"やさしい"ウマ娘――UN-CROWNED――   作:灯火011

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CROWN-END

 澄み渡る青空の下、宇都宮トレセン学園の少し土埃の舞うグラウンドに、活気ある声が響き渡っていた。

 

「ほら、お前ら! コーナーの入り口で変に力むな! 外に膨らむのを怖がらずに、もっと身体を倒していいんだよ!」

 

 すっかり着慣れた、何の変哲もない赤いジャージ姿。

 

 首からストップウォッチを下げ、教え子たちに激を飛ばす彼女の姿は、数年前までこのグラウンドで見慣れていた「ただの地方の教員」そのものだった。

 

 ウマ娘の歴史を塗り替えた『生ける伝説』。……昨年末の有マ記念で引退するまでの数年間、中央のトゥインクル・シリーズで歴代の覇者たちと死闘を繰り広げ、海を渡って凱旋門賞すらもその脚で制した彼女。

 

 引退レースの敗北という大騒動から、ほんの数ヶ月しか経っていないとは到底思えないほどの、のどかで、どこまでも自然体な光景だった。

 

「先生ーっ! もう限界! 足がパンパンだよーっ!」

「馬鹿野郎、そのパンパンになってからの一歩が地力を……」

 

 彼女が呆れたように言いかけた、その時だった。

 

「おーい! ちょっと休憩にしない? 差し入れ持ってきたよー!」

 

 グラウンドの入り口から、大きなスポーツドリンクのボトルと、宇都宮名物の焼き餃子がぎっしり詰まった紙袋を両手に提げたラフな私服姿の少女が、ひらひらと手を振って歩いてきた。

 

 少し癖のある髪を揺らし、親しみやすい笑顔を浮かべるその姿に、グラウンドで倒れ込んでいた生徒たちが、弾かれたように跳ね起きた。

 

「えっ……嘘っ!? 中央の、ナイスネイチャさん!?」

「本物だぁっ! 先生、なんでネイチャさんがここに!?」

「テレビで見たことある! すっげー!!」

 

 大騒ぎで駆け寄っていく教え子たちを尻目に、赤いジャージの彼女は「お前らなぁ……」と苦笑いしながら、ゆっくりとグラウンドの端へと歩み寄った。

 

「サンキュ。わざわざ遠いとこまで、悪いな」

 

「いいのいいの。アタシもちょっと、こっちの空気が吸いたかったしね」

 

 大喜びで餃子を頬張る生徒たちから少し離れた、年季の入った木製のベンチ。

 

 世界を制したかつての「最速」と、彼女の原点である幼馴染は、肩を並べて腰を下ろした。吹き抜ける風は冷たいが、どこか懐かしく、心地よい土の匂いがした。

 

「……それにしても」

 

 ネイチャは、グラウンドで無邪気に笑う生徒たちを見つめながら、ぽつりとこぼした。

 

「本当に、あっさりと中央からいなくなっちゃったね、アンタ。凱旋門賞まで勝って、いよいよこれからって時に引退して、宇都宮(ここ)に戻るなんてさ。マスコミも連日大騒ぎだったんだから」

 

 呆れたような、けれどどこか嬉しそうなネイチャの言葉に、彼女はスポーツドリンクのボトルを開けながら、小さく肩をすくめた。

 

「別に、あっさりってわけでもないさ。ただ……私のやるべきことは、もう全部終わったからな」

 

 彼女は、夕暮れが近づき、少しずつ茜色に染まり始めた宇都宮の空を見上げた。

 

「……誰も、壊れなかったんだ」

 

「え?」

 

「私が本気を出したら、周りの才能も、ウマ娘としての正しい物語も、全部ぐちゃぐちゃに壊してしまうんじゃないかって……ずっと、怖かったんだ」

 

 それは、誰よりも他人の心を思いやりすぎてしまう、彼女の不器用で、悲しすぎる優しさ故の呪いだった。

 

「でも、違ったんだよな。世界は、ウマ娘って生き物は、私が思っていたよりもずっと頑丈だったよ。私がどれだけ理不尽なスピードを叩きつけても、アイツらは絶対に折れなかった。それどころか、徒党を組んで、命を削って、何度も何度も牙を剥いて向かってきた」

 

 彼女の脳裏に、ドリームトロフィーリーグでの多段式ロケットや、引退レースとなったあの有マ記念での、泥臭くも圧倒的な執念の走りが蘇る。

 

「……アイツらは、私を『最速』っていう、たった一人の孤独な玉座から、力ずくで引きずり降ろしてくれたんだ」

 

 彼女の横顔には、かつてのような影は微塵もなかった。あるのは、最高の好敵手たちへの限りない敬意と、すべてを出し切った者特有の、清々しいほどの安堵だ。

 

「凱旋門賞で、世界一の称号を手に入れた時も、そりゃあ嬉しかったけどさ」

 

 彼女は、隣に座るネイチャの顔を見て、いたずらっぽく笑った。

 

「……あの有マ記念で、アイツらに出し抜かれて負けた時のほうが、ずっと嬉しかったんだよね。私」

 

 誰にも言えない、絶対にマスコミの前では口にできない、無敗の怪物らしからぬ本音。

 

 けれど、幼少期から彼女の孤独を知るネイチャには、その言葉の意味が痛いほどよく分かった。バケモノがバケモノではなくなり、一人の「ただ走るのが好きな少女」に戻れた、最高に幸せな敗北だったのだと。

 

「……そっか。アンタらしいね、本当に」

 

 ネイチャは、優しく微笑んで頷いた。

 

「でもさ、だったら余計に思うんだけど。中央のトレセン学園から出てた『特別エリート指導員』のオファー、蹴っちゃったのは勿体なかったんじゃない? あそこなら、最高の設備で、最高の子たちを育てられたのに」

 

 秋川理事長肝煎りのオファーを蹴ってまで、なぜ何もない地方のグラウンドに戻ってきたのか。ネイチャの真っ当な疑問に、彼女は少しだけ真面目な顔をして、グラウンドで転びながらも必死に立ち上がる教え子たちを見つめた。

 

「……私は、ここが好きなんだよ。才能があるとかないとか、そういうのとは関係なく、ただ純粋に速くなりたいって泥臭くもがいてる、あいつらの背中を押してやるのが、一番私の性に合ってる」

 

 才能の限界にぶつかり、泣きながらグラウンドを蹴る少女たちの姿。それはかつて、この場所で出会った幼い日のネイチャの姿であり、同時に、自分の才能に怯え、本気で走ることを自ら封印していた過去の自分自身でもあった。

 

「それにさ」

 

 彼女は、自らの太ももを軽く叩いた。

 

「誰よりも……『思いっきり走れない苦しさ』ってやつを、私は嫌ってほど知っているからな。様々な壁にぶつかって足が止まっちまうヤツらの気持ちが、痛いほどわかるんだよ。だから、そういうヤツらの背中を押して、思いっきり走らせてやりたいんだ。……ま、私のワガママさ」

 

 それが、最強の座を捨ててまで彼女が選んだ、ウマ娘としての新しい生き方だった。

 

「中央には、ルドルフ会長や、タキオンや、シービー……アイツらがいる。エリートの育成は、あのとんでもないバケモノどもに任せておけば、何も心配いらないだろ?」

 

 ニヤリと笑う彼女の顔には、かつてターフで命を削り合ったライバルたちへの、絶対的な信頼が宿っていた。

 

「……あははっ、違いないね。アタシたち凡人からすれば、どっちも規格外のバケモノに変わりはないんだけどね」

 

 ネイチャは可笑しそうに笑い声を上げ、彼女もつられて声を上げて笑った。

 

 

 夕日が沈みかけ、グラウンドが優しい茜色に包まれる。ふと、笑い声を止めた彼女は、姿勢を正し、隣に座るネイチャの目を真っ直ぐに見つめた。

 

「……ネイチャ」

 

「ん? なに、急に改まって」

 

「あの時。夕暮れのグラウンドで、お前が自己ベストを出して……『嬉しい』って、泣いて笑ってくれたから。あの言葉があったから、私は教員になって、誰かの背中を押す喜びを知ることができた。……今、私がここにこうして生きていられるのは、お前のおかげだ」

 

 彼女は、照れ隠しなど一切せず、ただ心からの真摯な想いを言葉に乗せた。

 

「ありがとうな。私の人生を、救ってくれて」

 

 突然の、あまりにもストレートな感謝の言葉。ネイチャは一瞬目を丸くし、それから、顔をボンッと真っ赤にして、慌てて両手で頬をパタパタと扇いだ。

 

「ちょ、や、やめてよーっ! そういうの、アタシ柄じゃないってば! 急に真面目な顔してそんなこと言われたら、照れちゃうでしょ!」

 

 照れ隠しに大声を出してそっぽを向くネイチャだったが、やがてその顔から少しずつ熱が引き、代わりに、どこまでも優しく、誇り高い笑みが浮かんだ。

 

「……でもさ」

 

 ネイチャは、茜色の空を見上げながら、そっと口を開いた。

 

「アタシも、アンタの言葉があったから……あの中央のバケモノだらけの場所で、最後まで諦めずに、自分の走りを信じて走り続けることができたんだよ。だから……」

 

 ネイチャは、再び彼女の方へ向き直り、最高の幼馴染へ向けて、満面の笑みを咲かせた。

 

「私こそ。……ありがとう。世界で一番速くて、世界で一番不器用な、アタシの自慢の幼馴染」

 

 二人の間に、もう言葉は必要なかった。ただ、互いの軌跡を肯定し合うような、静かで温かい時間が流れていく。

 

「先生ーっ! 休憩終わりました! 次の練習、何やりますかーっ!?」

 

 グラウンドから、すっかり体力を回復させた教え子たちの元気な声が飛んできた。彼女は「おお、今行く!」と大声で返し、ベンチからゆっくりと立ち上がった。そして、首をポキポキと鳴らしながら、隣に座るネイチャを見下ろして、ニカッと不敵に笑った。

 

「じゃあ、せっかくだ。宇都宮まで来てくれたご祝儀に……あいつらに、本物の『ウマ娘の走り』を見せてやろうか」

 

 その挑発的な誘いに、ネイチャも「ふふっ」と笑い、デニムの埃を払いながら立ち上がった。

 

「……スカートじゃなくてよかった。実はちょっとだけ、こうなるんじゃないかなって思って、走りやすいスニーカー履いてきちゃったんだよね」

 

「ははっ、お見通しかよ。用意周到なこった」

 

「当然でしょ。言っておくけど、アタシは現役バリバリの中央のウマ娘だからね。引退してすっかり鈍ったアンタになんて、負けないよ?」

 

「はっ、百年早い。コーナーで置いていかれて泣くなよ?」

 

 軽口を叩き合いながら、二人は肩を並べて、夕日に染まる土のグラウンドへと歩き出す。

 

 そこには、かつて世界を震え上がらせた「無冠の最速」という呪いも、凡人であることの卑屈さもない。ただ純粋に、風を切って走ることの喜びを知る、二人の少女がいるだけだった。

 

「「よーい、ドンッ!!」」

 

 重なり合う二つの声と共に、夕暮れの宇都宮の空に、最高に心地よく、力強い足音が響き渡る。

 

 才能も、呪いも、すべてを超えて。

 

 彼女たちの『正しい物語』は、ここからまた、何度でも、美しく―――。

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