"やさしい"ウマ娘――UN-CROWNED―― 作:灯火011
パーンッ!!
ナイター照明が照らすターフに、乾いたピストルの音が響き渡った。
シンボリルドルフのスタートは、完璧だった。いや、彼女の生涯においても最高と言えるほどの飛び出しだった。
全身の筋肉が爆発的なエネルギーを生み出し、迷いのないストライドが夜の芝を抉る。彼女の背負う重圧、ウマ娘の誇り、そのすべてが推進力へと変換されていた。
「皇帝」の覇気が、物理的な風となって周囲を威圧する。
だが。
(……速い)
ルドルフは、心の中で戦慄した。視界の端、大外枠からスタートした赤いジャージが、全く同じペースで並走しているのだ。ルドルフが極限の集中力で生み出しているトップスピード。それに、少女はあくびを噛み殺しながら、散歩のようなフォームでぴったりと張り付いている。
(やはり、規格外……! だが、ここで退くわけにはいかないッ!)
ルドルフはさらにギアを上げた。コーナーを曲がるたびに、全身の血が沸騰するような熱を感じる。
絶対に負けられない。私が負ければ、学園の、いや、ウマ娘の歴史が終わる。
■
一方、その真横を走る少女の頭の中は、全く別のことで満たされていた。
(うわー、会長さんめっちゃ本気じゃん。目がマジだ。……でも、これ勝ったらフルコース貸し切りなんだよな。シャトーブリアン、オマール海老、フォアグラ……)
よだれが出そうになるのを堪えながら、少女はほんの少しだけ脚の回転を上げようとした。会長を抜き去るのは簡単だ。あと少し重心を前に傾ければ、あっという間に置き去りにできる。
だが、その時。少女の極めて冷静な「理性」が警鐘を鳴らした。
(待てよ。……今、観客席に全校生徒がいるよな。それに、理事長もいる。ここで俺が、あの『皇帝』に圧勝したらどうなる?)
少女の脳裏に、最悪のシミュレーションが駆け巡った。
皇帝敗北のニュースが瞬く間に外部へ漏れる。
↓
スポーツ紙やメディアが学園に殺到する。
↓
「皇帝を破った謎のジャージウマ娘!」として大々的に報道される。
↓
静かに教員免許を取りたいという平和な学生生活が崩壊。四六時中カメラに追われ、他のG1ウマ娘からの挑戦状が今以上の規模で殺到する。
(……ダメだ。コスパが最悪すぎる)
フルコース一回のために、今後の平穏な人生を売るわけにはいかない。少女は瞬時に損益分岐点を計算し、結論を出した。
「……しゃーない。ここは損して得取れ、だな」
独り言のように呟くと、少女は誰にも気づかれないレベルで、ほんのわずかに――だが決定的に、脚の回転を緩めた。ブレーキをかけたわけではない。ただ、「100」出せる限界値を、絶妙なコントロールで「99」に落としたのだ。
最終直線。ルドルフの視界から、赤いジャージがわずかに後退した。
(いける……ッ!!)
ルドルフは残されたすべての気力を振り絞り、渾身の末脚を爆発させた。
夜のターフを切り裂き、皇帝が先頭に躍り出る。少女はその後ろにピタリとつけ、抜き返そうとする素振りを見せない。いや、まるで「ルドルフを先導させている」かのような、不自然なほどの安定感だった。
そして。
歓声が爆発する中、シンボリルドルフが先頭でゴール板を駆け抜けた。わずか半バ身差。赤いジャージが、二番手でゴールする。
「おおおおおおおっ!!!」
「会長! 会長ぉぉぉぉっ!! やっぱり会長が最強だあぁあああ!」
観客席から、割れんばかりの歓声と拍手が巻き起こった。ウマ娘の誇りは守られた。皇帝が、あの怪物を打ち破ったのだ。スタジアム全体が、感動の涙と熱狂に包まれる。
「はぁっ……! はぁっ……!」
ゴールを過ぎ、ルドルフは膝に手をついて激しく喘いだ。
全身が鉛のように重い。肺が焼け焦げそうだ。だが、勝った。自分の足で、ウマ娘の尊厳を守り抜いたのだ。
そこへ、軽い足音が近づいてきた。
「あーあ、負けちゃった」
ルドルフが顔を上げると、そこには、汗のひとしずくも流していない少女が立っていた。
息一つ乱れず、平然と首を回して準備運動の残りのような動きをしている。
「さすが会長さん、速いっすね。最後の直線、全然追いつけませんでしたわ。……いやー、シャトーブリアンのフルコース、マジで楽しみにしてたんですけどね。残念です」
飄々と言い切る少女。その涼しい顔を見た瞬間、ルドルフは悟った。
(……手を、抜いたな)
ルドルフの背筋に、冷たいものが走った。激闘の末の勝利ではない。彼女は最後、意図的に速度を落としたのだ。観客の目を欺き、ギリギリのところで敗北を「選んだ」。
「君……なぜ、本気を出さなかった」
ルドルフは、怒りを押し殺した低い声で問うた。
「え? 本気でしたよ? 会長さんが強かっただけですって」
少女はケセラセラと笑う。
「それに、約束は約束です。俺の負け。特例出走の登録、好きにしてください」
少女はあっさりと背を向け、食堂の方へ歩き出そうとした。
「……天皇賞(秋)だ」
ルドルフの声が、夜のターフに響いた。
「君の出走登録は、私が責任を持って行う。舞台は伝統のG1、天皇賞(秋)。……そこで君に、本物の『勝利の熱』を教えてやる」
少女は立ち止まり、面倒くさそうに頭を掻いた。
「天皇賞秋……。まあ、負けたんで従いますけど。終わったら、教職課程の単位、ちゃんと優遇してくださいね」
ヒラヒラと手を振りながら、今度こそ少女は闇の中へ消えていった。
残されたルドルフは、夜空を見上げた。
勝負には勝ったが、ウマ娘としての完全な勝利ではない。圧倒的な「怪物」の首に、無理やり公式戦という手綱をつけただけだ。
(天皇賞・秋……。そこで必ず、君のその冷たい瞳に、ウマ娘としての火を灯してみせる)
かくして、学園の異常な空気は一つの節目を迎えた。