改心悪女四種盛り 作:白のワイん
父に子供は居ないと聞いていたのに。
本当に父をそのまま若くしたような容姿に私の胸は異様な興奮に満ちていた。
兵藤優馬。兄と同じ名前を持つ少年。
私は父に憧れは抱きつつも、歳の離れた大人の男性で既に結婚もしている事実も確かに認識しており、叶わぬ望みを抱いているという自覚があった。
だが、この少年相手なら──ー
『あの、お兄様と、お呼びしても?』
この時、私はどんな顔をしていただろう。
この光景を隣で見ていた兄は、一体どんな顔をしていたのだろう。
おそらく、この瞬間から兄はこれまでの考えを変えた。
兄の身の回りの世話をするとやってきた母方の遠縁の少女、高瀬紬もそこそこの対応であしらっていた。
今思えば、誰にだって人懐っこく接する兄らしくない態度。
同じ名前を持つ優馬は元より私や両親にさえ一線を引いたように思えたが、当時の私は些末事として切り捨てた。
兵藤の屋敷は、すでに父と母の手により使用人は全て解雇されており、高校生男女4人だけが住まう屋敷となった。
当然、父と母は帰ってこず連絡もろくに取れない状況になっている。
兄は身の回りの世話をやんわり断って、紬に対して私と優馬の世話をするように言いつけた。
食事さえ、自分のものを自分で用意し1人で済ませる始末であった。
その間、私はどこへ行くのも新しくできたお兄様の後をついて回った。
彼は遺産整理中にも関わらず一部の現金に対して一定の裁量を持っていた。
私を連れ立って、紬を付き従え、様々な場所へ連れ歩いた。
食事、ショッピング、旅行。
屋敷に何日も帰らない日さえあった。
兄に誘われた時にはあんなに頑なになり引きこもっていたのに。
まるで恋人のように纏わりつき、そしてそれを受け入れてくれることに幸福を感じていた。
私は父では満たされなかった欲望を兵藤優馬で満たしたのだ。
そんなある日、既に存在を忘れかけていた兄のことが話題に上がった。
『どうやら雨宮の若様は最近頻繁に雨宮の宅邸と行き来しているようですね』
『ええ、荷物を取りに戻られてるようですが……一部のものについては処分をしているようで』
『お部屋のお掃除で入らせて頂きましたが、荷造りしている形跡が……』
『琴音、もしかしたら兄さんは家を出て行くつもりなんじゃないかな……?』
『気のせいだったらいいんだけど、真夜中にお祖父様の書斎に入って行くのを見たんだ』
『あそこは貴重な品がいくつかあるから、勝手に立ち入っちゃいけないんだ』
『一応、無くなってるものがないか確認したけど無くなったものはなかったよ』
『でも、棚とか引き出しを物色したような跡が……』
『まさか、このどさくさに紛れて貴重なものを持ち逃げするんじゃ……ごめんね、滅多なことは言うもんじゃないね』
『忘れて』
生前の祖父の言葉が蘇る。
卑しい血は隠せない。
この時、まだなんの証拠も自分の目で確認してないにも関わらず、私の中で兄を泥棒だと断定した。
そして、私は小賢しくも兄を取り押さえるために一計を案じることにした。
兄は大人たち、とりわけ両親の信頼が厚い。
証拠もなく、騒ぎ立てたところで取り合ってくれないと思った私はシンプルに証拠を作って仕舞えば良いと考えた。
最初のきっかけは濡れ衣かも知れないが、その後詳しく調べれば芋蔓式に悪事を暴ける。
よしんば何も出てこなくても今後の行動に釘を刺す事ができる。
私は祖父の書斎から腕時計のコレクションの一部を箱から取り出し、兄の部屋に忍びこませた。
その日の夜、なんの連絡もなく父だけが屋敷に帰ってきた。
予想外のことに驚いたが、この機を逃す手はない。
『お父様! 急にどうされたのです?』
『屋敷のセキュリティに問題が起きたから確認しに戻ってきた』
『……え?』
『今日の日中の防犯カメラ映像が破壊されている。それも屋内の映像だけがやられているようだが、何か変わったことはなかったか?』
『っ……やっぱり。こ、この人です! お祖父様の書斎に立ち入ってるのを見ました!』
『……』
『悠真が? どいういうことだ?』
『……琴音』
『馴れ馴れしく呼ばないで。あなたがコソコソと自室に戻るのをしっかり見ました。お父様、部屋を検めましょう』
『……いいだろう』
『お兄様たちも来てください』
私は高鳴る心臓を抑えながらみんなを引き連れて兄の自室に押し入った。
そして、まだ何も言い出す前に優馬と紬が無遠慮に部屋を調べ始める。
『これは!! お祖父様のコレクションだ! どうしてここに……』
『やはり、卑しい血は隠せないようですね! お父様、この恩知らずの野良犬を追い……』
パン
『……お前には失望した』
乾いた破裂音と共に冷たく言い放たれた言葉をしばらく受け止める事ができなかった。
頭の中に無数の何故が飛び交い、頬がジンジンと痛む。
恐る恐る父の顔を見ると、侮蔑に歪んだ冷たい瞳と視線が合ってしまい体が震える。
『愚か者め。悠真が本当にこの時計を盗むつもりなら箱ごと盗むさ。ギャランティがない限定品など買い取ってくれる店はありはしない。即通報されるのがオチだ』
『自分で使うつもりならこんな杜撰な保管はしない。悠真に時計の扱いを教えたのは誰だと思っている?』
何を言っているのかわからない。
ただ自分の浅知恵が全て見透かされてるというのだけはわかる。
『……父さん、やっぱりさ』
『やめろ。その話は全部片付けた後にすると言ったろう』
『……はい』
『琴音、お前は私が許可を出すまで外出を禁止する。屋敷内も勝手に出歩くな。今日から客間に入れ』
『悠真、琴音の身の回りの世話はお前がしろ。それを以て琴音の罰とする』
私は父の手で客間に放り込まれて、しばらく床に座り込んでしまった。
どれだけ経ったか、ノックと共に兄が私の荷物を抱えて入ってきた。
床に座り込んでしまった私を見つけて一瞬動きを止めたがそのまま荷物を邪魔にならない位置に置いて何事もなかったかのように出て行こうとする。
『なにも、いわないんですね』
『……』
『そうやって、大人ぶって……聖人君子のつもりですか』
『……俺はそんなんじゃないよ』
『なら、恨み言や憎まれ口の1つでも吐いてみなさいよ!!』
『何も思いつかないな』
『っぁ、く、ふざけ……』
『いや、一つだけ伝えたい事がある』
『進学は他県の大学にした。4月から家を出る』
『……え?』
『父さんは俺を引き止めるためにお前の世話をさせたいようだが、卒業式が終われば荷物を送ってすぐにここをでる』
『もう、帰ってこない。相続放棄して欲しいっていうならその時は書類を送ってもらうよう父さんたちに頼んでる』
『これで、満足だろ?』
私は言葉を繋げる事が出来ず、兄はそのまま嘆息して部屋を出ていった。
8年間にわたる私の一人相撲は呆気なく終わったのだ。
それから幾日か過ぎた。
客間は生活に必要な設備が全て整っているため、私は一歩も部屋から出る必要がない。
同じ繰り返しの中で完全に時間感覚を失っていた。
兄は決まった時間にやってきて食事を作り、後片付けと幾らかの掃除をして、畳まれた着替えの代わりに洗濯籠を抱えて帰って行く。
私はなんとなく、雨宮の宅邸に来たばかりのことを思い出していた。
あの頃と同じ、黙り込んでされるがままの私。
変わったのは、兄の無駄口が一切無いこと。
私は理由のわからない寒気に身を振るわせることしかできなかった。
そして、あの運命の夜が訪れた。
不快な熱気で目を覚ました。
視界が赤い。
パチパチと木材が爆ぜる音が、静まり返った屋敷に響き渡っていた。
火事だ。
私は反射的に部屋を飛び出し、階段を駆け下りた。
逃げなければ。
肺が煙を吸い、意識が朦朧とする中で、私は庭へと続く勝手口を抜けた。
冷たい夜気に触れ、激しく咳き込む。
燃え盛る兵藤の屋敷を見上げながら、私は生存の安堵に震えた。
だが、その瞬間、胸の奥に鋭い痛みが走った。
──ない。
いつも肌身離さず、寝る時も枕元に置いていた、父から贈られたあの万年筆がない。
私は、自分が何をしているのか理解する前に、再び燃え盛る玄関へと駆け戻っていた。
止める声はなかった。優馬の姿も、紬の姿も、まだそこにはなかった。
煙に巻かれ、視界を奪われながらも、私は必死に自室への階段を這い上がった。
熱で歪む視界の先、床に転がっていた白い軸の万年筆を見つけ、それをひったくるように掴み取る。
指先に、ねっとりとした不快な感触があった。
『……インク?』
漏れたのだろうか。
私はそれを握りしめ、崩れ落ちる天井の火の粉を避けながら、命からがら外へと脱出した。
屋敷の正面には、いつの間にか警察や救急隊の車両が並んでいた。
赤色灯が、夜の闇を無機質に切り裂いている。
『……あ、ああ……』
私は煤に汚れ、万年筆を握りしめたまま、その場にへたり込んだ。
助かった。
そう思った瞬間、聞き慣れた、だが今までとは全く違う「冷徹な声」が夜空に響いた。
『あの子です! 琴音が兄さんを殺したんです!』
『私、見ました! 彼女が……人を!』
叫んだのは、優馬だった。
その隣には、いつの間にいたのか、紬が、震える肩を抱かれながら私を「怪物」を見るような目で見つめていた。
『何を……言っているの?』
困惑する私に、一人の警官が近づいてくる。
その視線は、私の右手──固く握りしめた「白い万年筆」に注がれていた。
『お嬢さん、それを、見せてごらん』
差し出した手のひらの上で、白い万年筆が赤色灯に照らされる。
白い軸に付着していたのは、青黒いインクなどではなかった。
それは、どす黒く、鉄の臭いを放つ、生々しい「血痕」だった。
『違う、これは……インクよ。万年筆の、インクが……』
言葉が震え、喉の奥で引き攣る。
だが、警官の眼差しは憐憫から、確信を帯びた鋭利なものへと変質していった。
背後で、騒然とした怒号が上がる。突入していた救急隊員たちが、ぐったりとした「何か」を担架に乗せて運び出してきたのだ。
──ー兄さん。
赤色灯の下、運び出された兄の胸元には、見覚えのあるペーパーナイフが深く突き立てられていた。
白いシャツは無残に染まり、いつも困り顔をして細めていた双眸は、光を失い、焦点の合わない虚空を凝視している。
『兄さん……悠真兄さんッ!!』
優馬が泣き叫び、兄の遺体に縋り付こうとして引き剥がされる。その傍らで、高瀬紬が凛とした、だが氷のように冷たい声を上げた。
『……琴音さん、貴女は以前も、お兄様を陥れようとして失敗したわね。伯父様に叱責され、謹慎を命じられた恨みで……。まさか、お兄様を殺して、屋敷に火を放つなんて』
紬の言葉は、集まった野次馬や警官たちの間に「動機」という名の毒を撒き散らした。
違う。違うのだ。
私は、あの万年筆を、ただ取りに戻っただけ。
『証拠なら、その万年筆についている血が証明してくれるわ。貴方が返り血を浴びた証拠よ』
紬の瞳の奥に、一瞬だけ宿った愉悦。
私は悟った。何もかも、仕組まれたことだと。
私はその場で、現行犯逮捕された。
連行されるパトカーの窓越しに、私は見た。
泣き崩れる優馬の肩を抱き寄せ、慰めるように寄り添う高瀬紬。
その二人が、一瞬だけ顔を上げ、私を……檻の中の獣を見るような、薄汚い勝利の笑みを浮かべて見送っていたのを。
裁判は、速やかに行われた。
兄に窃盗の冤罪を被せようとした証言、私が持っていた血塗れの万年筆。
そして、引き篭もっていた私には預かり知らぬことだったが、あの夜、両親も屋敷に帰ってきていた。
煙に巻かれた二人は寝室のベッドの上で見つかったそうだ。
私は、都合3人を殺害した罪を問われた。
判決は、死刑。
逆恨みによる、極めて自己中心的な犯行。更生の余地は無い。
それが裁判者の下した判決だった。
そこから、記憶は曖昧だ。
言われるがままに過ごしていたら、気がつけば刑務所の中だった。
もう既にどうでも良くなっていた。
休憩スペースで流れているニュースの見出しが見える。音声はよく聞こえない。
“ウィステリア・グループ新総裁、兵藤優馬氏が結婚! お相手は政治家一族の令嬢!? ”
“惨劇を乗り越えた二人”
私のしていたことは、何から何まで無意味なことであった。
それどころか、ただ父を、母を、そして兄を破滅させただけで何も成すことがなかった人生だった。
寄生虫のように、他者の生き血を啜ることでしか生きられない醜悪な生き物。
そして、宿主を食い殺して自身も死のうとしている愚かな生き物だ。
あの夜、屋敷を燃やす炎を照らされながら私に降りかかる灰が今でも私に降り積もっている様を幻視する。
灰と煤に塗れ、歩くたびにパラパラと落ちて行く。
まるで自身まで灰になったかのように、自分の体がすり減って行く感覚を覚える。
頭に次々と浮かんでくるのは雨宮の宅邸で私に必死に構ってくれた兄の姿。
いつかの、同じ本について感想を言い合ったあの日。
ずっと、家族はすぐそばに居た。誰よりも近い場所に。
屋敷の客間に押し込められたあの日から感じている寒気の正体。
それは、兄から感じられた温もりを無くしたせいだったんだ。
『ゔ、ゔぶ……うげえっ』
吐き気を堪えきれず、たまらず吐き散らした。
床に散らばる吐瀉物に赤い血が混じっている。
意識が朦朧として汚物の中に倒れ込む。
俄かに周囲が騒がしくなってくるがよく聞こえない。
あの夜から止まらず降り積もる灰に埋もれて、私の意識は永遠に途切れた。