"やさしい"ウマ娘――UN-CROWNED――   作:灯火011

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第8話:皇帝の勝利と、計算された手綱

 パーンッ!!

 

 ナイター照明が照らすターフに、乾いたピストルの音が響き渡った。

 

 シンボリルドルフのスタートは、完璧だった。いや、彼女の生涯においても最高と言えるほどの飛び出しだった。

 

 全身の筋肉が爆発的なエネルギーを生み出し、迷いのないストライドが夜の芝を抉る。彼女の背負う重圧、ウマ娘の誇り、そのすべてが推進力へと変換されていた。

 

「皇帝」の覇気が、物理的な風となって周囲を威圧する。

 

 だが。

 

(……速い)

 

 ルドルフは、心の中で戦慄した。視界の端、大外枠からスタートした赤いジャージが、全く同じペースで並走しているのだ。ルドルフが極限の集中力で生み出しているトップスピード。それに、少女はあくびを噛み殺しながら、散歩のようなフォームでぴったりと張り付いている。

 

(やはり、規格外……! だが、ここで退くわけにはいかないッ!)

 

 ルドルフはさらにギアを上げた。コーナーを曲がるたびに、全身の血が沸騰するような熱を感じる。

 

 絶対に負けられない。私が負ければ、学園の、いや、ウマ娘の歴史が終わる。

 

 

 一方、その真横を走る少女の頭の中は、全く別のことで満たされていた。

 

(うわー、会長さんめっちゃ本気じゃん。目がマジだ。……でも、これ勝ったらフルコース貸し切りなんだよな。シャトーブリアン、オマール海老、フォアグラ……)

 

 よだれが出そうになるのを堪えながら、少女はほんの少しだけ脚の回転を上げようとした。会長を抜き去るのは簡単だ。あと少し重心を前に傾ければ、あっという間に置き去りにできる。

 

 だが、その時。少女の極めて冷静な「理性」が警鐘を鳴らした。

 

(待てよ。……今、観客席に全校生徒がいるよな。それに、理事長もいる。ここで俺が、あの『皇帝』に圧勝したらどうなる?)

 

 少女の脳裏に、最悪のシミュレーションが駆け巡った。

 

皇帝敗北のニュースが瞬く間に外部へ漏れる。

スポーツ紙やメディアが学園に殺到する。

「皇帝を破った謎のジャージウマ娘!」として大々的に報道される。

静かに教員免許を取りたいという平和な学生生活が崩壊。四六時中カメラに追われ、他のG1ウマ娘からの挑戦状が今以上の規模で殺到する。

 

(……ダメだ。コスパが最悪すぎる)

 

 フルコース一回のために、今後の平穏な人生を売るわけにはいかない。少女は瞬時に損益分岐点を計算し、結論を出した。

 

「……しゃーない。ここは損して得取れ、だな」

 

 独り言のように呟くと、少女は誰にも気づかれないレベルで、ほんのわずかに――だが決定的に、脚の回転を緩めた。ブレーキをかけたわけではない。ただ、「100」出せる限界値を、絶妙なコントロールで「99」に落としたのだ。

 

 最終直線。ルドルフの視界から、赤いジャージがわずかに後退した。

 

(いける……ッ!!)

 

 ルドルフは残されたすべての気力を振り絞り、渾身の末脚を爆発させた。

 

 夜のターフを切り裂き、皇帝が先頭に躍り出る。少女はその後ろにピタリとつけ、抜き返そうとする素振りを見せない。いや、まるで「ルドルフを先導させている」かのような、不自然なほどの安定感だった。

 

 そして。

 

 歓声が爆発する中、シンボリルドルフが先頭でゴール板を駆け抜けた。わずか半バ身差。赤いジャージが、二番手でゴールする。

 

「おおおおおおおっ!!!」

「会長! 会長ぉぉぉぉっ!! やっぱり会長が最強だあぁあああ!」

 

 観客席から、割れんばかりの歓声と拍手が巻き起こった。ウマ娘の誇りは守られた。皇帝が、あの怪物を打ち破ったのだ。スタジアム全体が、感動の涙と熱狂に包まれる。

 

「はぁっ……! はぁっ……!」

 

 ゴールを過ぎ、ルドルフは膝に手をついて激しく喘いだ。

 

 全身が鉛のように重い。肺が焼け焦げそうだ。だが、勝った。自分の足で、ウマ娘の尊厳を守り抜いたのだ。

 

 そこへ、軽い足音が近づいてきた。

 

「あーあ、負けちゃった」

 

 ルドルフが顔を上げると、そこには、汗のひとしずくも流していない少女が立っていた。

息一つ乱れず、平然と首を回して準備運動の残りのような動きをしている。

 

「さすが会長さん、速いっすね。最後の直線、全然追いつけませんでしたわ。……いやー、シャトーブリアンのフルコース、マジで楽しみにしてたんですけどね。残念です」

 

 飄々と言い切る少女。その涼しい顔を見た瞬間、ルドルフは悟った。

 

(……手を、抜いたな)

 

 ルドルフの背筋に、冷たいものが走った。激闘の末の勝利ではない。彼女は最後、意図的に速度を落としたのだ。観客の目を欺き、ギリギリのところで敗北を「選んだ」。

 

「君……なぜ、本気を出さなかった」

 

 ルドルフは、怒りを押し殺した低い声で問うた。

 

「え? 本気でしたよ? 会長さんが強かっただけですって」

 

 少女はケセラセラと笑う。

 

「それに、約束は約束です。俺の負け。特例出走の登録、好きにしてください」

 

 少女はあっさりと背を向け、食堂の方へ歩き出そうとした。

 

「……天皇賞(秋)だ」

 

 ルドルフの声が、夜のターフに響いた。

 

「君の出走登録は、私が責任を持って行う。舞台は伝統のG1、天皇賞(秋)。……そこで君に、本物の『勝利の熱』を教えてやる」

 

 少女は立ち止まり、面倒くさそうに頭を掻いた。

 

「天皇賞秋……。まあ、負けたんで従いますけど。終わったら、教職課程の単位、ちゃんと優遇してくださいね」

 

 ヒラヒラと手を振りながら、今度こそ少女は闇の中へ消えていった。

 

 残されたルドルフは、夜空を見上げた。

 

 勝負には勝ったが、ウマ娘としての完全な勝利ではない。圧倒的な「怪物」の首に、無理やり公式戦という手綱をつけただけだ。

 

(天皇賞・秋……。そこで必ず、君のその冷たい瞳に、ウマ娘としての火を灯してみせる)

 

 かくして、学園の異常な空気は一つの節目を迎えた。

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