夜が明ける前に、ルカは荷物をまとめていた。
まとめる、と言っても大したものはない。
替えのシャツが二枚。擦り切れた外套。
少しの金。
それから、どこへ持っていっても役には立たないのに、どうしても捨てられなかった古い革紐が一本。
酒場の裏手にある狭い物置部屋は、寝床と呼ぶにはあまりに寒く、隠れ家と呼ぶにはあまりに安っぽかった。
だが、ルカにはちょうどよかった。
名も、腕も、過去も、何もかもが少しずつ鈍っていくには、それくらいの場所がちょうどよかったのだ。
扉が軋んで開いた。
「おい、アリノ」
眠そうな目をこすりながら、店主が顔を出す。
ルカは振り向かない。
「どこ行くんだ」
少しだけ間があった。
ルカは荷を肩にかけ、それから低く答える。
「……お世話になりましたが、ここにはもう居られないんです」
店主はしばらく黙った。
昨日の黒髪の女と、その一行のことを思い出しているのだろう。
あの連中がただの客でないことくらい、店主にだってわかる。
「厄介ごとか」
「はい」
「お前の、昔のやつか」
ルカは答えなかった。
それだけで十分だった。
店主は頭を掻き、諦めたようにため息をつく。
「給金、まだ少しあるぞ」
「いりません」
「そういうとこだけ律儀だな」
「……借りは嫌いなんで」
店主は少しだけ笑いかけて、やめた。
こういう男に向ける笑みは、だいたい届かないことを知っているからだ。
「じゃあ、もう行くのか」
「はい」
「次はもう少しマシな店にしろ」
ルカはそこで、ほんのわずかに口元を動かした。
笑った、というほどでもない。
ただ、それが最後の礼のつもりだったのだろう。
裏口を開ける。
外はまだ暗い。
朝には少し早く、夜と呼ぶには薄すぎる時間。
昨日までなら、この曖昧さが好きだった。
何者でもないまま、どこへでも消えられそうだったから。
だが今朝は違う。
消える前に、見つかってしまっていた。
裏路地へ出た瞬間、ルカは足を止めた。
そこに、先客がいた。
石壁にもたれるようにして、青年が立っている。
整った顔立ち。
やわらかな笑み。
朝の来る前の冷たい空気の中で、その目だけが妙に古く、深く、静かだった。
シックス。
まるで最初から、ルカがこの時間にこの道を通ると知っていたみたいに、そこにいた。
「ここからもまた逃げるのかい?」
声だけが、やさしかった。
ルカはすぐには答えなかった。
肩にかけた荷が、やけに軽い。
逃げるのに必要なものなんて、本当はそれくらいしかないのだと、あらためて思い知らされる。
「道を空けろ」
やっとそれだけ言う。
シックスは笑う。
「まだ逃げ方を選べると思っている顔だね」
「お前に付き合う気はない」
「そうかな」
彼は壁から背を離した。
たったそれだけの動作なのに、路地裏の空気が少しだけ変わる。
「君は彼女を喪ったんじゃない」
ルカの眉が、ほんのわずかに寄る。
「彼女を喪ったあと、自分を保てなかったんだ」
一歩。
シックスが近づく。
責めるような声ではない。
むしろ、こちらの中にあるものを、あまりにも正確に読み上げる声だった。
「君には自責がある。
“あれほどのファティマを持ちながら、結局逃げた”というね」
ルカの喉が鳴る。
「黙れ」
「黙らないよ。
だって、そこがいちばん大事な傷だ」
シックスの目は笑っていない。
笑っていないのに、どこか愉しげだ。
人の傷を見つけた医者ではない。
傷口の深さが期待通りだったと喜ぶ外科医だ。
「ジルは最高だった」
その名が落ちた瞬間、ルカの指先が強ばった。
「ビスマス公の傑作。
演算速度、判断精度、戦場適応。
どれも一級どころじゃない。
君が最初に手にしたものとしては、出来すぎていた」
「その名を……」
「軽く口にするな?」
シックスは小さく笑った。
「昨夜もそう言っていたね。
自分の名前は捨てても、彼女の名前だけは捨てられない」
ルカは奥歯を噛み締める。
怒鳴れば、たぶん少しは楽になった。
だが怒鳴った瞬間、この男の思う壺だと、体のどこかが知っている。
「初めて出会ったものが、最高のものだった」
シックスは続ける。
「だからそれ以外を認めたくない。
それ以外を手にするくらいなら、最初の一度に縛られたまま止まっていたい。
……それは忠誠じゃない」
彼はほんの少しだけ首を傾けた。
「呪縛だ」
路地裏は静かだった。
遠くで、どこかの店の仕込みの音がする。
世界は少しずつ朝の準備を始めているのに、ルカの足元だけがまだ夜の底に沈んでいた。
「お前に、何がわかる」
ようやく絞り出した声は、怒りよりも疲れていた。
「全部はわからない」
シックスはあっさり言う。
「でも、ひとつだけ教えてあげられる」
そして、そこで初めて少しだけ声音を変えた。
柔らかく。
甘く。
人が、もっとも聞きたい形に整えて。
「あの日の戦い。
ずいぶん不自然な噂が残っている」
ルカの目が細くなる。
「……何の話だ」
「知らされていないのかい?」
シックスは驚いたふうに言う。
その驚きが芝居だとわかっていても、ルカの胸は嫌な音を立てた。
「マイスターの調整が少しおかしかった、とか。
出力制御の最終確認が甘かった、とか。
あの時の整備主任は、翌月には別部署へ飛ばされたとかね」
ルカの呼吸が止まる。
「もちろん、ただの噂だ」
シックスは肩をすくめた。
「でも妙だろう?
君ほどの騎士とジルの組み合わせが、あんなふうに崩れるのは」
「……黙れ」
「君だけの責任じゃなかったかもしれない」
その一言は、刃だった。
ルカはずっと、自分の中で同じ場面を繰り返していた。
ジルを喪った瞬間。
届かなかった判断。
間に合わなかった一手。
勝てなかったこと。
守れなかったこと。
そこにはいつも、自分しかいなかった。
だがもし、最初から狂っていたのだとしたら。
もし自分だけが悪かったわけではないのだとしたら。
その可能性は、救いではなかった。
むしろ、もっとたちの悪い毒だった。
なぜ知らされなかった。
誰の責任だ。
本当に自分だけが敗者だったのか。
そういう問いが、一度に胸の奥へ流れ込んでくる。
シックスはそこを逃さない。
「君はずっと、自分を裁いてきた。
でも、その裁判そのものが間違っていたかもしれない」
「証拠は」
「必要かい?」
シックスは微笑む。
「君はもう、疑ってしまった」
ルカの拳が、外套の裾の上から固く握られる。
否定したい。
こんな男の言葉で揺れるのは、あまりに醜い。
だが胸の奥では、もう揺れていた。
シックスはそれを見て、ゆっくりと畳みかける。
「逃げたことを恥じているんだろう?」
ルカは顔を上げる。
「なら、もう一度戦える理由をあげようか」
その言葉に、路地裏の空気が少しだけ変わる。
「君は“最高のファティマを持っていた騎士”として壊れた。
なら次は、その肩書きを捨てて立てばいい」
シックスの声は、朝の来る前の冷たさに妙に馴染んだ。
「ジルが最高だった。
結構。
彼女を忘れなくていい。
忘れられないままで構わない。
でも、彼女の喪失を理由に時間を止めるのは、彼女への忠誠じゃない」
一歩、近づく。
「君が必要なんだ、ルカ・アルノ」
その名を、今度ははっきりと呼ぶ。
「帝国は君を忘れた。
名簿からも零した。
けれど僕は違う。
君がまだ終わっていないことを知っている」
それは承認だった。
最悪の形で差し出された、承認だった。
ルカは、何も言えなかった。
酒場の用心棒。
ヒゲ面。
偽名。
安い寝床。
掃除と喧嘩の仲裁。
自分はもう、そういう場所で終わるはずだった。
終わったことにしていた。
なのにこの男は、終わっていないと言う。
しかもその言葉が、胸のどこかでひどく甘く聞こえてしまう。
その時だった。
町外れのどこかで、間の抜けたような鶏の声がひとつ上がった。
夜明けにはまだ少し早い。
けれど、確かに朝を告げる声だった。
シックスはそこで、わずかに口元を歪める。
「……日付も変わったな」
それだけ言うと、彼はもうルカに答えを求めなかった。
振り向きもせず、路地の奥へ向かって歩いていく。
追わなければ、それで終わり。
追えば、その先へ続く。
ルカはしばらく、その背を見ていた。
だが追わなかった。
追わなかったが、酒場へ戻ることもできなかった。
裏口の向こうには、まだあの店の灯りが残っている。
戻ろうと思えば戻れる距離だった。
たった数歩だ。
たった数歩のはずなのに、足はそちらへ向かなかった。
止まった時間が、ほんの少しだけ動いてしまった。
たぶんもう、それだけで十分だった。
ルカは壁へ背を預ける。
喉がひどく乾いていた。
口の中に残っているのは、昨夜の酒の匂いではない。
もっと古くて、もっと消えない名前の味だ。
「……ジル」
その名を、ひどく久しぶりに自分の口で呼んだ。
「俺は……」
その先は、朝が来ても言葉にならなかった。
中央演算局の薄明かりの中で、レオードは記録板を閉じた。
「そうそう……腕は良いものの、引退して永らく消息不明だった騎士。
ですが、ようやく居場所が掴めました」
報告を受けたボスヤスフォートは、短く問う。
「どこだ」
「帝都外縁、旧街道沿いの町外れ。
ショットバーの用心棒として潜っていたようです」
「……いた、か」
レオードはわずかに目を伏せる。
「はい。
ただ、確認に時間を要しました。
同姓同名の痕跡が複数あり、偽名も用いていたため――」
「車を回せ」
ボスヤスフォートは言った。
「言い訳は現地で聞く」
「は」
夜が明け切る前に、首相府の車列は町外れへ向かった。
ショットバーはまだ開いていない。
薄汚れた看板、安い木の扉、時代から取り残されたような外観。
まるで、そこだけ時間が止まっていたみたいな場所だった。
ボスヤスフォートが店へ入ると、店主はひどく顔色を変えた。
相手が誰かまではわからずとも、ただ者ではないことだけは本能で理解したらしい。
「バーの用心棒はどこだ」
挨拶もなく問われ、店主は口をぱくぱくと動かす。
「ア、アリノ……ですか?」
「本名で呼べ」
その一言で、店主は観念したように肩を落とす。
「……あいつなら、もう」
「どこへ行った」
「さ、さあ……」
店主は視線を泳がせた。
「ついさっき、他店に引き抜かれまして」
沈黙。
それだけで十分だった。
黒髪の女。
数人の連れ。
昨夜の騒ぎ。
そして朝前の失踪。
わざわざ繋げて考えるまでもない。
ボスヤスフォートは、それ以上問い詰めなかった。
問い詰めても、もうここには残り滓しかない。
「……レオード」
通信端末の向こうで、中央演算局の青年が息を呑む。
「はい」
「次からは、掴んだ時点で報告しろ」
「……は」
「確証が揃うのを待つな。
病原体は、確証が揃う前に食う」
「申し訳ありません」
ボスヤスフォートは応じなかった。
安い酒の匂いが残る店内を一度だけ見回し、踵を返す。
半歩遅れた。
たったそれだけで、人は制度の外から、もう一段外へ滑り落ちる。
店の外に出ると、ようやく朝の光が町を薄く照らし始めていた。
昨日までと同じ朝だ。
だが、同じ朝ではもうない。
ボスヤスフォートは短く命じる。
「追うぞ」
返事だけが重なった。
止まっていた日付(とき)は、もう動き始めている。
問題はそれがどちらの側へ転がるかだった。