"やさしい"ウマ娘――UN-CROWNED――   作:灯火011

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第2話:カリキュラムの抜け道と、緑の悪寒

 トレセン学園、理事長秘書室。

 

 分厚い入学案内のパンフレットが置かれた応接テーブルで、駿川たづなは完璧な営業スマイルを浮かべていた。

 

 

「―――以上が、本学園の施設案内となります。最新鋭のトレーニングルームに、専属の栄養士が管理する学生食堂。そして何より、トゥインクル・シリーズで活躍するための最高のサポート体制が……」

 

「あ、すみません。そこはどうでもいいんで飛ばしていいですか」

 

 たづなの流れるような説明を遮ったのは、ジャージ姿の少女だった。

 

 特待生としてスカウトされたはずの彼女は、きらびやかなステージや栄光のG1レースの写真が載ったページには目もくれず、巻末の『学業・単位取得要項』のページだけを食い入るように見つめている。

 

「えっ……? あ、はい。では学業についてですが、本学園ではレースと並行して一般教養も――」

 

「この『教育職員免許状取得プログラム』ってやつ。これ、所定の単位を取れば、トレセン学園にいても普通に教員免許の資格が取れるってことで合ってますか?」

 

「ええ、その通りです。ただ、レースに向けたトレーニングと両立するのは非常に過酷でして、大半の生徒は……」

 

「両立って言うか、確認なんですけど」

 

 少女はパンフレットから顔を上げ、たづなの目を真っ直ぐに見た。そこに、新入生特有の期待や緊張は一切ない。あるのは、契約書の穴を探すような、極めて事務的な冷たさだけだった。

 

「俺、その『トゥインクル・シリーズ』とかいう公式レースに出る気は全くないんです。ただ三食タダ飯食って、教員免許の単位だけ取って卒業したいんですけど。……レースに出ないと退学になる、みたいな規程ってあります?」

 

 その言葉を聞いたたづなは、絶句した。

 

 長年、この学園で数多のウマ娘を見てきた。自信過剰な子、不安に押しつぶされそうな子、夢に目を輝かせる子。だが、こんな質問をしてくる生徒は初めてだった。

 

「規程、ですか……。いえ、明文化されたものとして『公式戦への出走を義務付ける』ものはありません。学業の単位と、最低限の基礎体力測定、そして定期的な『模擬レース』で基準のタイムさえクリアしていれば、制度上、卒業や資格取得は可能です。ですが……」

 

「お、マジか。じゃあそれで。公式戦とかメディアの取材とか、めんどくさそうなの全部パスでお願いします」

 

 少女はペンを手に取り、入学手続きの書類にさらさらとサインを書き入れ始めた。

 

 たづなは、背筋に冷たい汗が伝うのを感じた。

 

(この子……強がっているわけでも、走るのが怖いわけでもない。ただ純粋に、走ることに『何の価値も感じていない』んだわ……!)

 

 ウマ娘とは、走るために生まれてきた種族だ。本能がターフを求め、誰よりも速くありたいと願う。それが彼女たちの魂の形だ。

 

 だが、目の前の少女からは、その熱が完全に欠落している。まるで、精巧に作られたウマ娘の形をした機械。いや、ひどく冷たい「異物」だ。

 

「……あ、今日の食堂って何時から開いてます? 腹減っちゃって」

 

「え……あ、11時半からです……」

 

「了解。じゃ、適当に模擬レース? とかいうの済ませてきますわ」

 

 ひらひらと手を振り、書類を残して退室していく少女の後ろ姿を見送りながら、たづなは言い知れぬ悪寒に身を震わせた。

 

 ――とんでもない怪物を、この学園は招き入れてしまったのではないか。

 

 

 その日の午後。ダートコースでは、新入生たちの実力を測る模擬レースが行われていた。集まったのは、全国から選りすぐられたエリート候補生たち。真新しい勝負服や、高価な専用シューズを身につけ、誰もが「自分が一番だ」という闘志を燃やしている。

 

 第4レースのゲート。

 

 一際浮いているジャージ姿の少女に、隣のレーンのウマ娘――名門の冠名を持つ、プライドの高そうな少女が冷笑を投げかけた。

 

「あなた、随分と舐めた格好ね。ここは遊び場じゃないのよ。底辺の野良レース上がりか何か知らないけど、本物の『格』ってやつを教えてあげるわ」

 

 少女はちらりと隣を見て、欠伸を噛み殺した。

 

「ああ、うん。よろしく。俺、早く食堂行きたいからサクッと終わらせるわ」

 

「なっ……! 言わせておけば……っ!」

 

 激昂する名門ウマ娘。だが、反論の言葉は、鳴り響いたファンファーレとゲートが開く音にかき消された。

 

 スタートダッシュ。

 

 名門ウマ娘は完璧なタイミングでゲートを飛び出した。鍛え上げられた脚力、計算し尽くされたペース配分。これならいける、私が今日の主役だ。そう確信した瞬間――。

 

 スッ、と。無音で、ジャージの背中が視界を通り過ぎていった。

 

(えっ?)

 

 名門ウマ娘が瞬きをした次の瞬間には、ジャージの少女はすでに数バ身先を走っていた。土を蹴る音すらない。力みもない。ただ、散歩でもしているかのような脱力したフォームで、コースを滑るように加速していく。

 

「あ、ありえない……っ! くっ……追いつきなさいよ私の脚ィィッ!!」

 

 名門ウマ娘はプライドをかなぐり捨て、顔を歪めて必死に大地を蹴る。他の候補生たちも、悲鳴のような息を吐きながらその後を追う。だが、距離は縮まるどころか、絶望的なまでに開いていく。

 

 コーナーを曲がるたびに、エリートたちが積み上げてきた努力、血の滲むようなトレーニングの日々が、無残に砕け散っていく音がした。

 

 どれだけ才能があっても、どれだけ努力しても、絶対に届かない絶対領域。それを、あろうことか「早く食堂に行きたい」と宣うジャージの少女が、いとも容易く体現しているのだ。

 

 

 結果は、大差。

 

 後続がまだ最終コーナーを曲がっている頃、ジャージの少女は一人、ゴール板を駆け抜けていた。タイムボードに表示された数字は、新入生の模擬レースはおろか、現役のG1ウマ娘ですら青ざめるようなレコードタイム。

 

 コースの脇で計測器を持っていた教官のペンが、ポトリと地面に落ちた。

 

 ようやくゴールし、膝から崩れ落ちて過呼吸のように喘ぐエリート候補生たち。名門ウマ娘は土に両手をつき、ポロポロと涙をこぼしていた。

 

「うそ……私の、10年間が……こんな……っ」

 

 圧倒的な敗北。ウマ娘としての尊厳すらへし折られるような絶望。だが、その絶望の元凶である少女は、汗一つかかずにジャージの埃を払いながら、教官に向かって言った。

 

「あのー、これで走るの終わりですよね? 食堂、行っていいですか? 今日の日替わり定食、限定50食らしいんで」

 

 教官は何も言えず、ただ引き攣った顔で頷くことしかできなかった。

 

「あざっす。お疲れ様でしたー」

 

 少女は敗者たちを一瞥することすらなく、足早に食堂へと向かっていく。

 

 

 その様子を、コースを見下ろす生徒会室の窓から、じっと見つめている影があった。

 

 シンボリルドルフ。

 

 彼女の目は、恐るべきタイムを叩き出した未完の大器に対する驚愕と、そして――ウマ娘の未来を切り拓く『理想の体現者』を見つけたという、強烈な使命感に燃えていた。

 

「素晴らしい才能だ。彼女こそが、新しい時代を創る……!」

 

 ルドルフのその重く熱い期待すらも、少女にとっては「明日の天気」以下の価値しかないことを、皇帝はまだ知る由もなかった。

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