"やさしい"ウマ娘――UN-CROWNED―― 作:灯火011
茜色に染まる放課後のターフ。一日のトレーニング時間が終わり、静寂が下り始めたコースに、マルゼンスキーは一人立っていた。
視線の先には、観客席のベンチで分厚い『児童心理学』の専門書を読んでいるジャージ姿の新入生がいた。
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「……あなたが、ルドルフ会長の誘いを蹴ったっていう新入生ね」
マルゼンスキーの声は低く、微かに震えていた。怒りではない。己の根幹を揺るがされるような焦燥だった。
圧倒的な速さを持ちながら、それを歴史に刻む権利すら与えられなかった過去。大外枠でもいい、名誉なんていらない、ただ走らせてくれと泣き叫んだあの日々。
その「走る権利」を最初から持っている怪物が、あろうことか「面倒くさい」という理由でターフを捨てようとしている。それがどうしても許せなかった。
「私と勝負しなさい。非公式のタイマン、距離は2400。……私が勝ったら、あなたはトゥインクル・シリーズに出る。いいわね?」
凄みのある挑戦状。しかし、少女は本に栞を挟みながら、心底面倒くさそうにため息をついた。
「いやですよ。なんで俺がそんな労力使わなきゃいけないんですか」
「逃げるの?」
「逃げるっていうか、メリットがないんですよ。走ったら腹が減るだけだし」
少女の言葉は、どこまでも俗物的だった。名誉も誇りも、そこには微塵もない。マルゼンスキーはギリッと奥歯を噛み締め、言った。
「……じゃあ、あなたが勝ったら、学食の特製プレミアムパフェ。1日限定10食のやつを、私が奢ってあげるわ。それでどう?」
ピクリ、と。少女の耳が動いた。
「……特製プレミアム。あの、イチゴが山盛り乗ってるやつ?」
「ええ。いくらでも奢ってあげるわよ。だから、走りなさい」
「オッケー。商談成立ですね。じゃあ、サクッと終わらせましょうか」
少女は本をベンチに置き、準備運動もそこそこにスタートラインへと向かう。マルゼンスキーは、その無防備な背中を鋭く睨みつけた。
(あの子の速さは本物。でも、私だって伊達に『スーパーカー』と呼ばれているわけじゃない。ウマ娘の誇りと魂……私の走りで、必ず目を覚まさせてみせる……!)
二人がスタートラインに並ぶ。実況も、観客も、合図を出す者すらいない。
風が止んだ瞬間、二人は同時にターフを蹴った。
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「行くわよ……ッ!」
マルゼンスキーが、爆発的な加速で飛び出した。
ターフを深く抉り、風を切り裂く力強いストライド。全身の筋肉が躍動し、心臓が熱く脈打つ。全盛期の輝きを一切失っていない、まさにスーパーカーの走りだ。彼女の視界は極限まで研ぎ澄まされ、走る喜びと闘争心が血流に乗って全身を駆け巡る。
(どう!? これが私の、私たちの生きる世界よ! この熱さが、魂の震えがわかるでしょ!?)
自分の背中を追ってくるであろう怪物に向けて、マルゼンスキーは心の中で叫んだ。さらにギアを上げる。息が上がり始めるが、心地よい疲労だった。最高だ。やっぱり走ることは、競い合うことは素晴らしい。
しかし。マルゼンスキーの耳に、信じられない音が届いた。
――あ、やべ。パフェにチョコソース多めにかけてもらうの言うの忘れてた。
それは、真横を通り過ぎる少女から発せられた、恐ろしく間の抜けた「独り言」だった。
「……え?」
マルゼンスキーの視界の端を、赤いジャージが通り過ぎていく。
力みも、熱も、闘争心もない。ただ、機械がプログラム通りにピストン運動を繰り返しているかのような、無機質で圧倒的な加速。マルゼンスキーがトップギアに入れた直後だというのに、少女はさらにその二段階上の速度で、まるで止まっている標識を追い抜くように抜き去っていった。
「あ……ああ……ッ!?」
マルゼンスキーの足が、もつれそうになる。
彼女は走る理不尽だった。どれだけエンジンを吹かしても、どれだけ魂を燃やしても、あの背中には絶対に届かない。マルゼンスキーが限界まで燃やしている「ウマ娘の情熱」というエネルギーが、全くの無意味だと宣告されたような走りだった。
「待って……待ちなさいよォォォッ!!」
血を吐くような思いで脚を回す。心臓が破裂しそうだ。視界が明滅する。それでも届かない。
前を走る少女は、一度も後ろを振り返らなかった。マルゼンスキーの必死の追い上げなど、最初から「存在しない」かのように。彼女の頭の中にあるのは、ターフの熱狂でも、後ろを走る伝説のウマ娘への敬意でもなく、ただ『学食のパフェのトッピング』だけだった。
大差でゴール板を駆け抜けた少女は、そのまま振り返りもせずにスピードを落とし、ベンチのほうへトコトコと歩いていく。
「はぁっ……はぁっ……がはっ……!」
数秒遅れてゴールに飛び込んだマルゼンスキーは、そのまま膝から崩れ落ちた。
肺が焼け焦げたように痛む。大量の汗が芝に滴り落ち、ジャージは泥と汗でぐしゃぐしゃになっていた。持てる力のすべてを、文字通り一滴残らず絞り出した。
しかし、視線を上げた先。
ベンチに戻った少女は、汗一つかいていなかった。息すら乱れていない。
彼女は、自分がどれほどの絶望を伝説のウマ娘に叩きつけたのか全く気付かないまま、ただ腹を鳴らして、早くパフェを食べたいという顔でマルゼンスキーを見下ろしていた。
圧倒的な、力の差。そしてそれ以上に残酷な、絶望的なまでの「温度差」が、そこにはあった。