"やさしい"ウマ娘――UN-CROWNED―― 作:灯火011
宇都宮トレセン学園の正門前は、ちょっとしたお祭り騒ぎになっていた。
「先生! 中央でも絶対勝ってね!」
「餃子パワー見せつけてやれーっ!」
手作りの横断幕を掲げ、涙と笑顔で送り出してくれる教え子たちや同僚の教師陣。彼女は「お前らなぁ……」と照れくさそうに頭を掻きながら、安息と再生を与えてくれた住み慣れた街に、深く頭を下げて別れを告げた。
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ドリームリーグでの衝撃的な勝利から数ヶ月。秋川理事長の強権と全面的なバックアップにより、彼女は特例中の特例として中央トレセン学園へ電撃移籍を果たし、トゥインクルシリーズへの正式な復帰が決定した。
数年越しの「最強の帰還」。当然、スポーツ紙やテレビ局はこぞって彼女を担ぎ上げ、連日のように『無冠の最速、ついに歴史に名を刻むか』『伝説の怪物が中央を席巻する』と大仰な見出しで書き立てた。連日連夜押し寄せるフラッシュとマイクの波。
だが、当の本人はどこ吹く風である。
「いや、別に歴史とかどうでもいいんで。腹減ったし、練習行っていいすか」
相変わらずの赤いジャージ姿で、マスコミの熱狂をのらりくらりと躱す日々を送っていた。彼女にとって走ることは、もはや自分を縛る呪いでも、他人に誇示する義務でもなく、ただ純粋な日常の喜びに還元されていたからだ。
そんなある日の午後。中央トレセン学園の広大なトレーニングコースで、彼女は芝の感触を確かめながらゆっくりとジョギングをしていた。
その時。ふと、前方を走る見覚えのあるフォームに気がつき、彼女の足がピタリと止まった。
少し癖のある、泥臭くも堅実なコーナリング。
天才たちのような派手さや圧倒的なオーラはない。だが、己の限界と真摯に向き合い、決して諦めることなく一歩一歩を刻み込む、誰よりもひたむきな走り。
(……嘘だろ)
彼女の目が、限界まで見開かれた。見間違うものか。あの夕暮れの地方グラウンドで、自分が何気なくかけた不器用なアドバイスに、ボロボロ泣きながら「自己ベストが出た」と笑ってくれた少女。
自分が「本気を出しても、他人の心を壊さない道があるのだ」と気づかせてくれた、祈りと救いの原点。
彼女もまた、あの日の「走るのをやめない」という誓いを胸に、凡人の意地だけで、バケモノたちの集うこの中央の舞台まで這い上がってきていたのだ。
ベンチに座ってタオルで汗を拭っていたその少女――ナイスネイチャは、近づいてくる気配に気づき、顔を上げた。そして、目の前に立つ赤いジャージの「最強」を見て、ほんの一瞬だけ目を丸くした後……昔と何も変わらない、少し卑屈で、照れくさそうで、親愛に満ちた笑みを浮かべた。
「や、久しぶりだね」
あの日の夕暮れ、一緒にグラウンドに座り込んだ「ただの足の速い幼馴染」へ向ける、飾らない言葉だった。
「……ああ。本当に、久しぶりだな」
喉の奥が、熱く震えた。マスコミの前や、他のバケモノたちの前では決して見せない、心底安堵したような、柔らかく無防備な表情がこぼれ落ちる。
ネイチャは立ち上がると、ポンポンとトレーニングウェアの埃を払い、コースの方へと顎をしゃくった。
「じゃあ、走ろうよ。……久しぶりに、アンタのアドバイスが欲しいな」
それはウマ娘として、ただ走ることを愛する者同士の、最高に純粋で、懐かしい誘いだった。
彼女は、小さく息を吸い込み、青く高く澄み渡る府中・中央トレセンの空を見上げた。『速さ』の呪いはもうない。ここには、自分の全力を肯定し、牙を剥いて立ち向かってくるライバルたちがいる。そして何より、自分の走る意味を教えてくれた原点の少女が、隣で笑ってくれている。
「……もちろん」
彼女は、最高に優しく、そして嬉しそうに微笑んだ。
「かけっこ、しよう。ナイスネイチャ」
二人のウマ娘は、肩を並べてスタートラインへと歩き出す。
ただ純粋に風を切る喜びを知る二人の少女の、新しくて、そしてどこまでも温かい物語が、ターフの緑と陽光の中で、ここからまた始まっていく。
「じゃ、いくよ。……よーい、ドン!」
二つの影が、同時にターフを蹴り出す。それは、世界を壊すような絶望の加速などではなく、誰かの背中を押し、共に前へ進むための、最高に心地よい足音だった。
長きにわたる孤独な呪いから解放された彼女の新しい物語は、一番最初に出会った大切な好敵手との、小さなかけっこから静かに、幕を開けたのだった。