思いませんか?思って欲しい。
本日晴天。からり、とした気温でとても過ごしやすい日だった。今日は休日であり、何をしようか、と考えていた時の事である。
ピンポーン、という無機質な機械の音。その音に導かれるように玄関へと向かった。扉を開けていけば、見知った顔が一人。
両側にふわりとした三つ編みを垂らし、淡い鹿毛の髪色。おっとりとした表情ながらも何処か品を感じさせる少女だった。
「ブーケ…また来たのか…?」
カレンブーケドール。彼女は自分の担当ウマ娘だ。とあるきっかけで彼女と契約を結び、二人三脚で現在トゥインクルシリーズを駆け抜けている。
なのだが、少々困ったことがあるのだ。
「……いけません、でしょうか?」
ブーケが眉を下げては、此方を伺うように見つめてくる。彼女の左手には花柄模様の綺麗な手提げ袋。右手には木製の花籠を抱えている。花籠からはベル型の形をした白い花。それは地面に向かって垂れ下がっていた。
「そんな事は無いよ。ただ…」
「ただ……?」
「…ううん、何でもない。どうぞ、上がって」
その一言で彼女の表情は朗らかになる。まさに花が咲いたようだった。
いつもの様にブーケは靴を脱いで部屋に上がってくる。リビングまで案内していき、そうして彼女は花籠を窓の側に置いた。
そこには既に幾つかの花籠が置かれている。まだ咲いている物もあるが、既に枯れ始めているものもあった。彼女はその内の一つに手を差し伸べては「また…お持ちいたしますね?」と告げた。
「いつもありがとう」
「いえ、気にしないで下さい。それでは…昼食の方を作りますね?」
そのまま彼女はキッチンの方へ足を運んだ。手馴れた様子で冷蔵庫を開けて、調味料を取り出していく。包丁にまな板、フライパンを取り出しては彼女は料理を始めた。
その様子を俺はただ眺めていた。時折ブーケの視線が此方に向けば、お互いに視線が合っていく。彼女は頬を赤くしては、直ぐに料理に集中し始めた。
こんな生活が今の日常となっている。
休日には昼前から彼女が寮に訪れては食事を作ってくれ、そして夕食まで一緒に過ごすという生活。掃除など家事もして貰っていた。たまには外に出かけて、買い物や何処かへ遊びに行くこともあった。
平日は一緒に寮まで帰り、そして夕食を食べていく。残業の時は彼女が部屋に入って、夕食の作り置きをしてくれていた。
そう、ブーケと毎日過ごしている。
比喩ではない。これは事実であり、現に今もキッチンで楽しそうに料理をしているのだ。既に数ヵ月もこの状況なのだ。言うならばこれは最早お世話に近い。
何故こうなったのか、数ヵ月前に戻る事になる。
いつものようにトレーナー室でトレーニングメニューやレースに向けた戦略を考えていた。彼女の同期はいずれも精鋭揃い。生半可な対策では負けてしまうのは目に見えていた。
食事を取る時間も惜しんで、朝から晩までブーケの為に時間を使っていた。休日にはレースの資料や教本を読み込み、寝る間を惜しんで自らの地力を鍛えようとした。新人だからこそ、出来ることを。ひたすら盲目的になりながら。
その無理が祟ったのだろう。
ブーケの目の前で倒れかけてしまったのだ。足がもつれ、視界が揺らいだ。意識が現実から飛びかけては、彼女に凭れてしまった。なんとか支えて貰い、ソファーに横になって彼女に何をしていたのかを全て話した。
そんな時に彼女から言われたのだ。
『トレーナーさんを──────支えたいです』
そうして今に至る。
最初は遠慮をしていた。ブーケに無理に来なくていいよ、と。
数週間も経てば慣れてしまった。ブーケにいらっしゃい、と。
だが、数ヵ月が経てば今度は罪悪感が増えた。また来たのか、と。
年下の少女に毎日のようにお世話をされている。これでは年上としての面目が立たない。
だから、今日こそは彼女にはっきりと伝える。明日からは本当に大丈夫だよ、と。
どのタイミングで言うべきか、彼女から貰った花を眺めていた。その時、キッチンからじゅう、と何かを焼く音が聞こえてきた。思考していた脳が音に意識を向けた。
今度は鼻腔を擽る、甘くも優しい匂い。悔しい事に、くぅ、と腹の虫が鳴ってしまう。ブーケが帰るまでまだ時間はある。焦らないで、しっかりとタイミングを見計らおう。
**
そうして、昼食を一緒に食べ終えた。ブーケが作ってくれたのはオムライス。ケチャップでリボンの結び目を作られていた。二人で向かい合って食べては、舌鼓を打った。彼女の料理には外れが無い。どれも優しい味で、食べるだけで心が安らいでしまう。
濃い目の味付けでは無いが、体を気遣ってくれているというだけで更に心が絆されていく。
今は彼女とソファーに座り、映画を一緒に見ていた。今話題のミステリー映画だ。
「あの人、やっぱり怪しいよな?」
「────はい。私も、そう思います」
二人で映画を見ながら、色々と考察をしていた。時折、お互いの肩が触れ合ってしまう程に距離が縮まっている。腰を動かして離そうとすれば、さりげなく彼女は近づいてきた。
彼女の三つ編みが肩に当たった。そこから香る匂いは甘い蜜のようだった。もう少し嗅いでみたい、と思ってしまう程の濃厚さ。なのに、くどくはない。
何度もこの匂いを嗅いでしまうたびに彼女を見つめてしまった。その度にブーケは「どうか…されましたか?」と尋ねてくる。俺は首を振りながら「なんでもないよ」と言葉を重ねた。
心臓の鼓動が早い。どくん、どくん、と叩かれるように跳ねている。緊張しているわけでは無い。生唾を飲んでは、ただこの鼓動に身を委ねていた。抗うよりも、楽だったから。
映画を見終われば、息を大きく吐いた。最初の内は楽しんでいたが、時間が過ぎていけば過ぎる程、余計にブーケを気にしてしまった。
「次は、何を見ましょうか?」
彼女は顔を此方に向けて、柔らかな笑みを浮かべていた。首を傾げて、顔を覗き込む様に。
「…なぁ、ブーケ」
「はい…?」
「本当に……無理に来なくて大丈夫なんだよ?」
一瞬だけ彼女の瞼が見開かれた。しかし、ゆっくりと瞼が細められていけば彼女は首を横に振り始めた。
「私が好きで、していることですので」
「……そうだとしても…な」
両腕を組んでは思案していく。彼女を傷付けない様に何か良い言葉は無いだろうか。
迷惑だから、これは違う。迷惑とは思っていないし、むしろ来てくれる事は嬉しい。
君が心配だ、これも違う。彼女が好きでしている事だ。心配をするのは彼女の好意の否定になってしまう。
「じゃあ…こうしよう。俺の為に明日からは…控えて欲しいな」
「────トレーナーさんのため、ですか?」
「そう。このままだと料理とかどんどん忘れちゃうし。仮に君が病気になった時とか…ほら、ちゃんと出来なかったら恥ずかしいだろう?」
おどけるようにあはは、と笑いながらブーケに告げた。彼女の視線が床へと向かっていく。こくこく、と何度か頷きを見せた後、彼女は顔を上げた。
唇を少しだけ噛みしめて、瞳を小さく潤ませている。
「それでは……せめてお花だけでも…」
「ほ、本当に大丈夫だよ!ブーケに沢山貰ったし…それにこの…今日貰ったこれ」
花籠に指をさしていく。今日飾ってくれた白いベル型の花。
「鈴蘭、ブーケが最初に来てくれた時にも持ってきてくれた花だよね?」
「…っ覚えて、るのですね?」
「勿論だよ。花言葉もね?ブーケにぴったりな花だなって思ったから」
胸元に両手を添えた彼女。そうして頬を緩ませながら「よかった」と小さく彼女は呟いた。その表情を見てしまえば、俺は自然とソファーの布を握りしめてしまった。
「では…一つだけ我儘を言っても良いでしょうか…?」
「いいよ、今までお世話になってたから、なんでも」
「……二週間後にお花をお渡ししても良いでしょうか。トレーナーさんの門出、を祝いたいので」
門出、と言われると背中にむず痒さが走った。大きな目標を決めたわけでも無い、ましてや新生活という訳でもないのだ。
だが、これを断れなかった。彼女なりの我儘。それすらも無下にしてしまうのは余りにも無情だろう。
「分かった。それくらいなら」
「────ありがとう、ございますっ」
ブーケの声が嬉しそうに跳ね上がった。ソファーから立ち上がった彼女は「最後なので、夕食はご馳走にしませんと」と付け加えたが、それは流石に断った。
このままだと折角決めたことが引き延ばされてしまうと思ったからだ。
その時のブーケの表情は哀しそうにしていた。胸の奥でちくり、と痛む何かに俺は見ない振りをした。
**
ブーケのお世話の無い日常、最初の一週間が始まった。
月曜日、火曜日と仕事は順調だった。ブーケのトレーニングもしっかりと見ることが出来て、書類仕事も早く片付いた。彼女は時折、生活を心配してくれていたが、大丈夫だよ、と答えた。
彼女が来ない事を一つの区切りとして、生活を営んでいる。何かに区切りを付ければ意外と人間は脚が進んでいくものだ、と思った。
家に帰れば鈴蘭の花は咲き誇っていた。まだ枯れる様子を見せない。花籠に水を入れていき、枯れないようにする。近くで香ったその匂い爽やかで、思考が冴え渡りそうなものだった。何度か嗅いだが、不思議と惹かれてしまう匂いだった。
水曜日。今日は残業をしてしまった。帰る時間も遅くなり、寮へと帰るなり冷蔵庫を開けていく。中を確認すれば食材はあるが、料理はされていなかった。
「あぁ、そうか」と自分で納得したように呟いた。ブーケに来なくて大丈夫、と言ったのだからある訳が無い。すっかり彼女のお世話が日常に入り込んでしまっている。
これでは良くない、と思ったが流石に体と頭は疲れてしまっている。今日は簡単なもので済ませた。
鈴蘭の花は、まだ咲いている。昨日より少しだけ元気がないように見えた。
木曜日、金曜日と日付を重ねた。また帰るのが遅くなった。今日は書類仕事のミスをして、その訂正をしていた。幸いブーケのトレーニングは順調であるため、迷惑をかけてはいない。
毎日のように彼女は「ご無理を…なさらないでください」と心配してくれる。それを聞くだけで心が安らいでいく。彼女の声、表情、仕草、それらがこんなにも愛おしいと感じてしまうのは、おかしいのだろうか。
いつものように「大丈夫だよ」と笑顔を見せながら、彼女に告げた。彼女はこくり、と頷いて納得をしてくれたのだろう、きっと。
トレーナー寮に帰れば、鈴蘭に水をあげた。花籠の中に、一輪の鈴蘭が落ちていた。
休日。想像していたよりも体が疲れている。朝になって目を覚ましても、体の怠さは残っていた。のそり、とベッドから這い出ていき、キッチンへと向かっていく。午前の内から何をしようか、と考えても思考が巡ることは無かった。
気分転換でテレビでドラマや映画、パソコンでウマ娘のレースを見てもいいかもしれない。たまには本を読むなんてありだろう。のんびりとした誰も来ない時間、なのに時計の針を気にしてしまった。ブーケが来るわけでもないのに。
こんなにも、何かを見ても脳に入ってこない日は久しぶりかもしれない。「つまらない」と口に出した言葉はテレビから聞こえる音にかき消された。
ブーケのお世話から、二週間目に入った。
休日は休んでいたはずなのに、体が休まっていない。あの後、気分転換で買い物にも出かけたが、食料品だけを買って帰ってきてしまった。
月曜日から元気よく、と考えていたが実際は身体が上手く動かなかった。ブーケのトレーニングは見ることは出来たが、その後に雑務処理が手際よく出来なかった。
そうして帰ったのは月が空高く昇っている時間。トレーナー寮へ帰るなり、冷蔵庫を開けた。当然、ブーケの作り置きは無い。少しだけ彼女の料理が恋しい。
鈴蘭の花は半分以上、花籠の中に落ちていた。枯れない様に水を少しだけ多めにあげた。
火曜日。また遅くなった。思考がまとまらない。家に帰って、食事をして、寝るまでの時間はただ茫然と過ごしていた。家に帰り、料理をするのではなくカップ麺で食べることが増えている。昼食もコンビニのお弁当になってきた。
彼女にお世話される前の生活に戻りつつある。いや、それ以上に酷いかもしれない。心が動くことが少なくなってきた。唯一、ブーケと話している時間やトレーニングの時の指導。それが心の拠り所になっている。
鈴蘭の花は全て花籠に落ちていた。残ったのは茎と葉だけ。また咲くように、水をあげた。
水曜日、木曜日。あと、数日でブーケが来る。こんな事ではいけないのに、体は動かない。何故だろう。何度も考えても、答えには辿り着かなかった。
「土曜日に、伺いますね」と彼女から告げられた時に、心が動いた気がする。きっと、そうだと。
トレーナー室で彼女が帰ろうとした時、無意識に彼女の名前を呼んでしまった。困惑するブーケの表情。直ぐに俺は首を横に振りながら「なんでもない」とだけ、答えた。
鈴蘭の花は、咲いていない。
金曜日、つまり明日がブーケが来る日だった。毎日毎日、何かをしようとしても何もない毎日。考えれば考える程に、ブーケを求めてしまう。彼女が居たから、一緒に歩めたのだ。
彼女が居なければきっとこのまま後退していく。早く、明日になって欲しい。
土曜日─────
朝早くから、目が覚めてしまった。彼女が訪れる時間は午前十一時だと聞いている。ソファーに座り、貧乏ゆすりをしながら壁時計を何度も見てしまった。何度時計を見ても、針は進んでいない。
繰り返して、二桁を迎えた。まだ、来ない。三十分以上あるのだから、当然の事なのに。
気を紛らわそうとソファーから立ち上がれば突然、インターホンの無機質な呼び鈴が聞こえた。宅配は頼んでいないはず。ブーケも来るまでにはまだ時間がある。誰だろうか、と考えて扉へと向かって歩いた。よたよた、と足取りが重かった。
扉に辿り着き、開けるとそこには両側にふわりとした三つ編みを垂らし、淡い鹿毛の髪色の少女が立っていた。
「早く、来てしまいましたが─────よかっ……っ」
「ブーケっ……」
彼女の姿が見えれば、そのまま全身を覆いこむ様に抱きしめてしまう。肩に顔を埋めていけば、彼女は驚きながらも、優しく頭を撫でてくれた。
「……ふふっ、落ち着いてください、トレーナーさん」
「あ…あぁ、ごめん…」
直ぐに彼女から離れていく。彼女から香ったのはこの間嗅いだ甘い蜜と同じ匂い。不思議と脳まで伝わり、思考が明瞭になり始めた。
ブーケの右手には花籠が握られていた。そこには見たことの無い花だった。花びらは白く、根本は紫色。四つの花びらが細く伸びており、花というには余りにも変わっていた。
「…それは?」
気になって思わず尋ねてしまった。ブーケはその花を一瞥した後に、視線を此方に向けた。
「イカリソウ、というお花です」
ブーケの告げた言葉に続くように「イカリソウ」と呟いた。やはり、聞いたことが無かった。
彼女と一緒に脚を揃えてリビングへ入っていく。部屋の様子を見た彼女は「あっ」と驚いた声を出していた。服は散らばり、掃除や洗濯すらも最低限だけしている。キッチンもゴミは何とか片付けたが、食器は水に浸からせている程度だ。
「…ごめん、君が来なくなってから…全然出来ていなくて」
「気にしないで、下さい。トレーナーさんは、お忙しいのですから…」
その後は二人で家事を一緒にした。掃除、洗濯、料理、それらを一緒に行いながら会話をしていく。他愛のない雑談だった。まさに会話に花が咲いていた。その中でブーケはイカリソウについて更に教えてくれた。
「イカリソウ、は…人生の門出、という花言葉があります」
その言葉を聞いた時に唇を噛みながら「素敵な言葉だね」とだけ返した。きっと独り立ちをすることを祝ってくれるはずだったのに。それが叶えることが出来ず、心臓の鼓動が痛いほどに響いていた。
昼食を二人で食べ終わり、一緒にソファーへと座った。だけど、座り方は二週間前とは違った。あの時は横並びだった。今はブーケを膝の間に座らせて、背中から抱きしめている。まるで人形のように。
「ブーケ…少しだけ…」
「…もう、仕方のない人です」
そう言いながら、彼女は拒絶しなかった。抱きしめる腕に彼女の手が添えられていく。指先の温度、彼女の体の柔らかさ、甘い匂い、それらが全身を通して伝わってきた。一度だけ、彼女の肩に顔を擦りつけ、更に力を込めた。
何度も何度もブーケという存在を感じる度に、今まで動かなかったものが動き始めたように感じる。彼女が居ることで、自分の世界に彩りがあるのだと。
「…ブーケ」
「はい…?」
彼女の名前を呼べば、腹部に当たっているブーケの尻尾がぱさり、と揺れた。首を動かして、視線を合わせようとしてくれるだけで、また力が強くなった。
「…ぅ」
「い、痛かったよな、ごめん…」
「大丈夫、ですから。少し驚いた…だけなので」
力を少しだけ緩めては、体を近づけた。甘い蜜の匂い、それを嗅いでいると今度は思考が朧げになっていく。ふわふわとした、宙に浮くような気持ち。気持ち悪さはない、むしろもっと、と求めてしまう程だった。
「……君が…ずっといてくれたらいいのに…」
視界もぼやけ、無意識に出てしまった言葉。夢遊病にでもなってしまったのか、と錯覚してしまう。このまま目を瞑れば、きっと気持ちよく眠れるのだろう。
彼女を抱きしめる腕の力が弱まっていく。明日は何をしようか、このまま彼女と────
「────────あはっ」
声が聞こえた。普段のブーケとは思えないほどの高く、そして愉悦に満ちた声だった。
「…ぶー…け?」
確かめる様に彼女に声をかけた。ブーケは身動ぎをしながら、此方へと振り向いた。お互いの視線が合っていく。彼女の細められた瞼から覗く瞳。体が、自然と動かなくなった。
「…最初にお渡しした鈴蘭の花。覚えていますか?」
「あ…あぁ」
ゆっくりと首だけは動かせた。縦に動かし、頷いていく。口元は震え、呼吸もいつの間にか浅くなっていた。それでも思考は巡らない。視界もブーケだけ輪郭を捉えており、それ以外はぼやけている。
「鈴蘭…あのお花は──────毒があるんです」
「ど…く…?」
「はいっ。鑑賞だけなら、良いですが…食べてしまえば…です」
「そう、なんだ…」
ブーケが何故それを話すのか理解できなかった。食べなければ毒でないなら、きっと何も問題は無いはず。なのに何故、こんなにも思考がまとまらない。
「…可哀想な、トレーナーさん。きっと…鈴蘭の毒にかかったのですね…」
「そんな…わけが…」
ぴとり、と頬にブーケの片手が添えられてくる。指先の温度は暖かいのに、掌全体が冷たかった。歪にも感じるそれが、心地よかった。不思議と恐れはない、彼女に身を委ねてしまいたいと思ってしまう程だ。
違う。委ねたら本当に戻れなくなる。全身にまで彼女に侵食され、自分という存在が彼女によって塗り替えられてしまう。それは──────
「──────また、お世話…致しますね?」
その言葉に俺は頷いてしまった。
ブーケの口元が歪められた。瞳は此方を見つめ続け、小さく口を開いた。
それらに愛おしいと思ってしまうことは、きっとおかしくない。