"やさしい"ウマ娘――UN-CROWNED―― 作:灯火011
トレセン学園、生徒会室。
重厚なマホガニーのデスク越しに、シンボリルドルフは会心の笑みを浮かべていた。彼女の目の前には、あの模擬レースでエリートたちを絶望の底に叩き落としたジャージ姿の少女が、出された高級な紅茶とクッキーをまじまじと見つめて座っている。
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「単刀直入に言おう。君の走りは、ウマ娘の到達点であり、究極の理想だ。現時点でもね」
ルドルフの声には、隠しきれない熱が帯びていた。皇帝として、常にウマ娘の幸福と未来を背負って走り続けてきた彼女にとって、この規格外の才能はまさに天からの贈り物だった。
「私は、すべてのウマ娘が幸福になれる時代を創りたい。君のその圧倒的な力は、ターフで輝くことで無数のウマ娘に希望を与え、新たな時代の道標となる。……どうだろうか。私と共にトゥインクル・シリーズを走り、頂の景色を見ないか?」
熱弁を振るうルドルフ。それは、学園の誰もが憧れ、平伏す「皇帝の勧誘」だった。
しかし、少女はサクサクとクッキーを齧りながら、きょとんとした顔で首を傾げた。
「ん? ああ、なるほど。ウマ娘を導いて、立派に育てたいってことですよね。会長さん」
「……! いかにも。君にも、その志がわかるか!」
「わかりますよ。すごく良いことだと思います。俺も、同じようなこと考えてこの学園に来たんで」
ルドルフの顔がパッと輝いた。通じた、と。この怪物もまた、自分と同じ高い視座でウマ娘の未来を憂い、情熱を燃やしているのだと。
「そうか! ならば話は早い。君のデビュー戦の手配は私が—――」
「だから、俺は早く教員免許を取って、教壇に立ちたいんですよ」
「…………え?」
ルドルフの言葉が、空中でピタリと止まった。
「いや、俺の目標は教育者になることなんです。ウマ娘たちに、正しい知識と社会のルールを教えて、立派な大人に育てる。それが俺の情熱であり、夢なんですよ。だから、会長さんの『ウマ娘を導きたい』って気持ちは、すごく共感できます」
少女は、極めて真面目な、まっすぐな瞳でルドルフを見ていた。そこに嘘や嘲りは一切ない。彼女は本気で「教育」への情熱を燃やしていた。
「……ま、待ってくれ。君の言う『導く』というのは、ターフの上で圧倒的な強さを見せつけ、皆の憧れとなることではないのか?」
「え? なんで俺が走らなきゃいけないんですか? チョーク持って黒板に字を書くのに、足の速さ関係ないでしょ」
「なっ……! 違う、そうではない! ウマ娘の本能は走ることだ! 君ほどの途方もない才能があれば、歴史に名を刻む名馬として――」
「あー、そういう『名誉』とか『G1』とか、俺、本当にどうでもいいんですよ」
少女は紅茶を一口飲み、ふう、と息をついた。
「考えてもみてくださいよ。俺が本気でレースに出たら、どうなります?」
「それは……誰もが君の背中を追いかけ、切磋琢磨し……」
「違いますよ。俺が全部のレースで1位かっさらって、他の子たちの『勝つ喜び』を奪うだけです」
それは残酷なまでの、真理だった。模擬レースの惨状を見ればわかる。彼女が走れば、切磋琢磨など生まれない。ただただ、圧倒的な暴力による「蹂躙」が起きるだけだ。
「俺は教育者になりたいんです。生徒には、自分たちで競い合って、泣いて笑って、成長してほしい。そこに、絶対に勝てない『俺』という障害物が混ざる意味、ありますか? 俺の脚の速さなんて、教育には邪魔なだけのバグなんですよ」
ルドルフは言葉を失った。反論できなかった。少女の言葉は、教育者としての確固たる信念に基づいている。彼女はウマ娘の未来を想うがゆえに、「自分はターフに立たない」という結論を出しているのだ。
「でも……っ、君自身の『走りたい』という渇望は! 魂の叫びはどうなる!!」
「ないですね、そんなもん」
あっさりと、少女は首を振った。
「会長さんは凄いですよ。その『かけっこ』にそこまで本気になれて、みんなの期待を背負って走れるんだから。立派だと思います。尊敬しますよ」
「かけ……っこ……?」
「でも、俺の生き方は違います。俺は、ターフで目立ちたいんじゃなくて、あの子たちが『かけっこ』で頑張る姿を、コースの脇でストップウォッチ持ちながら『よくやったな!』って褒めてあげたいんです。……だから、俺が公式戦に出ることは、絶対にありません」
少女は残りのクッキーを口に放り込むと、立ち上がってジャージの埃を払った。
「紅茶、ごちそうさまでした。教育への情熱があるものどうし、お互い頑張りましょうね。じゃ、俺は図書館で教育心理学のレポート書かなきゃいけないんで、これで」
「ま、待て……! 話はまだ……っ!」
ルドルフが伸ばした手は、少女のジャージを掠めることすらできなかった。
バタン、と扉が閉まる。
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広い生徒会室に、ルドルフだけが取り残された。静寂の中、彼女は自分の手が微かに震えていることに気づいた。
否定されたわけではない。罵倒されたわけでもない。
ただ、自分が人生のすべてを懸け、血反吐を吐きながら守り抜いてきた「トゥインクル・シリーズの栄光」と「ウマ娘の闘争本能」という絶対の価値観を、無邪気な「教育への情熱」によって、根底から『必要ないもの』として切り捨てられたのだ。
「彼女は……私の歩む道を、立派な『お遊び』だと言ったのか……?」
皇帝の呟きは、誰の耳にも届くことなく、空虚な部屋に溶けて消えた。
自分と同じ未来を見据えながら、ウマ娘としての根幹を全く必要としない「真の怪物」。その存在は、ルドルフの確固たる信念に、修復不可能なヒビを入れていた。