元じゃねぇぞ……」

 

「アタシが一番よ……でも、アレは……反則じゃない……っ」

 

 張り合って口喧嘩をする余裕すらない。ただ、己の理解を超えた巨大な壁を見上げることしかできなかった。

 

 そして、普段は飄々として不可解な行動ばかりをとるゴールドシップでさえ、この時ばかりはいつものふざけた笑みを消していた。

 

「……おいおい」

 

 彼女の額を、一筋の冷や汗が伝い落ちる。

 

「冗談キツいぜ。あんなマジモンが隠れてたなんて、宇宙人でも予想できねぇよ……。背筋が凍るなんてもんじゃねぇぞ、アレは」

 

 異常なのは、タイムだけではない。彼女がターフを蹴るたびに撒き散らされる、途方もない『覇気』。それに最も鋭く反応したのは、並のG1ウマ娘ですら近寄りがたいオーラを放つ、最強クラスの怪物たちだった。

 

「……フン」

 

 コースを見下ろす観覧席。腕を組み、不機嫌そうに鼻を鳴らしたのはオルフェーヴルだ。

 

「王の御前で、不敬なまでの暴虐だな。……だが、あの脚の回転、踏み込みが放つ暴力的なまでの美しさ……腹立たしいが、目が離せん」

 

 暴君の瞳の奥に、明確な『敵』を捕捉した歓喜の炎が灯る。

 

「パワー、スピード、そのすべてが規格外ですね」

 

 オルフェーヴルの隣で、ジェンティルドンナが優雅に微笑んだ。だが、その瞳孔は極限まで収縮し、今にもターフに飛び出さんばかりの闘争心を隠しきれていない。

 

「フィジカルの絶対値で、この私を上回る存在がいるとは。……フフッ。叩き潰し甲斐がありますわね」

 

 最前線で凌ぎを削る現役生や、絶対的な力を持つ覇者たち。彼女たちにとって、突如現れた「赤いジャージの最速」は、文字通り理解不能のバグであり、同時にウマ娘の闘争本能を極限まで刺激する劇薬だった。

 

 

 そして。その光景を、スタンドの最上段から見下ろしている者たちがいた。

 

「あははっ! すごいねぇ、風そのものみたいだ!」

 

 手すりから身を乗り出し、無邪気に笑うミスターシービー。だが、彼女の瞳は獲物を狙う鷹のように鋭く、コースを駆け抜ける赤いジャージを完璧にトレースしていた。

 

「型破りなんてレベルじゃない。すべての理屈を置き去りにしている。……ねえルドルフ、あの子が噂の?」

 

「ああ」

 

 シンボリルドルフは、腕を組み、口角を深く吊り上げていた。

 

「かつて、私とマルゼンスキーを、あくびをしながら大差で置き去りにした、無冠の最速だ」

 

「もう、思い出すだけで背中がゾクゾクするわね」

 

 マルゼンスキーが、唇を舐めながら妖艶に笑う。

 

「でも、あの夜とは違う。あの子の走りに『迷い』がないわ。世界を壊すことを恐れてブレーキをかけていた、あの寂しそうなバケモノはもういない。……あーあ。予定なんてブッチぎって、今度のドリームトロフィーを優先するべきだったわ」

 

 ルドルフは、深く頷いた。

 

「だが、君が辞退したからこそ、彼女がドリームトロフィーリーグを走る。まさか、受理してもらえるとは思っていなかったよ」

 

 あの過去の記憶の中での彼女は、ただ言われた通りに、圧倒的な能力を「出力」しただけだった。だが今は違う。彼女は自らの意志で、自らの勝利のために、他人の正しい物語をぶち壊す覚悟を決めてターフを蹴っている。

 

「……帰ってきたな」

「ええ、私たちの、最速が、ターフに!」

 

 ルドルフとマルゼンスキーの声には、隠しきれない歓喜と、燃え盛るような闘志が満ちていた。世代を超えたバケモノたちが集う、ドリームリーグ。

 

 その最後の18番ゲートに、正真正銘、誰よりも速く、誰よりも不器用な『最強』が収まったのだ。

 

「フッ……さあ、最高の舞台の幕開けだ。我々の手で、今度こそあの背中を捕らえようじゃないか」

 

 ルドルフ、シービー、マルゼンスキー。伝説と呼ばれる彼女たちの視線の先で。

 

 最速のウマ娘は、ゴール板を駆け抜けた後、ゆっくりとスピードを落とし――そして、膝に手をついて、大きく息を吐き出した。

 

「はぁっ……! はぁっ……!」

 

 汗が、額からポタポタとターフに落ちる。肺が熱い。心臓が破裂しそうなほどに脈打っている。かつて、どれだけ走っても息一つ乱れなかった彼女が、初めて見せた「疲労」の姿。

 

 それは彼女が、限界のその先へ、自らの意志で踏み込んだ何よりの証拠だった。

 

(……ああ。本気で走るって、こんなに……っ)

 

 最速のウマ娘は、顔を上げ、ターフを吹き抜ける風を全身で受けた。観客席から突き刺さる、無数の驚愕と、畏怖と、そしてギラギラとした闘争心の眼差し。

 

 もう、誰も絶望して足を止めたりはしない。

 

 自分がどれだけ理不尽な暴力を振るおうとも、ここにいる全員が、狂ったように笑って食らいついてくるのだと、彼女は知っている。

 

「……最高だな、ここは」

 

 赤いジャージの怪物は、滴る汗を拭うこともせず、誰の目も気にすることなく、最高に獰猛で、最高に美しい笑顔をターフに咲かせた。

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