"やさしい"ウマ娘――UN-CROWNED―― 作:灯火011
「あのマルゼンスキーが手も足も出ずに完敗した」
その事実は、一晩にしてトレセン学園中を駆け巡った。
並のメンタルであれば、絶対的な絶望に打ちひしがれ、走る気力すら奪われていたかもしれない。現に、一部の生徒たちは己の限界を見せつけられたような虚脱感に襲われていた。
だが、ここはトレセン学園。ウマ娘という、走るために生まれてきた闘争本能のバケモノたちが集う場所である。
圧倒的な、理不尽なまでの「最速」。
その存在は、ウマ娘たちの魂の奥底に眠る、原始的な闘争心に火をつける猛毒でもあった。
■
翌日の昼休み。学園の中庭では、異様な光景が広がっていた。
「頼む! 私とダート1200で勝負してくれ! 私が勝ったら、公式戦の登録をしてくれ!」
「私とも走って! 距離は不問! 私の渾身の末脚が、あなたにどこまで通用するか試したいの!」
ジャージ姿の少女の前には、名だたるエリート候補生や現役の重賞ウマ娘たちが、ギラギラとした目を血走らせて長蛇の列を作っていた。
誰の目にも、絶望の色はない。あるのは「あの理不尽な背中に、少しでも爪痕を残してやりたい」という、ヤケクソにも似た熱狂だった。
ベンチに座り、分厚い『教育法規』のテキストを開いていた少女は、目の前の熱気にあてられることもなく、心底面倒くさそうにため息をついた。
「いやですよ。なんで俺が、昼休みの貴重な勉強時間を削ってそんなことしなきゃいけないんですか。疲れるし、汗かくし。メリットが一つもない」
「ならっ……! 私が勝ったら要求を呑んで! あなたが勝ったら、学食の『特大ステーキ定食』の食券、一週間分奢るから!!」
「私も! 私は『プレミアムハンバーグ・トリプル盛り』の食券を懸けるわ!!」
ピクリ、と。少女のテキストをめくる手が止まった。
「……ステーキ定食、一週間分。それにハンバーグのトリプル」
「え、ええ! どう!? 受けて立つ気になった!?」
「オッケー。商談成立。じゃあ、二人まとめてかかってきてください。サクッと終わらせて食券もらいに行くんで」
少女はテキストに栞を挟むと、準備運動もせずに立ち上がった。
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かくして、トレセン学園の非公式な「野良レース」は、前代未聞の熱狂に包まれることとなった。
連日連夜、あらゆるウマ娘が「飯」を対価に少女に挑んだ。短距離、マイル、中距離、長距離。芝、ダート。あらゆる条件で、腕に覚えのあるウマ娘たちが己の限界を超えて少女の背中を追った。
結果は、全勝。いや、「全蹂躙」だった。
挑戦者たちは皆、口から泡を吹き、ターフに倒れ伏して天を仰いだ。だが、彼女たちは決して心は折らなかった。悔し涙を流しながらも、「明日はもっと食らいついてやる」「次は別のコースで挑む」と、不屈の闘志を燃やして立ち上がっていく。
その中心で、少女は汗一つかかずに、もらった大量の食券の束を数えていた。
「よし、これで今月の食費は完全に浮いたな。あ、そこのアンタ、明日はカツカレーの大盛り懸けてくれるなら、2400mでも付き合うよ」
ウマ娘の情熱、誇り、血の滲むような努力。
それらすべてが、ただの「食券」という物理的な対価に変換され、少女の胃袋へと消えていく。挑戦すればするほど、ウマ娘たちの気高さが滑稽なものへと成り下がっていくような、奇妙で残酷な光景だった。
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「驚天!! これは一体、どういうことだッ!?」
理事長室。分厚いデータの束をバンッと机に叩きつけ、秋川やよい理事長が目を丸くしていた。手にしたトレードマークの扇子が、小刻みに震えている。彼女の視線の先には、生徒会長のシンボリルドルフが、疲労の色を濃く滲ませて立っていた。
「……ご覧の通りです、理事長。例の新入生による、連日の『非公式レース』のタイム計測データです。あらゆる距離、あらゆる馬場状態において、既存の学園レコードを大幅に、かつ涼しい顔で塗り替えています」
「絶句! バカな、こんな数値は物理的にあり得ない! 人体、いや、ウマ娘の骨格や筋肉の限界値を超えているではないか!」
秋川理事長は、データが記されたタブレットを穴のあくほど見つめた。
才能を愛し、ウマ娘の可能性を誰よりも信じている彼女でさえ、この数値は「規格外」という言葉では済まされない異常事態だった。
「理事長。事態は深刻です」
ルドルフが、重々しい口調で告げた。
「学園の生徒たちは、今や公式レースに向けた正規のトレーニングを疎かにし、あの子に挑むための『野良レース』に熱中しています。彼女たちは絶望するどころか、あの到底届かない背中に取り憑かれてしまっている。……そしてあの子は、それを『食券の対価』として、ただ淡々とこなしている。このままでは、トゥインクル・シリーズという制度自体が崩壊しかねません」
ウマ娘たちの闘争心は素晴らしい。だが、それが「絶対に勝てない相手に対する、ただの特攻」に成り下がってしまえば、それはもはや競技ではない。
ルドルフは、生徒たちの心が壊れる前に、あの怪物を学園から排除――最悪、退学させるしかないのではないかとすら考え始めていた。
しかし、秋川理事長の瞳には、全く別の光が宿っていた。
「……僥倖ッ!!」
「えっ?」
「ルドルフ会長! これは千載一遇の好機だ! 彼女の存在は、確かに劇薬! だが、見方を変えれば、これほど完璧な『究極の壁』はない!」
バサッ! と、秋川理事長が勢いよく扇子を開いた。
その顔には、教育者として、そしてトレセン学園の長としての底知れぬ野心が満ちていた。
「彼女のデータを徹底的に解析すれば、ウマ娘という種族そのものの限界を押し上げることができるかもしれない! さらに、彼女という絶対に手が届かない目標がある限り、生徒たちの闘争心は無限に湧き上がり続ける!」
「し、しかし理事長! 彼女には、走る意志も情熱も皆無です! トゥインクル・シリーズに出る気など微塵もないのですよ!?」
「明白! だからこそ、条件を提示するのだ! すぐに彼女を呼んでくるのだ! たづなぁ!」
◆
数十分後。
理事長室のソファで、少女は出された高級な茶菓子を遠慮なく頬張っていた。
「もぐもぐ……で、理事長さん。俺に何か用ですか? あと10分で教育心理学のオンライン講義が始まるんで、手短にお願いします」
口の端にクッキーの粉をつけたまま、どこまでもマイペースな少女。そのふざけた態度にルドルフが眉をひそめるが、秋川理事長は扇子を畳み、少女を真っ直ぐに指差した。
「提案!! 単刀直入に言おう! 君の、トゥインクル・シリーズへの出走義務を免除する! そして、教員免許取得のためのあらゆるカリキュラムの優先受講を、特例として許可しよう!」
「……おっ?」
少女の目が、今日一番の輝きを見せた。
「マジですか。公式戦出なくていい? 取材とかもなし? 教職課程の単位取得に専念していいと」
「確約! 学園長である私の権限で、君を『特例の研究生』という扱いにしよう。君が教壇に立つという夢、学園を挙げて全面的にバックアップする!」
ルドルフが息を呑んだ。「公式戦に出ないウマ娘」を、トレセン学園が公式に認めるなど前代未聞だ。ウマ娘の存在意義そのものを揺るがす特例だった。
「やった。話が早くて助かります。……で?」
少女は紅茶を一口飲み、冷静な目で理事長を見返した。
「そんな破格の条件、タダってわけじゃないですよね。俺に何をさせる気ですか?」
秋川理事長は、ニヤリと笑った。
「対価!! 君には、今のまま『野良レース』を続けてもらう! 生徒たちからの挑戦を、心ゆくまで受けて立つのだ! そしてその際、我々が用意した専用の計測機器、バイタルセンサーを身につけて走ること! それが条件だ!」
「……センサー?」
「肯定! 君の走りは、ウマ娘の科学を100年進ませる宝の山だ! 君の走行データを余すことなく学園に提供してもらう! 君は走るだけでいい、後の解析はこちらでやる!」
理事長の狙いは明確だった。
少女を「トゥインクル・シリーズの競争相手」としてではなく、「生きた計測機器」、あるいは生徒たちを強制的にレベルアップさせるための「最強のペースメーカー」として利用するのだ。
ルドルフは愕然とした。
それは、少女が持つ圧倒的な才能とウマ娘としての尊厳を、完全に『実験動物』や『ただの機械』として扱うに等しい行為だった。ウマ娘の幸福を願うルドルフにとって、到底受け入れがたい提案だ。
「り、理事長! いくらなんでもそれは彼女への冒涜です! 彼女の才能は、データ収集のためのモルモットになるためのものでは……!」
「オッケーです。全然いいですよ、それ」
ルドルフの悲痛な叫びを、少女の軽い声が遮った。
「え……?」
「身体に何かつけて走るだけでいいんでしょ? 別に痛いことされるわけじゃないし。で、教職の単位は取り放題、飯は他のヤツらから巻き上げ放題。俺にデメリット一つもないじゃないですか」
少女は立ち上がり、パンパンとジャージの埃を払った。
「契約成立ですね。じゃあ俺、講義あるんでこれで。センサーとかできたら、寮の部屋にでも置いといてください。適当につけて走るんで」
全く悪びれることなく、少女は踵を返して理事長室を出て行った。扉が閉まる音が、やけに虚しく部屋に響く。
「……理事長。あなたは、彼女からウマ娘としての未来を、誇りを奪うおつもりですか」
ルドルフの声には、隠しきれない絶望が混じっていた。
「否! 私は誰よりも、彼女の才能を惜しんでいる! だが、彼女自身にその気がない以上、あの才能を腐らせることは世界にとっての損失だ。……ルドルフよ、あれは『鏡』なのだ」
秋川理事長は、窓の外――中庭で、次のレースの食券を握りしめて待機しているウマ娘たちを見下ろした。
「彼女という絶対的な虚無に挑むことで、生徒たちの闘争心は極限まで磨かれる。皮肉なことだが、彼女はターフに立たずして、ウマ娘たちのレベルをかつてない領域へと『教育』することになるのだよ」
ルドルフは、何も言い返せなかった。
主人公の「教育者になる」という夢が、最も歪んだ形で学園に機能し始めてしまった。
感情を持たない最強の壁。食欲だけで走るバケモノ。
その壁に向かって、今日もウマ娘たちは無謀な特攻を繰り返し、その度に己の無力さを噛み締めながら、狂ったように熱狂していく。
その光景の中心で、少女は今日もただ、「腹が減った」と呟きながら、ウマ娘の情熱を蹂躙し続けるのだった。