"やさしい"ウマ娘――UN-CROWNED―― 作:灯火011
十二月十九日。刺すような冬の冷たい風が吹きすさぶ、阪神レース場。
その日、スタンドを埋め尽くした十万人を超える大観衆は、異様なまでの熱気と、どこか神事の始まりを待つような厳粛な静寂に包まれていた。
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これから開催されるのは、年末のグランプリである有馬記念でもなければ、G1などの重賞レースでもない。
単なる「オープン特別」、芝二千メートルのレースである。
本来であれば、これほどの観客が押し寄せるような格のレースではない。さらには、出走表に名を連ねているウマ娘は、たったの『4人』しかいなかったのだ。
その異様な少人数の理由は明白だった。数ヶ月前の『ドリームトロフィーリーグ』において、歴代の頂点を極めたバケモノたちを力でねじ伏せ、歴史上最速の証明を叩きつけた「あのウマ娘」が、特例措置による中央への電撃移籍を経て、このオープン特別を再デビュー戦に選んだからである。
格が違いすぎる。勝負になるはずがない。あの絶対的な速度を肌で感じてしまえば、ウマ娘としての自信やフォーム、正しい物語すらも完全に破壊されてしまうかもしれない。ならば無駄なダメージを負う前に回避する。それは陣営として、そしてアスリートとして当然の防衛本能だった。
だが、そんな恐怖と絶望による大量回避の嵐の中で、たった3人だけ。
決して逃げることなく、己の足でこのターフに立つことを選んだ中央のウマ娘たちがいた。
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地下バ道からパドックへと続く薄暗い通路。
今日、出走する3人のウマ娘たちは、冬の寒さとは違う理由で小刻みに震えながら、互いの青ざめた顔を見合わせた。
「……まさか、本当に最後まで残ったのが、アタシたち3人だけになるなんてね」
「仕方ありませんわ。あのドリームリーグの走り……あの常軌を逸した最高速をモニター越しに見て、それでも挑もうなどと考えるウマ娘は、狂っているか、よほどの命知らずだけです」
「でも、だからこそ残ったんでしょ? アタシたちも」
彼女たちは、G1戦線でトップを争うような絶対的な主役、というには正直力不足と言わざるを得ない。だが、中央トレセン学園の中で、勝ったり負けたりを繰り返しながら、時に挫折し、時に這い上がり、泥臭くターフにしがみついてきた意地と誇りを持つウマ娘たちだ。
彼女たちとて、勝てるとは微塵も思っていない。
あの日、シンボリルドルフやミスターシービー、アグネスタキオンといった歴史の結晶でさえ、多段式ロケットという矜持を捨てた戦法をとってなお、あの理不尽なまでの暴力的な速度には届かなかったのだ。自分たちが敵う道理など、万に一つも存在しない。
それでも、彼女たちは出走表から名前を消さなかった。あの歴代の覇者たちが、命を削ってまで追いすがろうとした「最速」とは、一体どれほどのものなのか。同じ時代に生まれ、同じターフを走るウマ娘として、その背中を、その風を、この肌で直接感じてみたかったのだ。たとえ、己の心が完全にへし折られる残酷な結果になろうとも。
「……来るわよ」
3人の耳がピンと立ち、通路の奥へと視線が向けられる。
コツ、コツ、コツ。
静かな、ごく自然な足音と共に、かつて宇都宮の地で教鞭をとっていた「最速のウマ娘」が姿を現した。
彼女もまた、一切の装飾を持たない、シンプルなトレセン学園の体操服姿だった。だが、勝負服という鎧を纏っていないからこそ、その洗練され尽くした肉体の異常さが際立っていた。
無駄な筋肉が削ぎ落とされ、全身がバネと推進力のみで構成されているかのような、極限の機能美。呼吸のリズム一つ、重心の置き方一つをとっても、自分たちとは次元の違う生き物であることが本能レベルで理解できてしまう。
「や。今日はよろしく。先輩方」
そう飄々と笑う彼女は、これから大好きな芝の上を走れるという純粋な喜びに満ちた、柔らかく、どこまでも自然体な空気を纏っていた。
「……ふう。やっぱり、人が多いなぁ。オープン戦だって聞いてたんだけど」
最速のウマ娘は、パドックの先から漏れ聞こえる大観衆の喧騒を聞いて、少しだけ照れくさそうに首の後ろを掻いた。その仕草はごく普通の少女のようだったが、3人のウマ娘たちは背筋に氷を当てられたような悪寒を感じていた。
目の前にいるのは、圧倒的な「捕食者」である。立っているステージの根底が、何一つとして同じではない、と本能的に、そして運命的に感じ取っていた。
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そして、運命のファンファーレが鳴り響いた。
十万人を超える観衆から、地鳴りのような手拍子が巻き起こる。冬の澄み切った空に、たった4人しかいないゲートの開く音が、ひときわ高く響き渡った。
「スタートしました! 二千メートルの旅、まずは4人、綺麗に揃った飛び出し!」
実況の声がスタジアムのスピーカーから響く。
ゲートが開いた瞬間、3人のウマ娘たちは、これまでのレースの中で最も完璧なスタートを切った。極度の緊張が逆に研ぎ澄まされた集中力を生み出し、ロケットのようなダッシュで前へと飛び出していく。
だが、その直後。3人の背中に、ゾッとするようなプレッシャーが重くのしかかった。
最後方に位置する、赤い体操服の気配。彼女は、まるで散歩でもするかのように、ごく自然に、ゆったりとしたフォームで最後尾へと「下がった」のだ。
あのドリームトロフィーリーグで見せた、絶望的な最後方からの末脚勝負。これが、子供の頃からの、彼女の本来の戦法。
前を走る3人は、後ろを振り返ることすらできなかった。振り返れば、その圧倒的な存在感に飲み込まれ、自分のフォームが崩れてしまうことが本能で分かっていたからだ。
阪神の芝コース。第一コーナーから第二コーナーへ、そして向正面へとレースは進む。
3人は、互いに牽制し合うこともなく、ただひたすらに前だけを見て、自分たちの限界のペースで逃げを打った。少しでもリードを広げなければならない。あのバケモノが本格的にエンジンを点火する前に、一ミリでも遠くへ。
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先を往く3人のウマ娘の息が上がり、肺が限界を訴え、太ももの筋肉が悲鳴を上げ始める。だが、どれだけ全力で逃げても、背後から迫り来る「静かな足音」は、一定のリズムを保ったまま、全く離れる気配がない。
ターフを蹴る蹄鉄の響き、風を切る音、その全てが、前を走る3人とは決定的に異なっていた。力みも、焦りも、限界の苦しみもない。ただ純粋に、ターフの上を滑るように走る、完璧な生体構造の駆動音だけが、背後からヒタヒタと迫ってくる。
(怖い……! なんなの、このプレッシャーは……!)
(足音が、全然乱れない! これが、あのルドルフ会長やシービーさんたちをねじ伏せた、本物のバケモノのフィジカル……!)
第三コーナーを過ぎ、勝負所である第四コーナーへと差し掛かる。3人のウマ娘は、己の身体に鞭を打ち、持てる全ての力を振り絞ってスパートをかけた。残り四百メートル。阪神名物の急坂が待ち受ける、長く過酷な最終ストレート。観客席から、堰を切ったような大歓声が爆発する。
その瞬間のことだった。
最後方にいた「最速のウマ娘」のフォームが、沈み込んだ。そして、彼女は初めて、ターフを強く「蹴った」。
ゴッ、という、まるで大気が圧縮されて爆発したかのような重低音が、前を走る3人の耳に届く。直後、彼女の体操服の裾が暴風に煽られ、激しく弾ける。地面を蹴るたびに、彼女の身体は重力から解放されたかのように前方へと飛躍し、空間そのものを抉り取るような異次元の加速を生み出していく。
彼女の姿は、ウマ娘という生物の限界速度を完全に超越していた。
「――っ!?」
必死に逃げていた3人は、大外を通って横を通り過ぎる「それ」を、まるでモニターの向こうから眺めるような現実感の無さで見つめていた。あまりの速度差に、巻き起こった風圧だけでバランスを崩しそうになる。
並ぶ瞬間など、一片たりともなかった。瞬きをする間に、彼女は3人の横を凄まじい暴風と共にすり抜け、彼方へと消えていく。
それは、恐怖を通り越して、あまりにも美しい暴力だった。自分たちが血反吐を吐きながら削り出してきた速度が、まるでその場に止まっているかのように錯覚させられるほどの絶対的な光。
スタンドを埋め尽くした十万人の観衆も、あまりの光景に一瞬、悲鳴すら忘れて言葉を失った。
阪神の急坂など、彼女にとっては平坦なアスファルトと何ら変わりはない。他のウマ娘が苦悶の表情で駆け上がるその壁を、彼女は一切の減速を見せず、むしろさらに加速しながら、ターフのど真ん中を一直線に駆け抜けていく。
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圧倒的な孤独の中で、誰よりも楽しそうに、大好きな走りに没頭する彼女の顔には、極上の笑みが浮かんでいた。前を走っていた3人のウマ娘を、あっという間に遥か後方へと置き去りにし、彼女は圧倒的な先頭のまま、ゴール板へと飛び込んでいく。
静寂を切り裂き、限界まで張り上げられた実況のアナウンサーの声が、震えながら、そして歓喜に満ちた絶叫となって、冬の空にこだました。
『阪神の坂を全く苦にしない! 最後方から一気に、大外を回して先頭に躍り出た、いや、他を文字通り「置き去り」にしたぁっ!!』
スタジアムが、割れんばかりの歓声で爆発する。
『これが中央への帰還を果たす復帰初戦だというのか!? 大観衆の度肝を抜く、あまりにも規格外、あまりにも残酷で美しいスピードだ!』
彼女が、一番にゴール板を駆け抜ける。
『今、悠々と一着でゴールイン!! トゥインクルシリーズでもついに見せつけた! これが、あの伝説たちをねじ伏せた、衝撃の末脚だぁぁぁっ!!』
本当に終わり。
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