"やさしい"ウマ娘――UN-CROWNED―― 作:灯火011
「はぁっ……はぁっ……がはっ……!」
茜色から群青へと変わりゆく空の下。トレセン学園のダートコースには、マルゼンスキーの痛ましい喘ぎ声だけが響いていた。
膝をつき、肩で息をする彼女の額からは大粒の汗が滴り落ち、自慢の勝負服は泥にまみれている。全身の筋肉が痙攣し、心臓は破けそうなほどに脈打っていた。
■
持てるすべてを出し切った。スーパーカーと呼ばれた全盛期の輝き、いや、それ以上の走りができた自負があった。
だが、視線の先。
ベンチに戻り、呑気に『児童心理学』の専門書を手に取っているジャージ姿の少女は、息一つ乱していない。汗のひとしずくすら流していない。
「お疲れ様です。いやー、マルゼンスキーさん速いっすね。おかげで良い運動になりました。あ、パフェ、チョコソース多めで頼めます?」
悪びれる様子など微塵もない、純粋に食欲だけを満たそうとする声。その無邪気なまでの「無関心」が、マルゼンスキーの心に真っ黒な杭を打ち込んだ。
「……どうして」
かすれた声が漏れる。マルゼンスキーは、震える足に鞭打って立ち上がろうとしたが、力が入りきらずに再びターフに手をついた。
「どうして、本気で走らないのよ……っ!」
マルゼンスキーは、泥だらけの手で地面を力任せに叩いた。
「あなたなら、誰も見たことのない景色を見せられるのに! 三冠だって、凱旋門だって、全部手に入る! 私が、どれだけ欲しても手に入らなかったものを、あなたは最初から全部持っているのに……っ!!」
涙が溢れ出した。感情の堰が切れ、大粒の涙が乾いたターフに黒い染みを作っていく。
「大外枠でもいい、名誉なんていらない……私はただ、あのダービーで走りたかった……! 自分が一番速いって、証明したかったのよ! なのに、あなたは……っ! その脚を、才能を、こんな風にドブに捨てるなんて……絶対に許せない……ッ!」
血を吐くような、魂からの叫びだった。
制度の壁に阻まれ、最強でありながら大舞台に立つことを許されなかった無念。どれほど月日が流れようとも決して消えることのない、心の奥底にこびりついたドロドロの亡霊。
それを、目の前の怪物は「パフェの対価」として使い捨てようとしている。
マルゼンスキーの悲壮な叫びを聞いていた少女は、ふうむ、と少しだけ眉を寄せた。
「なるほど。理不尽なルールで出られなかったんですね。それは可哀想に」
同情するような、優しい声だった。しかし、その直後。少女の口から紡がれた言葉は、絶対零度の刃だった。
「でも、俺には関係ないですよね」
「……え?」
「マルゼンスキーさんは『出たくても出られなかった』。俺は『出られるけど、面倒だから出ない』。全然違いますよ。俺にアンタの未練や亡霊を押し付けないでください」
あまりにも残酷な、絶対的な断絶。嘲笑ではない。怒りでもない。ただ純粋な「事実の確認」だった。
「走るのが好きなアンタから見れば、俺は宝の持ち腐れに見えるんでしょうね。でも、俺から見れば、そんなただの『かけっこ』に人生を懸けて、過去に縛られて泣いてるアンタのほうが、よっぽど不毛に見えますよ」
少女は、マルゼンスキーの真横にしゃがみ込み、その目を真っ直ぐに見据えた。
そこに、ウマ娘としての熱や闘争心は一切ない。あるのは、教育者という己の目標だけを見据える、揺るぎない「凪」だ。
「俺は教育者になる。その夢のために、この学園を利用してるだけです。俺の脚は、アンタの無念を晴らすための道具じゃないし、誰かの夢を背負うための神輿でもない。……ただの、俺の脚です」
反論の余地もない、完璧な拒絶。
マルゼンスキーの「ウマ娘としての情熱」と「悲劇の過去」が、音を立てて崩れ落ちていく。彼女が後生大事に抱えていた『無念』すら、この少女にとっては、道端に落ちている石ころ以下の価値しかなかった。
「……あ。そういえば、食堂の営業時間もうすぐ終わっちゃいますね。パフェ、奢ってくれる約束ですよね? 行きましょうよ」
少女は立ち上がり、何事もなかったかのようにケセラセラと笑った。
「……ぁ……」
マルゼンスキーの喉から、意味を成さない音が漏れる。もう、立ち上がることはできなかった。
少女の赤いジャージの背中が、夕闇に溶けて遠ざかっていく。どれほど手を伸ばしても、どれほど涙を流しても、あの背中には永遠に届かない。
彼女はただ、冷たくなっていくターフに伏したまま、自分の人生を懸けた熱情が、分厚いコンクリートの壁に吸い込まれて消えたような途方もない虚脱感に、静かに泣き崩れることしかできなかった。
■
そして、この非公式戦の顛末は、夕闇のコースの隅で震えていた一人の下級生の口から、翌日には学園中へと知れ渡ることになる。
「あのマルゼンスキーが、ジャージ姿の新入生に、手も足も出ずに敗れた」
という、ひとつの事実として。