改心悪女四種盛り 作:白のワイん
秘書として私の隣に立つようになった兵藤優馬は、非の打ち所がないほどの仕事ぶりだった。
私が投げる業務指示のすべてを、彼は淀みなく、そして私が期待していた以上の精度で形にして戻してくる。かつて悠真と一つの仕様を巡って、深夜まで論理の殴り合いを演じていたあの泥臭い時間は、今や遠い過去の遺物のように感じられた。
『今日も完璧ね、優馬』
『光栄です、社長』
優馬は恭しく頭を下げる。
彼が提出する日報の端々には、現場から上がった成果が「秘書の調整能力」というラベルに貼り替えられて混じっていたが、私はそれに気づかないふりをした。あるいは、本当に気づいていなかったのかもしれない。
悠真がいなくとも、この城は回る。その安堵が、私の内側で肥大し続けた「自立への執着」を、歪んだ自信へと変質させていった。
私は、誰も近づけさせなかった自分のパーソナルスペースに、優馬を招き入れた。
社内を歩く時も、重要な会食の場でも、常に彼を伴った。周囲の視線は「若き女社長と、その有能な懐刀」として私たちを捉えていたが、私の本心はもっと幼稚な場所にあった。
現場で汗を流し、泥臭い調整に奔走する悠真に対し、私は「代えの効く駒など、もう必要ない」と無言で突きつけたかったのだ。それは、誰にも依存しないと決めたはずの私が、彼に対して抱いてしまった醜い独占欲の裏返しだった。
ある日の昼下がり。
オフィスのラウンジで優馬と短い休憩をとっていた時のことだ。
背の高い観葉植物の陰から、休憩中の社員たちのひそひそ話が漏れてきた。
『……でもさ、実際、雨宮さんがいなきゃこの会社は始まらないよな』
『ああ。あんなに現場を知ってて、みんなの不満を吸い上げてくれる人が、いまだに主任クラスで留まってるのはおかしいだろ。今の規模なら、役員……いや、社長だってあっちの方が適任なんじゃないか?』
手元のティーカップが、微かに震えた。
誰にも頼らず、学問と努力だけで築き上げた私の居場所。それが「現場の信頼」という不確かな感情によって、足元から侵食されている。
隣に座る優馬は、私の動揺を見逃さなかった。彼は困ったような、それでいて慈しむような視線を私に投げかけ、静かに毒をひとさじ落とした。
『……困りましたね。雨宮さんが社員たちに、そんな風に……外堀を埋めるような噂を流しているとは。これでは、まるで社長の座を狙ったクーデターの準備をしているように見えてしまいます』
『彼が……そんなことを?』
『いえ、私の邪推でしょう。忘れてください。彼は、貴女の友人なのですから』
「忘れてくれ」という言葉ほど、記憶に深くこびりつくものはない。
私は静かに歯噛みした。
確かに悠真は、現場から上がってくる報告をフィルタリングし、私に上げるタイミングを計っていた。私はそれを「現場の最適化」だと思っていたが、今の私にはそれが「経営者への情報隠蔽」による権力の掌握にしか見えなかった。
私は、彼を追放することを決意した。
翌週。公の場である役員会議。
私は、悠真が「最適」と判断して留めていた軽微な不具合報告の遅延を、全社員の前で「悪意ある隠蔽」として糾弾した。
『責任問題よ、雨宮主任。貴方の独断が、どれほど会社の信用を危うくしているか分かっているの? これは共同経営者としての裏切り行為よ』
難癖に等しい、言葉の暴力。
悠真は、その場に立ち尽くしたまま、私の目を真っ直ぐに見つめていた。その瞳には怒りも、失望も、戸惑いすらなかった。ただ、底知れない深い静寂だけがあった。
『懲戒解雇か、自主退職か。今ここで選びなさい』
悠真は一瞬だけ、悲しげに瞳を細めた。
だが、彼は一言も、何の反論もしなかった。
あれは現場の判断だったとも、私の負担を減らすために泥を被っていたのだとも、何一つ。
彼はただ、懐から取り出した入館証を静かにデスクに置き、私の横を通り過ぎていった。
その背中が消えるまで、私は勝利の美酒を確信していた。
彼という「重し」がなくなったことで、私は真に自由になれるのだと。
悠真が去った翌日、オフィスに漂っていたのは解放感ではなく、薄氷を踏むような緊張感だった。
私は、自分がついに「真の支配者」になったのだと己に言い聞かせた。邪魔な共同経営者は消え、隣には忠実な秘書がいる。これこそが、母の失敗から学び、私が死に物狂いで手に入れたかった「誰にも寄りかからない自立」の完成形なのだと。
だが、その傲慢な確信は、わずか一週間で悲鳴を上げた。
『社長、基幹システムに致命的な遅延が発生しています! 現場のエンジニアたちが『仕様の意図がわからない、雨宮さんなら知っているはずだ』と言って動きません!』
『取引先のVCから緊急の呼び出しです! 雨宮さんが辞めた理由について、納得のいく説明を求めています!』
怒号のように降りかかるトラブルの数々。私は優馬に指示を飛ばした。
『優馬君、貴方が調整して。代わりの人材なんて、いくらでも市場にいるでしょう?』
しかし、優馬はいつも通りの完璧な微笑みを浮かべながら、淡々と答えるだけだった。
『善処します、社長。ですが、雨宮さんが独自に組んでいた現場のワークフローは非常に閉鎖的でして……。彼らが彼を神格化している以上、外部からの補充には時間がかかります』
悠真がいなくても問題ない──そう思っていたのは、私だけだった。
悠真は単なる実務担当ではなかった。彼は、私の高すぎる理想と、現場の過酷な現実との間に立ち、磨り減りながらも摩擦を消し続けていた「潤滑油」だったのだ。彼という緩衝材を自らの手で引き抜いた今、会社という巨大な機械は、互いのギアを削り合い、火花を散らして止まろうとしていた。
退職者は連鎖した。
創業当時からのコアメンバーまでもが、「水野社長のやり方にはついていけない」と吐き捨てて去っていく。補充された中途採用の人間たちは、Persona-Linkの複雑なAI構造を理解できず、焼け石に水ですらなかった。
業績は、自由落下の如く悪化した。
メディアでの賞賛は手のひらを返したようなバッシングに変わり、かつて私を「新時代の寵児」と呼んだ投資家たちは、今やハイエナのように残債の回収を迫ってきた。
私は、自分が何よりも恐れていた「無能な自分」に逆戻りしていく恐怖に震えながら、断腸の思いで事業整理と、破産手続きの準備を始めるしかなかった。
深夜、誰もいなくなった静まり返ったオフィスで、私は山積みの財務書類を整理していた。
そこで、私は「それ」を見つけてしまった。
不審な資金移動の記録。
会社を立て直すための運転資金としてプールしていたはずの資産が、一見正当なコンサルティング料や特許使用料という名目で、海外の幽霊会社へ頻繁に送金されている。
『嘘……。何、これ……』
私は、唯一信じていた優馬にこの事実をぶつけ、調査を指示するために彼のオフィスへと向かった。
震える足取りで廊下を歩き、重い扉の前に立ったとき。
ノックをしようとした私の手は、奥から漏れ聞こえてくる声に、氷ついた。
『ふふ……お兄様、お疲れ様。やっとあの女の会社、ペンペン草も生えないくらいボロボロになったわね。あの野良犬を追い出すときは、笑いを堪えるのが大変だったわ』
女の声がする。こっそり中を窺うと身なりの良さそうな女が悠真にしなだれかかっている。
『ああ。あんな無能でプライドの高い女、嫉妬心を少し突いてやるだけで自滅してくれた。あの男がどれだけ必死にこの会社を守っていたか、あいつは死ぬまで気づかないだろうな』
『本当に。あの駄犬がお父様から受け継いだ遺産をあんな女の夢のために注ぎ込んでるって知ったときは、どうしてやろうかと思ったけど……。お兄様が上手くやってくれたおかげで、全部私たちの口座に『回収』できた。お父様の遺したものを泥棒猫に渡さずに済んで、本当によかった』
扉の向こうで、優馬と女が楽しげに笑い合っている。
私は、自分が立っている場所が、奈落の底であることを悟った。
遺産?
初期投資のあの数億円。
彼は、亡くなった両親の全財産を、私のために差し出していた?
なぜ?
それを、私は。
自分を破滅させようとする兄妹の掌の上で、彼を「代えの効く駒」だと見下し、泥の中に突き落としたのだ。
(あ、あ、ああああ……!)
心臓が潰れるような衝撃。
叫び出したくなる衝動を、口を両手で塞いで押し殺す。
私はずっと、悠真君の献身という名の巨大なゆりかごの中で、何も知らずに王様気取りで踊らされていただけの道化だった。
たまらず、私はその場から逃げ出した。
背後で優馬たちの笑い声が、呪いのようにいつまでも耳にこびりついて離れなかった。
オフィスを飛び出した私を待っていたのは、すべてを洗い流そうとするかのような、激しい豪雨だった。
アスファルトを叩く雨音が、耳の奥で鳴り止まない優馬と琴音の嘲笑をかき消してくれることを願った。けれど、走れば走るほど、肺の奥が焼けるように熱くなり、己の愚かさが形となって喉元までせり上がってくる。
あの賭けも、あの膨大な準備金も。
彼が私のために差し出したのは、単なる金や労働力ではなかった。彼の人生そのもの、そして彼が愛した家族の遺したすべてだったのだ。それを私は、「代えの効く駒」だと断じ、あろうことか自らの手で汚名を着せて追い出した。
誰にも頼らずに生きると豪語した私は、その実、世界で最も惨めで、最も彼に依存し、そして彼を傷つけた、空っぽの抜け殻だった。
視界が涙と雨で歪む。
深夜のオフィス街。人影のない交差点に差し掛かったとき、背後から猛烈な速度で近づく光が、私の影を前方に長く伸ばした。
キィィィィッ、という、耳を劈くようなスキール音。
直後、私の世界は上下を失った。
ドンッ。
鈍い衝撃と共に、私の体は紙屑のように宙を舞った。
冷たい雨空が一瞬だけ視界を横切り、次の瞬間には硬いアスファルトに叩きつけられる。
全身の骨が砕ける音が、内側から聞こえた気がした。
肺が潰れ、呼吸が止まる。口の中に溢れるのは、鉄の味がする熱い泥のような液体。
『……が……はっ……』
指一本動かせない。視界の端で、一台の高級車が止まり、ドアが開くのが見えた。
ゆっくりとした足取りで近づいてくる二人の人影。
『あら、まだ生きてる。お兄様、意外としぶといわね、この人』
『無駄にプライドが高い分、生命力だけはあるらしい。だが、これでようやく雨宮の未練も、会社の残務もすべて清算できる』
優馬とあの女だ。
優馬は、雨に濡れるのも構わず、冷徹な目で私を見下ろしていた。そこには、あの日々に見せた献身的な秘書の面影など微塵もない。私を撥ねたことへの焦燥も、人としての忌避感すらなさそうだ。
私は、地を這う虫のように震えながら、彼らを見上げることしかできなかった。
(誰か……助けて……。悠真君……ごめんなさい……助けて……)
そのときだ。
誰かが道端から飛び出して来て私に駆け寄ってくる。
「……栞!? 栞!!」
その声を聞いた瞬間、私の心臓が最後の一跳ねを見せた。
悠真君だった。
私に裏切られ、すべてを奪われ、会社を追われたはずの彼が、どうしてここにいる。
彼はなりふり構わず駆け寄り、血の海に沈む私を抱きかかえた。
「栞! しっかりしろ! おい、今救急車を──」
悠真君の震える腕の温かさが、砕け散った私の体には唯一の、そして過分すぎるほどの救いだった。
私は、彼の顔を見て、謝りたかった。
貴方がくれたすべてを、私は踏みにじった。
貴方が守ろうとしたものを、私は自ら壊した。
ごめんなさい。……ありがとう。
けれど、私の唇は血の泡を吹くばかりで、音を紡ぐことを拒絶した。
そして私は、見た。
彼の背後。
優馬が、車のトランクから取り出した重い鉄の棒を握りしめ、音もなく忍び寄っているのを。
必死に、目を見開いて訴える。
だが、悠真は私の命を繋ぎ止めることに必死で、自分の背後に迫る死神に気づかない。
ドカッ。
脳を直接揺さぶるような、嫌な音がした。
次の瞬間、悠真の頭部から溢れ出した鮮血が、私の顔を真っ赤に染め上げた。
悠真君は、呻き声さえ上げなかった。
彼は倒れ込みながらも、私を抱きしめる腕の力を緩めず、そのまま私の上に覆い被さった。
優馬は無表情に、壊れた機械を解体するように、何度も、何度も、鉄の棒を振り下ろす。
悠真君の背中が、肩が、砕けていく。
それでも彼は、私を庇うように、その大きな体で私を包み込み続けた。
至近距離で。
私の瞳を真っ直ぐに見つめたまま、悠真の瞳からゆっくりと光が消えていく。
最期まで、彼は私を責めるような色は見せなかった。ただ、幼い子供を守る父親のような、悲しげな微笑みを湛えたまま。
「ふふ……予定は狂ったけどまとめて処理できたのは僥倖だわ。早くいきましょう、お兄様」
遠ざかっていく琴音の軽やかな笑い声と、車のエンジン音。
雨は依然として降り続き、私と、私を守るように重なる悠真の亡骸を濡らしていく。
私は、自分にのしかかる彼の亡骸の重みを感じていた。
それは、私が一生かけても報いることのできなかった、彼の愛の重さそのものだった。
自立などと言いながら、私は彼の犠牲の上に立ち、彼を殺すことでしか、自分のプライドを守れなかった。
謝ることさえ、許されない。
彼が守り抜いた私の命は、今、彼と共にこの冷たいアスファルトの上で消えようとしている。
私は、薄れゆく意識の中で、自分を包む彼の血の温かさを感じながら。
あふれ出る涙を拭うことすらできず、ただ無限の絶望に抱かれながら、意識が途切れた。