"やさしい"ウマ娘――UN-CROWNED――   作:灯火011

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後日譚 正しい物語

 数年の歳月が流れた。

 

 あの日、阪神のオープン特別で中央のターフへと帰還を果たした「無冠の最速」は、またたく間にトゥインクル・シリーズの頂点へと駆け上がり、あらゆる王冠をその手中に収めていった。

 

 国内のG1を総なめにし、ついには海を渡り、ウマ娘にとっての世界最高峰であるフランス・凱旋門賞すらも、あの絶望的な最後方からの末脚で蹂躙してみせた。

 

 かつて「自分の走りは他人の物語を壊してしまう」と怯え、宇都宮の地で赤いジャージに身を包んでいた不器用な怪物は、今や名実ともに、ウマ娘の歴史上最も偉大で、最も愛される『世界の頂点』として君臨していた。

 

 

 そして迎えた、ある年の十二月。

 

 冷たく澄んだ空気が包む、中山レース場。

 

 一年の総決算にして、夢の祭典たる『有マ記念』。芝二千五百メートルのこの舞台が、彼女の引退レースとして大々的に発表されていた。

 

 スタンドは、立錐の余地もないほどの大観衆で埋め尽くされていた。誰もが、伝説の最終章、その圧倒的で美しい有終の美を目に焼き付けようと熱狂していた。

 

 勝って当然、どうやって勝つのか、何バ身差をつけるのか。メディアもファンも、彼女の勝利を疑う者など一人としていなかった。

 

 だが、ターフに立つウマ娘たちの中に、その「出来上がった大団円のシナリオ」を、真っ向から叩き壊そうと牙を研ぎ澄ませていた者たちがいた。

 

 あの日、阪神のオープン特別で、彼女の絶対的な速度の前に手も足も出ず、無惨に置き去りにされた『3人のウマ娘』である。

 

 彼女たちはあの日以来、一度として彼女の背中を忘れたことはなかった。圧倒的な才能の差を見せつけられ、心が折れかけた夜など数え切れない。しかし、彼女たちは逃げなかった。泥に塗れながらもターフにしがみつき、いつか必ずあの赤いジャージの背中に、一矢報いるためだけに己の限界を叩き直してきた。

 

 そしてついに、今日。奇跡的に有マ記念への出走権を勝ち取り、ついに最初で最後の「リベンジの舞台」へと辿り着いたのだ。

 

 

『さあ、各ウマ娘、ゲートイン完了。……伝説のラストラン、今、スタートしました!』

 

 大歓声と共に、運命のゲートが開く。

 

 最速の彼女は、いつものように、全く力みのない自然体なフォームで最後方へとスッと下がった。スタンドからは、待ってましたとばかりにどよめきと歓声が上がる。道中は最後方で脚を溜め、第三コーナーから一気にまくり上げる。世界を制した彼女の絶対的な必勝パターンだ。

 

 一方、前線では、あの3人のウマ娘たちが、恐ろしいほどの統率力でバ群の先頭を支配していた。

 

 互いに目配せをし、呼吸を合わせる。彼女たちの脳裏にあるのは、かつて映像で擦り切れるほど見た、ドリームトロフィーリーグにおける『歴代最強の覇者たち(ルドルフ、シービー、タキオンら)の戦法』――すなわち、ウマ娘の個人のエゴを完全に捨て去った、狂気の多段式ロケット戦法だった。

 

 第一コーナー、第二コーナー、向正面。レースはよどみなく進む。そして、魔の第三コーナーに差し掛かったその時。

 

 最後方にいた彼女が、ついに動いた。

 

 大外へと持ち出し、ターフを蹴り上げる。ゴッ、という大気を圧縮したような重低音と共に、世界を制した「衝撃の末脚」が火を噴いた。

 

 重力を無視したかのような異次元の加速。他を置き去りにする、暴力的で美しい絶対速度。スタンドの熱狂が最高潮に達し、十万人が伝説の勝利を確信した。

 

 だが、その瞬間だった。

 

「今ッ!!」

 

 先頭集団にいた3人のウマ娘のうち、一人が血を吐くような絶叫と共に、自らの限界を遥かに超えるオーバースペースで突如として暴走に近いスパートをかけた。

 

 彼女は、残り数百メートルを走り切るスタミナを完全に投げ打ち、後ろを走る2人のための「完全な風除け(第一ブースター)」となったのだ。

 

 信じられないほどの空気抵抗を一身に受け、彼女は第四コーナーの手前で力尽き、外へと膨らんでいく。

 

「任せたわよッ!!」

 

 その背中を蹴り台にするように、二段目のウマ娘が飛び出した。

 

 彼女もまた、自らの勝利を捨てていた。限界まで加速した第一ブースターの速度を殺さぬまま引き継ぎ、中山の短い直線の入り口に向けて、残された最後の一人を「発射」するための絶対的なレールを敷く。

 

 内臓が破裂せんばかりの痛みに耐え、二段目のウマ娘が強引にバ群を切り裂き、最高速の道を作り上げた直後。

 

「――もらったァァァッ!!」

 

 3人の執念と、数年間の血の滲むような努力、そのすべてを背負った「最後の一人」が、ロケットの最終弾頭として、解き放たれた。

 

 限界まで空気抵抗を減らされ、仲間の命を削った推進力を得た彼女の速度は、ウマ娘としての彼女自身のポテンシャルを、この瞬間だけ完全に凌駕していた。

 

「……っ!?」

 

 大外から一気に全員を飲み込もうとしていた世界最速の瞳が、驚愕に見開かれた。

 

 誰も届かないはずの絶対領域。自分の隣には誰も並べないはずだった。

 

 だが、中山の急坂を駆け上がる彼女の前に、恐ろしいほどの闘志と、仲間たちの想いを背負った一人のウマ娘が、泥だらけの顔を歪めながら、滑り込んできたのだ。

 

 かつて阪神のターフで、ただ置いてきぼりにされるしか無かった「名もなきウマ娘」が。

 

 数年の時を経て、最強の称号を総なめにした自分を、本気で、この引退レースで引きずり下ろしに来た。

 

(ああ……っ)

 

 心臓が、恐怖ではなく、全身の血が沸騰するような極上の歓喜で大きく跳ねた。そして彼女は、笑っていた。一人の「ただ走ることが好きな少女」としての、最高に楽しそうな笑顔だった。

 

 

 並ぶ。火花が散る。

 

 絶対的な個の暴力と、不屈の執念が編み上げた絆の結晶。

 

 中山の短い直線。十万人の悲鳴と歓声が入り交じる狂騒の中、二つの影は完全に重なり合い、文字通り命を削るような追い比べの果てに――。

 

 同時に、ゴール板へと飛び込んだ。

 

 静寂。

 

 スタジアム中が、電光掲示板の確定ランプを固唾を飲んで見守る。やがて、一番上に灯った数字は。

 

 

 世界最速の番号では、なかった。

 

 

 ハナ差。わずか数センチの差で、多段式ロケットの最終弾頭となったウマ娘が、絶対王者を差し切っていたのだ。

 

 大本命の引退レースでの敗北。伝説が土をつけられたという事実に、スタジアムは信じられないものを見たというようなどよめきと、一瞬の沈黙に包まれた。

 

 ゴールを過ぎ、スピードを緩めた元・世界最速は、膝に手をつき、荒い呼吸を繰り返していた。

 

 滝のように汗が流れ落ち、心臓は破裂しそうに鳴り響いている。出し切った。完全に、今の自分が持てる最高の速度で、一切の手加減なく走り抜いた。

 

 その上で――負けたのだ。

 

 ゆっくりと顔を上げると、少し先で、勝ったウマ娘と、力を使い果たした二人のウマ娘が、芝の上に倒れ込みながら、ぐしゃぐしゃに泣き笑いして抱き合っている姿が見えた。

 

 数年前、自分の走りに全く追いつけなかった彼女たちが、今、自分を乗り越えて最高の笑顔を咲かせている。

 

 自分の全力は、もう誰の物語も壊さない。

 

 それどころか、こんなにも熱く、強く、美しいドラマを生み出すことができる。ウマ娘の世界は、自分が恐れていたよりもずっと、ずっと頑丈で、最高に輝いていた。

 

 

「…………ぷっ」

 

 沈黙するターフのど真ん中で。

 

「クク、はは」

 

 最速のウマ娘の口から、吹き出すような笑い声が漏れた。それは次第に大きくなり、やがて腹の底からの大爆笑へと変わっていった。

 

「あーっはっはっはっはっ!! あっはっはっ!!」

 

 十万人の観客が呆然と見守る中、歴史上最速のウマ娘は、ターフに仰向けに大の字になって倒れ込み、涙が出るほど笑い転げた。

 

 あまりの笑い声に、抱き合っていた3人のウマ娘たちが、ぽかんと口を開けて彼女を見つめる。

 

「……あーっ、笑った。腹痛てぇ……っ!」

 

 彼女は、笑いすぎて滲んだ涙を、泥だらけになった勝負服の袖で乱暴に拭いながら、ゆっくりと立ち上がった。

 

 そして、まだ信じられないという顔をしている3人の元へと歩み寄り、最高の敬意と、少しばかりの悔しさを込めて、その顔にニカッと笑いかけた。

 

「ああ、くそっ! よりによって私の引退レースで! 最後の最後に私に土をつけるだなんて、性格悪すぎだろー!」

 

 元・世界最速は、彼女たちの肩をバンバンと乱暴に叩きながら、心底嬉しそうに叫んだ。

 

「せっかく綺麗に終わろうと思ってたのに! お前ら勝ち逃げかよ! ふざけんな、一生悔しいじゃねえか!」

 

 その負け惜しみの言葉の裏には、ウマ娘としてこれ以上ないほどの『祝福』が込められていた。

 

 それは、最強の座から見事に自分を引きずり下ろしてくれた彼女たちへの、最大の賛辞。

 

 彼女の言葉に、3人のウマ娘たちも一瞬きょとんとした後、やがてつられたように笑い出した。

 

「ふふっ……あはははっ! 当然でしょ! 何年アンタの背中追いかけてきたと思ってるのよ!」

 

「そうよ! 一生、私たちのこと思い出して悔しがりなさいよね!」

 

「そーそー! これで世界最速は私たちだー!」

 

 ターフの上で、覇者も敗者もなく、ただ全力を出し切ったウマ娘たちが肩を組んで笑い合う。

 

「ああ、そうだな。最っ高のレースだった!」

 

 その清々しくも美しい光景に、スタジアムを包んでいた沈黙は、やがてパラパラとした拍手へと変わり、瞬く間に地鳴りのような割れんばかりの大歓声へと変わっていった。

 

 

 無敗のまま、手の届かない伝説として終わる物語も美しいかもしれない。

 

 だが、最強の怪物が、最後に普通のアスリートたちが見せた意地と絆の前に敗れ去り、最高に楽しそうにターフを去っていく。

 

 それこそが、他人の心を誰よりも思いやった『"やさしい"ウマ娘』にふさわしい、最高に泥臭くて、最高に愛に満ちた、正しい物語の終わらせ方だったのだろう。

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