それから数分後。
いくつかの轟音を響かせながら、赤兎は10階層へとたどり着いた。
「……ふぅ。亡霊め、どこまで逃げたというのか」
興奮で血が止まらない。
彼の身に纏う
外から傷を塞ごうとしてもスーツが弾くのだ。
「……仕方ないですね」
懐から棒状の器具を取り出し、カートリッジを挿入してから咥える。
たっぷりと息を吸い込んでから、白い煙を吐き出した。
「はぁぁあ……」
肺から全身に活力が満ちていく。
特務戦闘員に配布される電子タバコ風のドラッグ――
吸引するだけで傷の再生が始まる優れものだが、効果は微々たるもの。それで腕の穴が塞がるわけじゃない。
精々出血死を防ぐ程度だろう。
「ふふ、あははは……!!」
本来の使用用途は、快楽による鎮痛・興奮作用。
笑いとともにあふれる快楽に痛みが薄れ、活力が漲る。
死は遠のいた。今のうちに亡霊を見つけて殺さなければ。
「――?」
今までより少し長い階段を抜けた先は、これまでと違った開けた空間に繋がっていた。
「吹き抜け……宿泊フロアではなさそうですね」
廊下は空中回廊になっており、下には砂利が敷かれた水場があった。
どうやら宴席などを目的としたレストラン区画らしい。
壁は全面ガラス張りで、以前は夜景が美しかったことだろう。
今となってはただ暗く沈む廃墟が映るのみだが。
そんな静かな空間を煙を吐きながら進む赤兎の思考は、空想の中にいた。
――ああ、いつか汀良様と2人で夕食を……。
黒く艶めかしい石造りの、いかにも高級そうな中華料理店。
その円卓で向かい合って食事をする自分と汀良。
会話は不要。
食器の微かな音だけが響く中、星が煌めくようなあの美しい目を閉じて、料理に舌鼓を打つ
その顔を、赤兎は飽きることなく眺めて酒と薬を堪能する。
食べきれない程の料理を並べ、暗く沈んだ夜の街を見下ろして――ああ!
「堪らない……!! 早くあなたを喜ばせたい……!!」
この感情を何というのか、赤兎は知らない。
男色だと囀った
そんなものではない。断じてないのだ。
隣りにいたい。
あの人の喜ぶ顔が見れればそれでいいのだ。
この感情は、言葉では形容出来ない。
――だってワタシは、あなたに救われたのですから!
***
赤兎が
閉じた刑務所はブラーにとって格好の
結果、人を喰ったブラーが大量発生し、更なる被害を生んで――活性化を引き起こすまでに至った。
例え犯罪者でも、裂け目からは救出せねばならない。
その事を人類が深く理解した惨劇の現場に、赤兎は薬物中毒の受刑者として居合わせていた。
『■■■■――!!』
『ひぃ…!? 助け……ぎゃあああ』
施設内にブラーが複数出現。
看守が食われ、赤く染まった怪物はさらなる餌を求めて刑務所内で暴れ始めたのだ。
『く、薬……薬はどこだ……』
周囲の人間が食われていくのを横目に、薬物中毒者であった赤兎は震えながらも医務室へ
そんな間抜けを見逃してくれるはずもなく、必死になって棚を漁っている間に、ブラーの接近を許した。
『■■■■――!!』
『あ、え?』
禁断症状と慢性的な金欠で、当時の身体は枯れ木の様に細かった。
そんな赤兎に、遥か巨大な怪物に立ち向かう術などなかった。
あっさりと食われて死ぬ――。
『騒がしい』
そんな怪物を仕留めてみせたのが、汀良であった。
『え……?』
自身を喰わんと大口を開けていたブラーの頭部が吹き飛んでいる。
吹き出る血が全身に降りかかる。
初めて浴びる、むせ返る程の血の匂いと、凄惨な光景。
だがそれよりも、赤兎の目は穴の向こう――こちらを見下ろす男に向けられていた。
『さあ、中身を取り出して下さい。……はぁ、袖が汚れた……』
赤い血肉の向こう。
身だしなみを整えているその男の目は鋭く冷たく、そしてなにより――。
『綺麗だ……』
『ん? ……あなた、ここの受刑者ですか。こんな所で何を?』
『く、薬を探して……』
『……ああ、薬物。丁度いい。おい』
凄まじい速度で刑務所を制圧した禿頭の男たち。
その中で唯一、美しい礼装姿のその男が仲間に指図をしてから、赤兎へと近づき、何かを差し出した。
『……?』
『これをお探しでしょう?』
口に差し込まれたのは、液体の満ちた電子タバコ。
『ほら、ゆっくりと深呼吸して』
『あ、ああ……』
ゆっくりと煙を吐き出していると、恐怖が一気に引いていくのを感じた。
意識がぼんやりし、身体が浮き上がる様な心地よさが満ちる。
気持ちいい。
口が開き、目元が蕩け。
『まだまだですよ。……ほら、今』
『え? ――!!』
ぱん、と男が手を叩いたその瞬間。
脳髄を雷のような快感が貫き、視界に煌めく光が散った。
『お、あ……』
視界がぐるりと回り、首から指先までを痺れが――快楽が迸る。
声なき叫びが上がり、穴という穴が広がり、細胞の全てが励起した。
がくん、と身体が伸び、そのまま倒れそうになったところを男に抱き留められた。
香水の匂いが鼻を焼く。ああ、なんて良い匂いだろう……。
『我々の新商品です。どうです? 効くでしょう?』
『……ああ……とっても』
『ほら、もっと吸いなさい。まだまだありますよ。遠慮しないで』
途端に揺れ始めた頭に優しく触れ、男が囁く。
脳髄に響く低音。心地よい。もっと聞いていたい。
『ああ……』
こんな感覚は初めてだった。
自我も手足も溶けて、快楽の湯に浸かっている様な。そんな心地よさに包まれる。
叶うなら、ずっと、このままで……。
『顔を見せて。……ふむ、綺麗ですね。変異もない』
蕩ける輪郭を沿うように顎を優しく撫でられ、男の美しい顔が笑みを浮かべた。
『流石中毒者。適性は十分ですか』
『……あえ?』
『あなた、一緒に来なさい。我らと来れば、あらゆる物から自由になれますよ?』
甘く囁かれた言葉のほとんどを、赤兎は聞いていなかった。
彼の脳内を支配していたのはドラッグの快楽と、それにより彩られた美貌。
――なんて、美しい……。
後光がさすような、そんな美しい顔の男。
脳髄に響く、低く甘い声。
細く艶めかしいその手を、赤兎は気付いたら握っていたのだ。
『行きます。どうか俺を使ってください』
『……素晴らしい』
ああ、この笑みだ。
この美しく、他人を何とも思っていないこの笑みを見るために
***
「この赤兎、あなたの望みを叶えてみせましょう!」
白い煙を吐き出し、穴が開いて痛む腕を振って赤兎は吼える。
場所がバレる? そもそも向こうの位置が分からないのだから、出てきてくれた方がありがたい!
薬で痛みも興奮も消え、代わりに圧倒的なエネルギーが湧きあがる。
今ならあの小さな頭を握りつぶせるだろう。
さあ、撃つなら撃て――!! こっちがお前を殺してやる……!!
堂々とフロアのど真ん中を突き進んだ赤兎。
そこへ、強烈な光が差し込まれた。
「む……」
「そこで止まれ、筋肉」
「……あなたですか、亡霊」
眩しくて見えないが、この声はもう何度も聞いている。
見た目は美しいが、口調が汚い野蛮な女だ。
汀良とはまるで違う。
顔を腕で塞ぐが、攻撃は来ない。
代わりに飛んできたのは声だった。
「1つ聞きたい。なんで俺を狙う?」
――なるほど、情報を聞き出すつもりですか。
小賢しい野蛮人の考えそうなことだ。
こんな女を一瞬でも天才だと勘違いした自分が恥ずかしいと、赤兎は首を横に振る。
「何故? そんなものは知りません」
「……は?」
ここに来た理由?
そんなもの、汀良に頼まれた――それだけだ。
赤兎にはそれで十分なのである。
「あなたか、あなたの死体を持って帰る。それだけがワタシの仕事なのですから!」
「……言ってんじゃねえか……おい、なんなんだよこの筋肉馬鹿は!!」
「
痛む腕に力を込めて、赤兎が吼えた。
その瞬間。
「もういい、壁!」
亡霊が指を鳴らし、視界を何かが塞いだ。
見れば赤茶けたぼろい壁。
先ほど宿泊区画で腕をやられた時に現れたのと同じもの。
それが前と左と後ろ……3方を覆っていた。
「……?」
驚いたのも一瞬。疑問が浮かぶ。
この壁は殴れば簡単に壊れる。ただ視界を塞いだだけだ。
それに――。
――何故、3つだけ……?
右手側、南方部分だけ空いているのだ。
まさか忘れた訳ではあるまい。
一体何が……。
ほんの一瞬の、その思考の合間。
亡霊が再び指を鳴らした――その瞬間。
「――撃てぇ!!」
聞こえる筈のない声を聞いたと同時に窓ガラスが砕け散り、銃弾の雨が赤兎へと殺到するのだった。
***
「……もういいか?」
『うん、大丈夫。倒れたよ』
銃弾の音色が止むのを待って、俺はライトの電源を切った。
目の前の四角い棺――
こいつの考えた作戦は至極単純。
見晴らしのいいこの階層にやってきた筋肉スーツを
そんなことを誰に頼むのかって思ったんだが、いたんだよ。
咲良さんの同僚で、部隊を率いてる隊長さんに連絡をとったんだと。
結構な遠距離からの銃撃だろうが、流石正規兵。腕がいい。
そうして、目の前には撃たれてボロボロになった奴の棺が出来上がりである。
「なあ、お前の壁生成、見せてよかったのか?」
『そういう罠ってことにしておけば大丈夫だよ、多分!』
「適当な……」
俺の姿も見えてるだろうから、結構危険な賭けではある。
……咲良さんにバレてるし今更か。
あと、咲良さんが仲間で本当に良かった……もし敵対してたらあの銃撃が俺にも向いてたわけだ。
数ってのは恐ろしい。
「さて、脱がすか」
『え!? なにする気!?』
「あんな強い
是非とも俺が使うか、売るなりしたい。
『えー? サイズ合わないでしょ?』
「そりゃリサイズすりゃ……ん? ハサミとか弾いて駄目か? じゃあこれどうやって作って……」
呟きながら壁を退かそうと手を伸ばした、その瞬間。
予言者の鋭い声が響いた。
『――!! さがって!』
「は? ……おわ!?」
轟音とともに目の前の壁が吹き飛んで、顔面にぶち当たる。
派手に真後ろにぶっ飛んで、視界が明滅した。
「……!?」
『うそぉ……なんで動けるのぉ!?』
状況は不明だが、今の言葉で全てを察した。
遠距離からとはいえ数名の銃撃だぞ。
それを耐えたってのか……?
「防がれたのか……?」
『……違う……』
「……?」
口内を満たす血を飲み込んで。
とりあえず急いで壁を蹴飛ばして、起き上がると……とんでもないモノがいた。
「顔に穴開いてんじゃねえか!!」
『だから言ったでしょ!!』
その手には細長い棒状の何かが握られていて、白い煙を吐き出している。
「あぁあああ……」
変化が起きた。
奴の顔に開いた大穴が埋まったのだ。
白い何かに埋め尽くされるようにして、顔が急速に覆われていく。
「……
『あははー。この世界の人たち、大分やっばいことしてるねー』
気づけば真っ白な無貌のマスクに顔を覆われた巨体の出来上がり。
血に染まった右腕を振り上げ、姿が掻き消えた。
「……っ!?」
咄嗟に避けた顔を掠めて、砲撃みたいな拳が空を裂く。
それどころか床を穿って破裂が起きた。
避けた筈だが、頬に痛みが走る。
嘘だろ、切れた!? かすってもないのに……どんだけ速いパンチだよ!?
「化け物が更に化け物になりやがった……!!」
距離を離しながら拳銃を乱射。
顔面に弾丸があたるも……気にした様子はない。
「人間じゃねえだろあんなの!!」
「ああぁああ……!!」
涎を垂らしながら何か喚いている筋肉スーツが、それでもこちらを見つめて立ち上がる。
残念ながら今空けた穴も塞がった。
そんな相手、どうやって殺すんだ……?
『……ねえ君! ちょっと耐えてて! そこに罠はないから!』
「あ? どうすんだよ」
『アタシが行く! 秘密兵器、持ってくから!』
「……了解!」
拳銃を構えて笑う。
もうこうなったらやけだ。
こいつを殺して、裂け目もぶっ壊してやるからな……!!
化け物退治、その第二ラウンドが始まった。