"やさしい"ウマ娘――UN-CROWNED―― 作:灯火011
中央トレセン学園のトレーニングコース。
ドリームトロフィー本番を想定した調整を終え、ストレッチをしながら「今日の夕飯何にしようかな」と思考を巡らせていた赤いジャージの最速のウマ娘の前に、大きな影が落ちた。
「少し、よろしいかしら」
優雅にして、圧倒的な威圧感。
三冠ウマ娘にして、フィジカルの絶対王者たるジェンティルドンナが、見下ろすように彼女の前に立っていた。その瞳の奥には、先ほどの規格外の走りを見て火がついた、隠しきれない闘争心がメラメラと燃えている。
「貴女のその脚……少しばかり、私と並んで試させてもらえませんこと? 距離は問いませんわ」
それは、実質的なタイマンの申し込みだった。周囲で様子を窺っていた他のウマ娘たちが、ゴクリと息を呑む。
だが、最速のウマ娘は「ふぁあ」と欠伸を噛み殺すと、座ったまま面倒くさそうに手を振った。
「嫌だよ。タダじゃ走らない主義なんだ」
「……は?」
「だって疲れるし、腹減るじゃん。メリットがない勝負はしないの」
ウマ娘としてのプライドや闘争心を完全に無視した、俗物極まりない拒絶。まさかの「対価の要求」に、さしものジェンティルドンナも目を丸くして言葉を失った。
「困惑するのも無理はない。彼女を動かしたいなら、食べ物で釣るといい」
ふいに、横から愉快そうな声が響いた。見れば、腕を組んだシンボリルドルフが、まるで手品師のタネを明かすような得意げな笑みを浮かべて立っているではないか。
「食べ物、ですの……? そんな子供騙しのような……」
「騙されたと思ってやってみたまえ。彼女の原動力の九割は食欲だ」
「うっさいな会長。バラすのやめてもらえます?」
最速のウマ娘がジロリと睨むが、ジェンティルドンナはハッとして、即座に懐から一枚のプラスチックカードを取り出した。
「……では、これでどうかしら。学食の『プレミアム・ビーフシチュー』の月間優先注文権。一日五食限定の権利ですが……私はいま減量中ですので、譲ってもよろしくてよ」
「交渉成立。いっちょやりますか!」
最速のウマ娘は、バネ仕掛けのように跳ね起きた。ウマ娘の誇りよりも、限定メニュー。そのあまりに現金な手のひら返しに、ジェンティルドンナは優雅な笑みを引き攣らせた。
「王の御前で、随分と俗な遊戯をしているではないか」
そこへ、さらに重厚な声が割り込んできた。威風堂々たる足取りでターフに足を踏み入れたのは、暴君オルフェーヴルだった。彼女は、ジェンティルドンナと最速のウマ娘を交互に一瞥し、不遜に鼻を鳴らす。
「余を差し置いて、真の最強を決めるなど片腹痛い。……貴様らの脆弱な脚、この私が完膚なきまでに叩き折ってやろう」
「あら。暴君自ら泥を舐めに来るとは、殊勝なことですわね」
「ほざくな。泥を啜るのは貴様らだ」
バチバチと火花を散らす暴君と貴婦人。図らずも、歴史に名を刻む傑物二人との三つ巴の叩き合い。観客席の生徒たちが、歴史的瞬間に立ち会えると色めき立つ。
だが、最速のウマ娘だけは「シチュー……でかい肉……」と、完全に意識が別の次元に飛んでいた。
■
「――スタートッ!!」
有志の掛け声と共に、三つの影が同時に弾け飛んだ。
ジェンティルドンナの、大地を砕くような力強い踏み込み。
オルフェーヴルの、他者を圧倒する爆発的な加速力。
二人のバケモノが、互いを牽制し合いながら猛烈なスピードでバ群を抜け出す……はずだった。
「……は?」
ジェンティルドンナが視線を横にやった瞬間、そこにあるはずの「赤いジャージ」はすでに消失していた。遥か前方。オルフェーヴルのさらに前。全く力みのない、まるで散歩でもしているかのようなフォームで、彼女はすでに十バ身以上の差をつけて『滑空』していたのだ。
(なんという……パワーで押し切る隙すら与えない、次元の違う加速……!)
「小癪なッ!!」
オルフェーヴルが激昂し、全身のバネを極限まで引き絞って追走する。ジェンティルドンナも、持てる全てのフィジカルを解放し、ターフを抉るようにして追いすがった。
三冠ウマ娘二人の、文字通り死力を尽くした本気の追走。
だが、距離は縮まるどころか、残酷なまでに開いていく一方だった。オルフェーヴルの爆発力も、ジェンティルの圧倒的なパワーも、その『絶対的な速度』の前では、ただの遅回しの映像に過ぎなかった。
叩き合いにすら、ならなかった。
最速のウマ娘が、無音でゴール板を駆け抜ける。そこから数秒という、スプリント勝負においてはあまりに絶望的なタイムラグを経て、暴君と貴婦人がようやくゴールになだれ込んだ。
「はぁっ……! はぁっ……!」
「くっ……! はぁっ、はぁっ……!」
ジェンティルドンナもオルフェーヴルも、膝に手をつき、肩で激しく息をしていた。全身の筋肉が悲鳴を上げ、汗がターフに滴り落ちる。紛れもなく、全力を出し切った。己の限界を叩きつけた。だが、手も足も出なかった。
最速のウマ娘は、ほんの少しだけ息を弾ませながら、二人の方へトコトコと歩いて戻ってきた。
「……どうでした、私の走りは」
ジェンティルドンナが、乱れた息を整えながら、プライドを捨てて素直な感想を求めた。周囲が騒めく。フィジカルの絶対王者たる彼女が、他者に教えを乞うなど異例中の異例だったからだ。
最速のウマ娘は、顎に手を当てて「うーん」と唸った。
「二人とも速いとは思うけど、まぁ……」
微妙な空気が流れる。彼女に悪気はない。ただ、本気で走った彼女からすれば、二人の全力が「止まっているように見えた」という事実を、どうオブラートに包むか悩んでいるだけだった。
「……我々は遅かった。それだけだ」
沈黙を破ったのは、オルフェーヴルだった。彼女は、額の汗を乱暴に拭い去り、真っ直ぐに最速のウマ娘を睨みつけた。
「誤魔化すな。言い訳など王の誇りを汚すだけだ。……貴様は速く、我々は圧倒的に遅かった。今はただ、その事実を噛み締めておいてやる」
オルフェーヴルの瞳に、絶望の色はない。あるのは、絶対に超えるべき巨大な壁を見つけた、暴君としての歓喜と、燃え盛るような闘志だけ。
「次は負けんぞ、不遜なる最速よ」
とだけ言い残し、オルフェーヴルはそのまま振り返ることなくターフを後にした。
その後ろ姿を見送って、ジェンティルドンナはふっと、呆れたような、けれどどこか嬉しそうなため息をついた。
「あら。素直すぎますわね、あの方も」
ジェンティルドンナは、背筋を伸ばし、最速のウマ娘に向かって優雅に一礼した。
「……圧倒的でした。完敗ですわ。私のフィジカルが、全く通用しない領域があるとは」
「まあ、俺はちょっとばかし足の回転が速いだけだから」
最速のウマ娘は、照れ隠しのように頭を掻き、そしてニカッと笑った。
「でも、いつでも挑戦待ってるよ。……限定メニュー懸けならね」
「フフッ。ええ、今度は最高級のスイーツを用意しておきますわ。……ドリームリーグの本番で」
ジェンティルドンナもまた、一切の恐怖を抱くことなく、ギラギラとした目を向けて去っていった。
残された最速のウマ娘は、手の中にある「ビーフシチュー優先注文権」のカードをヒラヒラと揺らしながら、二人から背を向けて歩き出した。
(……やばい。楽しい)
誰にも見えないその顔には。
世界を壊すことを恐れていた臆病な怪物の面影はない。自分と本気でぶつかり合ってくれる、強靭で、諦めの悪いライバルたちとの戦いを心底待ちわびる、ウマ娘としての最高に楽しそうな笑みが浮かんでいた。
■
あの暴君と貴婦人を圧倒し、楽しげに去っていくジャージ姿の背中を、少し離れたスタンド席から静かに見下ろしている二つの影があった。
シンボリルドルフと、アグネスタキオンだ。
「……なんとかなっているね」
手すりに肘をつき、タキオンがふうと息を吐いた。
かつて、「自分の全力が他人の心を壊してしまう」と絶望し、ターフを去った不器用な友人。しかし今、彼女は歴代最強クラスのバケモノたちを真っ向から蹂躙し、それでも誰にも絶望されることなく、ただ純粋な『最強の標的』としてターフに受け入れられていた。
「ああ。私たちの心配など、杞憂だったというわけだ」
ルドルフもまた、安堵と、どこか誇らしげな笑みを浮かべて頷いた。タキオンは視線をターフに向けたまま、ふと、隣に立つ皇帝に尋ねた。
「で? 会長、どうやって勝つつもりだい? あの規格外のバケモノに」
それは、ウマ娘の頂点たる皇帝に対する、純粋な疑問だった。ジェンティルドンナのパワーも、オルフェーヴルの爆発力も通じない絶対的な速度。戦術や駆け引きを超越した理不尽の塊を前に、皇帝はどう立ち向かうのか。
ルドルフは、少しの間沈黙し、やがて隠し立てすることなく、正直な胸の内を吐露した。
「……一人で勝てるビジョンは無い」
「ほう?」
「謙遜でも諦めでもないが、絶対的な事実だ。あの領域には、私がどれほど策を練り、極限まで肉体を仕上げたとしても、どうやっても勝てないだろう」
ウマ娘の歴史を牽引してきた「皇帝」の口から出た、完全なる敗北宣言。普通ならば絶望に打ちひしがれるようなその言葉を、しかしルドルフは、ひどく穏やかな、温かい声で紡いでいた。
「ただ……『彼女が世の中に出る』。それが、無性に嬉しいんだ」
ルドルフの視線の先には、ビーフシチューの権利証をヒラヒラと揺らしながら食堂へ向かう、赤いジャージの背中があった。
誰も彼女をバケモノとは呼ばない。誰も彼女を恐れない。
彼女が、ただの一人のウマ娘として、この狂乱のターフという『世界』に自らの意志で踏み出してくれたこと。それが、教育者として、そしてかつて彼女を傷つけてしまった一人のウマ娘として、何よりも喜ばしかったのだ。
タキオンは、そのルドルフの横顔を見て、小さく肩をすくめた。
「……なるほど。納得だよ」
タキオンには、ルドルフのその親心にも似た感情が痛いほどよく分かった。
「タキオン。君の勝算は?」
今度は、ルドルフが問い返した。科学の力で限界を超えようとするこのマッドサイエンティストなら、あの理不尽を覆す何らかの数式を弾き出しているのではないか。
その問いに。
タキオンは、いつもの飄々とした態度を消し――この上なく好戦的で、ウマ娘としての業に満ちた、獰猛な笑みをニヤリと浮かべた。
「シンボリルドルフ」
タキオンは、ルドルフを真っ直ぐに見据えて言い放った。
「私はねぇ。負ける気で走ることは、絶対にしないよ」
「……っ」
「彼女がトラウマを乗り越え、本気で私たちを叩き潰しに来てくれるんだ。ならば、私たちが初めから『勝てない』などと諦めてターフに立つのは……彼女への、最大の侮辱だろう?」
勝てないからといって、挑まない理由にはならない。それが、自分たちに本気を見せてくれた最強の友人に対する、唯一にして最大の『敬意』なのだと。
タキオンのその言葉に、ルドルフはハッと息を呑んだ。保護者としての安堵に浸り、いつの間にか自分の中で「挑戦者」としての牙が抜け落ちていたことに気づかされたのだ。
「……そうだな。ああ。……そうだ」
ルドルフは、深く息を吸い込み、スッと背筋を正した。その顔から、先ほどまでの穏やかな教育者の顔が消え去る。代わりに宿ったのは、決して手の届かない王座を、それでも力ずくで簒奪しようとする、挑戦者としてのヒリヒリとした闘気だった。
「すまない、タキオン。君の言う通りだ。……私も、皇帝の名にかけて、彼女の首を取りに行く」
「クク……はははっ! そうでなくてはね!」
夕日に照らされるスタンド席。
狂気を孕んだ科学者と、闘志を取り戻した皇帝は、これから始まる最高の蹂躙劇に向けて、誰にも聞こえない声で静かに、そして熱く笑い合った。