"やさしい"ウマ娘――UN-CROWNED――   作:灯火011

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第7話:皇帝の決断と、歪んだ天秤

 トレセン学園は、かつてない「黄金期」を迎えていた。

 

 週末の公式戦であるトゥインクル・シリーズでは、学園の生徒たちが他を寄せ付けない圧倒的なタイムで次々とレコードを更新し、G1タイトルを総なめにしていた。

 

 世間のメディアは「空前の豊作世代」「限界を超えたウマ娘たち」と書き立て、熱狂の渦に包まれている。

 

 だが、当の生徒たちの瞳に、勝利の歓喜はなかった。

 

 重賞のレイを首にかけられ、フラッシュの瞬くお立ち台の上で、彼女たちは皆一様に、どこか虚ろな笑みを浮かべていた。

 

(……この程度のタイムで、何がG1ウマ娘だ)

 

 彼女たちは知っているのだ。

 

 自分たちがどれだけ世間から讃えられようと、学園の中庭に行けば、あの「ジャージ姿の怪物」が欠伸をしながら、自分たちのレコードなど赤子を捻るように打ち破る事実を。

 

 ウマ娘たちのレベルは確かに底上げされた。だがそれは、誇り高き切磋琢磨によるものではなく、絶対に手の届かない「捕食者」から逃げ惑うような、あるいは狂気に取り憑かれた特攻の副産物でしかなかった。

 

 

「……歪んでいる」

 

 生徒会室の窓から、秋川理事長が特設させた計測用センサーを身につけ、今日も「食券」のために野良レースを蹂躙している少女を見下ろしながら、シンボリルドルフはギリッと奥歯を噛み締めた。

 

 少女は約束通り、一切の公式戦に出ず、淡々と生徒たちの挑戦を受け、データを学園に提供し続けている。その見返りとして、大量の教職カリキュラムを悠々とこなし、他のウマ娘の熱情を「食費」として胃袋に流し込んでいた。

 

 皇帝として、ウマ娘の幸福を誰よりも願ってきたルドルフにとって、この光景は地獄そのものだった。才能が消費されている。魂が冒涜されている。あの子自身も、そしてあの子に挑む生徒たちも。

 

「このままでは……ウマ娘という存在の根幹が、取り返しのつかないほどに腐敗してしまうのでは、ないか?」

 

 ルドルフは、静かに目を閉じた。

 

 そして目を開いた時、その瞳には、かつてないほどに鋭く、重い「覇気」が宿っていた。誰かが、あの異常な天秤を壊さなければならない。ウマ娘の魂が、ただの「データ」や「食欲」などで測れるものではないということを、圧倒的な熱量で証明しなければならない。

 

 それができるのは、皇帝である自分しかいない。

 

 

 その日の夕刻。

 

 学食の隅のテーブルで、少女は分厚い『教育実習マニュアル』を読みながら、五人前の特上寿司桶を一人で平らげていた。今日の野良レースで巻き上げた戦利品だ。

 

「もぐもぐ……うん、大トロ美味い。やっぱり運動した後の寿司は最高だな」

 

「……隣、いいだろうか」

 

 ふいに、重厚な声が頭上から降ってきた。

 

 少女が顔を上げると、そこには勝負服を身に纏い、全身から恐ろしいまでの威圧感を放つシンボリルドルフが立っていた。周囲の生徒たちが、そのただならぬ気配に息を呑み、一斉に静まり返る。

 

「ああ、会長さん。いいですよ、どうぞ。イカ食べます?」

 

「……いや、結構だ。単刀直入に言おう」

 

 ルドルフは、少女の正面に座ることなく、見下ろす形で鋭く告げた。

 

「私と走れ。距離は2400、芝。今夜、ナイターのコースでだ」

 

 食堂の空気が、ピシッと凍りついた。皇帝からの、直接の果たし状。しかも非公式の野良レース。誰もが耳を疑った。

 

 しかし、当の少女は醤油皿にガリを浸しながら、面倒くさそうにため息をついた。

 

「いやですよ。俺、今日はもうノルマ分のデータ取り終わりましたし。これ以上走っても単位にならないし、腹が減るだけです」

 

「逃げるのか」

 

「逃げるっていうか、コスパが悪いんですよ。会長さん、俺がタダ働きしない主義なの知ってるでしょ?」

 

 挑発すらどこ吹く風。少女の価値観は、徹底して「自分の利益になるかどうか」だけだ。ルドルフは、深く息を吸い込んだ。

 

「ならば、賭けをしよう」

 

 皇帝の言葉に、食堂中のウマ娘たちが息を止めた。

 

「君が勝てば、生徒会の権限と私の個人的な資産を使い、君が希望する『超一流ホテルでの、最高級フルコースディナーの貸し切り』を約束しよう。もちろん、費用はすべて私が出す。好きなだけ、好きなものを食べるといい」

 

 少女の箸が、ピタリと止まった。

 

「……最高級フルコース。貸し切りで? デザートのワゴンサービスとかもつけ放題ですか?」

 

「ああ。君の望むままだ」

 

「……なるほど。それは、かなりそそられますね」

 

 少女の瞳に、明確な「欲」が宿った。ウマ娘としての闘争心ではなく、ただの食欲が。

 

「で、会長さんが勝ったら?」

 

「私が勝ったら……君は、今週末のG1レースに、特例で出走登録をしてもらう。そして、本気でターフを走り、観客の前で『勝利』を渇望してもらう」

 

 それは、少女の生き方そのものを曲げさせる条件だった。しかし、少女は少し考える素振りを見せた後、あっさりと頷いた。

 

「オッケーです。どうせ……結果は見えてますから」

 

 緊張感など微塵もない、ただの返事。ルドルフは何も言わず、ただ静かに踵を返し、決戦の地へと向かった。

 

 

 夜のトレセン学園。

 

 ナイター照明に照らされたターフには、異様な静寂が満ちていた。観客席には、噂を聞きつけた全校生徒が詰めかけている。マルゼンスキーも、秋川理事長も、息を殺してコースを見つめていた。

 

 スタートゲート。

 

 一番枠には、皇帝・シンボリルドルフ。

 

 その全身からは、青白い炎のような闘気が立ち昇っていた。ウマ娘の尊厳、未来、誇り。そのすべてを背負い、絶対に負けられないという決死の覚悟が、周囲の空気を歪ませるほどの重圧を生み出している。

 

 対する大外枠。

 

 ジャージ姿の少女は、秋川理事長から渡されたバイタルセンサーを無造作に腕に巻きつけながら、ふわあ、と大きなあくびをした。

 

「ナイターって虫飛んでくるから嫌なんだよな……。あ、フルコースのメイン、やっぱりシャトーブリアンがいいな」

 

 皇帝の放つプレッシャーを真正面から浴びているというのに、少女の心は完璧な「凪」のままだった。闘争心ゼロ。ただ、目の前にぶら下げられた極上の餌に向かって、作業をこなそうとしているだけ、に見える。

 

「……行くぞ」

 

 ルドルフが、低く地を這うような声で呟いた。彼女の目は、ただ前だけを見据えている。この怪物を打ち倒し、ウマ娘の熱と誇りを証明するために。

 

 スターターが、静かにピストルを天に掲げる。スタジアムの数千の視線が、一点に集中する。

 

 沈黙。永遠にも思えるコンマ数秒。

 

 そして――。

 

 パーンッ!!

 

 乾いた銃声が、夜の闇を引き裂いた。

 

 皇帝の玉座を懸けた、ウマ娘の誇りと絶対的な虚無が激突する、運命のゲートが開いた。

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