"やさしい"ウマ娘――UN-CROWNED――   作:灯火011

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DTL編―6話 夢のレース

 ゲートが開いた瞬間、十万人を超える観衆の地鳴りのような大歓声が、府中のターフを大きく揺らした。

 

 歴史に名を刻む十八人の伝説たちが一斉に飛び出し、極限のポジション争いを繰り広げる中。ただ一人、ポツンとバ群から取り残されるように、最後方に位置する影があった。

 赤いジャージの最速。彼女は、スタートに失敗したわけではない。自らの意思で、全員の背中を視界に収める最後尾を選んだのだ。

 

 だが、その最後方からのプレッシャーは、尋常なものではなかった。

 

 後ろから、空間そのものを削り取って迫り来るような、実体のない暴力的な質量。バ群の中団につけていたシンボリルドルフのうなじには、経験したことのない量の冷や汗がびっしりと浮かんでいた。前方を走るミスターシービーの横顔からも、いつもの無邪気な笑みは完全に消え失せ、張り詰めた余裕の無さが窺える。

 

 この異常な重圧の中で、ただ一人。アグネスタキオンだけが、三日月のように口角を歪め、狂気を孕んだ笑みを浮かべて喉を鳴らしていた。

 

 第3コーナーから、第4コーナーへ。

 

 息の詰まるような道中を経て、レースが最終局面に突入しようとしたその時。

 

 ついに、最後方の「最強」が動いた。

 

 大外へ持ち出した赤い勝負服の身体が、極限まで沈み込む。次の瞬間、空気が爆ぜるような轟音と共に、彼女はターフを物理的に抉り取りながら加速した。

 

 一歩、また一歩と踏み込むごとに、ウマ娘の限界速度の常識が書き換えられていく。前を塞ぐ伝説の覇者たちが、まるでスローモーションの映像であるかのように、次々と後方へ置き去りにされていく。

 

 圧倒的なまくり上げ。あまりにも次元の違うその加速に、大観衆の歓声は一瞬にして悲鳴に似た驚愕へと変わり、直後、スタジアムが爆発するほどの狂騒へと変貌した。

 

 最終コーナーを抜け、直線を向いた頃には、彼女はすでに先頭に立っていた。息を吸うように全員を蹂躙し、視界の開けた直線をただ一人で駆け抜ける。あの日と同じ、絶対的な孤独。

 

 圧倒的な一人旅が始まる――彼女自身も、そう思っていた。

 

(……え?)

 

 だが、不思議な事に後ろから、蹄鉄の音が消えない。

 

 それどころか、信じられないほどの殺気と熱量を伴って、凄まじい速度で追いすがってくる複数の気配がある。

 

 

 彼女の後方では、ウマ娘の誇りすらもかなぐり捨てた、伝説たちによる「常軌を逸した策」が展開されていた。

 

 ジェンティルドンナとオルフェーヴル。フィジカルの絶対王者と暴君が、己の勝利を捨てるほどの全開出力で風の壁をぶち破り、後ろを走る者たちのための「発射台」として散っていったのだ。

 

 彼女たちは知っていた。練習コースで見せつけられた、あの赤いジャージの理不尽なまでの最高速度を。個の力だけで挑めば、絶対に届かないという残酷な真実を。

 

 二人の覇者が切り裂いた風の道を通り抜け、一気に距離を詰めてきたのは、あの天皇賞のウマ娘と、その背中にピタリと張り付くアグネスタキオンだった。

 

 天皇賞ウマ娘は、全身の毛細血管が切れそうなほどの限界を超えたスプリントで、タキオンの風除けとなりながら、決死の形相で前を這い進む。それはまるで、自転車のレース、ロードレースの最終局面、エースを発射するための捨て身のリードアウトだった。

 

「タキオンさんッ! あとは、任せたァァァッ!!」

 

 喉から血を吐くような絶叫。限界を迎え、大きく外へ膨らんでいく彼女の背中を発射台にするようにして、ついにタキオンがその牙を剥いた。

 

「不本意だがねぇッ!」

 

 科学と狂気、そして友への底知れぬ敬意。タキオンの全身の筋肉が爆発し、光速の矢となって、先頭を走る最強へと襲い掛かる。

 

 そして、ついにその体が並ぶ。

 

 信じられないことに、絶対に誰にも届かないはずの最強の真横に、誇りなどという詰まらないモノを脱ぎ捨てた、超光速のプリンセス、アグネスタキオンが並びかけてきたのだ。

 

「……っ!!」

 

 先頭を走る最強のウマ娘の目が、限界まで見開かれた。

 

 自分の本気。その100パーセントの絶対速度に、隣で息を合わせ、肩をぶつけ合いながら走っている存在がいる。

 

 人生で初めて経験する、極限状態での『追い比べ』。

 

 自分の全力が、世界を壊していない。隣を走るタキオンは、泥だらけになりながら、苦痛に顔を歪めながら、それでも極上の歓喜に打ち震えるように笑っている。

 

(ああ……っ。なんだこれ、なんだこれっ!)

 

 心臓が、恐怖ではなく、未知の熱狂で激しく跳ね上がった。全身の細胞が歓喜に震え、無意識のうちに、彼女の口角も限界まで吊り上がっていく。

 

 だが、その至高のデュエルに、さらなる熱が介入する。

 

「置いていくなよ、最強ッ!!」

 

 逆の隣。内側から猛烈な勢いで並びかけてきたのは、シンボリルドルフだった。

 

 皇帝の顔には、もはや威厳も気品もない。あるのは、ただ目の前の最強を叩き潰し、誰よりも早くゴール板を駆け抜けたいという、挑戦者としての剥き出しの闘争本能だけだ。

 

 そして、彼女の後方では、自身の末脚のすべてを皇帝のための発射台として使い切り、限界を迎えて沈んでいくミスターシービーが、最高に楽しそうな笑顔で三人の背中を見送っていた。

 

 

 最速、狂気の科学者、そして絶対の皇帝。

 

 三つの影が、完全に横並びになる。

 

 大観衆の叫び声すら、風の音に掻き消されて聞こえない。

 

 聞こえるのは、互いの荒々しい呼吸と、ターフを叩き割るような力強い蹄鉄の音だけ。

 

 一歩踏み込むごとに火花が散り、命そのものを燃やすような三つ巴の死闘。

 

 ウマ娘として生まれたことの、すべての答えがここにあった。

 

「あああああああああああッ!!」

 

 誰ともなく上がった魂の咆哮と共に、三人の身体が同時にゴール板へと飛び込んだ。

 

「はぁっ……! はぁっ……! あーっ……!」

 

 ゴールを過ぎ、スピードを緩めた彼女の身体は、今にも崩れ落ちそうだった。

 

 全身の毛穴から滝のような汗が吹き出し、肺は千切れそうなほどに痛み、両足は鉛のように重い。かつて、どれだけ走っても息一つ乱さなかったバケモノが、文字通り「死力を尽くした」果ての姿だった。

 

 ――そして、数秒の、永遠にも似た静寂の後。

 

 電光掲示板に、赤いランプと共に『18』の数字が一番上に灯った。鼻差。わずか数センチの差で、最強の証明は彼女の手に落ちた。

 

 

 

 はじめて、本気で走った。

 

 

 

 はじめて、本気で勝った。

 

 

 

 横を見れば、タキオンもルドルフも、ターフに倒れ込みそうになりながら、激しく肩で息をしている。彼女たちの顔には、敗北の絶望など微塵もない。全力を出し切り、最強の壁にぶつかって砕け散ったことへの、清々しいほどの笑みが浮かんでいた。

 

 後方から追いついてきた後輩や、シービー、オルフェ、ジェンティルたちも、泥だらけの顔で彼女を取り囲み、次々とその肩を叩き、称賛の言葉を投げかけてくる。

 

 ――世界は、壊れなかった。

 

 彼女の本気は、決して呪いなどではなく。

 

 最高のライバルたちと、最高の高みへと登り詰めるための、祝福の翼だったのだ。

 

「……ぁ……あ……っ」

 

 その事実を、全身の疲労と共に噛み締めた瞬間。最速のウマ娘の目から、大粒の涙がポロポロと溢れ出した。

 

 無関心を装っていた殻が、完全に砕け散った。

 

 他人の心を壊すことを恐れ、誰よりも速く走りたいという自分の本能を殺し、息を潜めて生きてきた何年間もの孤独。

 

 その全てが、今、このターフの上で報われた。

 

「うっ……ああっ……うあ、ああ、うわあぁぁぁぁぁぁああんッ!!」

 

 十万人の観衆が見守る中、歴史上最も速い最強のウマ娘は、ターフのど真ん中で顔をくしゃくしゃに歪め、まるで小さな子供のように、声を上げて大泣きした。

 

 取り囲む伝説のウマ娘たちは、誰もそれを笑わず、ただ優しく、誇り高き覇者へと温かい拍手を送り続けていた。

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