ショットバーを出たあとも、安い酒と湿った木の匂いが、しばらくボスヤスフォートの外套に残っていた。
帝都へ戻る車中、誰も口を開かなかった。
御者も、同乗した側近も、中央演算局へ先行連絡を飛ばす通信手も、余計な音を立てることを避けていた。
首相は怒鳴っていない。
不機嫌そうに舌打ちすらしていない。
だが、沈黙がいつもより薄くない。
その沈黙の重さだけで、周囲には充分すぎるほど伝わっていた。
半歩遅れた。
それだけだ。
だが、人を奪われるには充分な遅れだった。
帝都へ入る頃には、東の空がようやく白み始めていた。
それでもボスヤスフォートは首相府へは戻らず、そのまま中央演算局へ向かわせた。
石造りの高塔の中はまだ夜だった。
魔導灯だけが静かに光り、演算盤の上を記録紙が細く走っている。
夜勤の局員たちは、首相の来訪に一様に背筋を強ばらせた。
レオードが奥の区画から現れる。
眠そうな顔ではなかった。
すでに報告の体裁は整えていたらしい。
「首相閣下」
「座るな」
開口一番、ボスヤスフォートはそう言った。
自分も座らない。
レオードも背を伸ばしたまま止まる。
「ルカ・アルノを追う前に、先に掘る」
短い言葉だった。
「追跡より先に、原因を洗え。
あいつをあそこまで零したものが何だったのか、まずそれを持ってこい」
レオードは瞬時に意図を理解した。
中央演算局の青年らしい速さで、視線がいくつかの記録束へ落ちる。
「ジル喪失戦、ですね」
「そうだ」
「戦闘記録、整備記録、出力制御ログ、指揮命令系統、事後人事……全て再照会します」
「噂も拾え」
レオードが一瞬だけ目を上げる。
「噂、ですか」
「噂の段階で報告しろと言ったはずだ。
事実かどうかの判定は後でいい。
まず揺れている箇所を出せ」
「……承知しました」
わずかな沈黙。
それから、レオードは低く言った。
「実は、薄い話なら以前からありました」
側近がわずかに眉をひそめる。
ボスヤスフォートは表情を動かさない。
「続けろ」
「ルカ・アルノとファティマ・ジルの喪失戦については、当時から“崩れ方が妙だ”という技術部局内の声が一部にありました。
ただし、明確な証拠はなく、記録の欠損も散発的で、偶発的な不具合と片づけられていたようです」
「ようです、か」
「当時の資料は整理が甘い。
いえ――」
レオードはそこで言い直した。
「整理が甘かったのではなく、甘く整理された可能性があります」
中央演算局の空気が、わずかに張った。
ボスヤスフォートは短く問う。
「最初からそう報告しなかった理由は」
レオードは目を伏せる。
「確証が薄かったからです」
「だから遅れた」
「はい」
怒鳴り声はない。
それがかえって、局員たちの首筋を冷やした。
ボスヤスフォートは机上の記録板を一枚引き寄せる。
そこに記されているのは、ルカ・アルノ、ジル、MHカデンツァ、戦闘区域、喪失時刻、戦況報告、機体損傷率。
細身高機動型。
回避前提。
ピーキー。
装甲を削り、速度と刺突性能へ振り切った名機。
生半可な整備の乱れが、そのまま死に直結する機体。
「……カデンツァ」
ボスヤスフォートは低く読んだ。
レオードが答える。
「設計者はフォン・ジョー・フミオ。元バッハトマ所属のMHマイトです。
現在は消息不明。記録上は、ルカ喪失戦ののち程なく失踪」
「書き置きは」
「ありません」
「追跡は」
「当時の時点で薄く行われています。
ですが、明確な足取りは掴めず。
結果として、失踪扱いのまま棚上げされました」
「棚上げ、か」
その一語には、軽い侮蔑だけがあった。
ボスヤスフォートは記録板を置く。
「ビスマス・ガレナは起きているな」
「……起きていなければ起こします」
「そうしろ。
私は工房へ行く」
レオードが一礼する。
「こちらはこのまま洗います」
「洗うだけでは足りん。
引っ掛かった者はその場で押さえろ。
事実と偶然の切り分けは、逃がす前にやる」
「は」
そのやり取りを聞いていた局員たちは、自分の背骨が少しずつ冷たくなるのを感じていた。
首相は怒っている。
だがその怒りは、誰かを殴るためのものではなく、誤った位置に置かれた責任を引きずり出すためのものだった。
それが一番怖い。
工房はまだ夜の顔をしていた。
古びた外壁。
補修跡だらけの石造り。
排気塔の低い唸り。
扉を開けた途端に鼻を刺す、薬品と金属と長い時間の匂い。
ビスマス公は工房奥の記録室にいた。
外套を羽織ったまま、古い調整記録を机に広げている。
首相の姿を見ても、大して驚かなかった。
「また来たのですか」
「来る」
ボスヤスフォートは短く答える。
「ルカ・アルノの喪失戦について話を聞く」
ビスマス公は、そこで初めて目を細めた。
そして椅子にもたれ直し、鼻から長く息を吐く。
「今さらですな」
「今さらでも掘る」
「遅い」
「承知している」
その返しに、ビスマス公はわずかに口元を歪めた。
皮肉を言う相手が、本当にそれを自覚している時の、少しやりにくい顔だった。
「……座りますか」
「立ったままでいい」
「こちらは老骨なので、勝手に座っていますよ」
「好きにしろ」
ビスマス公は記録板を一枚取り出した。
古い紙だ。
今の整った記録様式より、もっと手書きが多く、癖が残っている。
「ジル喪失戦のあと、ルカは生き残りました。
全身に少なからぬ損傷を負い、三日ほど昏睡。
目覚めて最初にしたことは、自分の状態を聞くことではなかった」
ボスヤスフォートは黙って聞く。
「私に会わせろ、と言ったのです」
「お前に?」
「ええ」
ビスマス公の目が、少しだけ昔を見る色になった。
「見舞いに行きました。
寝台に横たわったままの若い騎士が、こちらを見て最初に言ったことが」
そこで一拍置く。
「……“自分の未熟ゆえに、あなたの娘を死なせてしまった”でした」
記録室の空気が、一瞬だけ重くなった。
ボスヤスフォートの表情は変わらない。
だが、眼だけがわずかに細くなる。
「そう言ったか」
「ええ」
ビスマス公は淡々としていた。
その淡々さがかえって重い。
「“娘”という言い方をしたのは、あいつなりの誠意だったのでしょう。
ファティマを単なる兵器としては見ていなかった。
だからこそ、自分の敗北を“ジルを喪った”ではなく、“私の娘を死なせた”と表現した」
「お前はどう返した」
「返していません」
ビスマス公は即答した。
「いえ、正確には――最初から受け取っていない」
そこで初めて、ボスヤスフォートが短く問う。
「なぜだ」
ビスマス公は古い紙束を撫でながら言う。
「ルカが弱かったとは思わなかったからです」
沈黙。
「未熟だったとも思わなかった。
若さゆえの甘さはあった。
だが、ジルとカデンツァの組み合わせが、あれほど凡庸な崩れ方をするはずがない」
その一言には、マイトとしての矜持が入っていた。
「ジルは完璧ではありません。
カデンツァもまた、危うさを抱えた美しい機体だった。
だが、だからこそ崩れ方には“型”がある。
あの日の崩れは、その型から外れていた」
「だから、疑ったか」
「ええ」
ビスマス公は記録板を閉じる。
「戦の直後、私はジョー・フミオのところへ行きました」
ボスヤスフォートが視線を上げる。
「カデンツァの設計者本人か」
「そうです。
あの男が、機体の癖を一番知っていた」
「何を聞いた」
「“何を仕込んだ”、と」
直截だった。
それだけに、本気の問いだったのだと伝わる。
「ジョーは、MHカデンツァのことを昔からかなり気に入っておりました」
ビスマス公の声音がわずかに乾く。
「それこそ、まるで自分の娘のことのように語っていたよ。
……同じマイトとして、その気持ちはよく分かる」
そこだけ、ほんの少しだけ感情が混じった。
「会った時のジョーは、妙に静かでした。
怒りもせず、弁明もせず、ただ“そんなはずはない”と何度も繰り返した。
あれは、自分の設計が否定された技術者の顔にも見えたし、
何かを知っていて口にしない男の顔にも見えた」
「どちらだったと思う」
「今でも断定はしません」
ビスマス公は首を振る。
「できるだけの材料がありません。
ただ一つ言えるのは、私が会いに行った直後、ジョー・フミオは失踪した」
「書き置きは無し」
「もちろん」
「逃げた理由も不明」
「ええ」
ボスヤスフォートは黙ったまま、窓もない記録室の薄明かりを見た。
ここまで来ると、事実は足りている。
真実はまだ足りない。
だが、責任の所在が“ルカ一人の胸の内にだけある”という形は、もう維持できない。
「整備記録は残っているか」
「部分的には」
ビスマス公は別の束を差し出す。
「最終調整ログの一部に欠落があります。
些細なものに見えるでしょうが、カデンツァのような機体にとっては、些細で済まない」
ボスヤスフォートは目を走らせる。
出力補正。
左右差補正。
姿勢制御微調整。
関節追従遅延。
どれも、重装甲機なら多少の乱れでも吸収できる。
だがカデンツァは違う。
回避前提。
半拍の遅れが死に繋がる。
「記録の消し方が雑だな」
「消した者は、おそらく“これくらいなら偶発誤差で押し切れる”と思ったのでしょう」
「「だが、押し切れなかった」」
重なった二人の声は静かだった。
ビスマス公は続ける。
「私は当時、ジョーを疑った。
同時に、整備現場も疑った。
だが、疑っただけです。
証明する前に、若い騎士の方が先に壊れた」
その一言が重かった。
ルカはあの日、ただジルを喪ったのではない。
喪失の責任を、帝国の誰も切り分けないまま、そのまま一人で抱え込まされた。
そして時間を止めた。
それが真実だとしたら、責任の所在は一つではない。
「……なるほどな」
ボスヤスフォートは低く言う。
「ようやく理解したか」
「遅いがな」
「遅い」
ビスマス公はため息のように言った。
「だが、今からでも遅すぎるとまでは言いません。
少なくとも“あれはルカ個人の敗北だった”という処理が、最初から雑だったことだけは認めるべきだ」
「認める」
ボスヤスフォートは即答した。
「ルカ・アルノが弱かったのではない。
敗北を、あいつ一人の責として処理したこちらが雑だった」
その断定に、ビスマス公の目がわずかに細まる。
評価したのか、警戒したのか、その両方か。
そこへ、通信端末が短く鳴った。
レオードからだった。
「出ろ」
『中央演算局より。
当時の最終整備責任者、戦後一月で地方保全局へ異動。
異動理由は書類上“通常配置換え”。
ただし補正ログの欠落が出た時刻帯に、その責任者の署名だけが不自然に二重登録されています』
「戦術指揮系統は」
『現場判断の逸脱あり。
本来は迂回すべき地形を、前進継続命令が上から出ています。
その命令者は後日昇進』
ビスマス公が鼻で笑った。
乾いた、嫌な笑いだった。
『さらに、整備班の下位マイスター一名が当時、内部で異議を出しています。
記録には残りませんでしたが、私的書簡の下書きが発見されました。
“カデンツァの最終チェックはやり直すべきだった”とあります』
「生きているか、そのマイスターは」
『はい。現在も帝都内です』
「確保しろ」
『すでに』
レオードの返答は早かった。
『……薄い段階で報告しなかったこと、改めてお詫びします』
「詫びはいい」
ボスヤスフォートは冷たく言う。
「次から、止めろ。
病原体は、こういう“薄さ”のうちに食う」
『は』
通信が切れる。
記録室には、古い紙の匂いと機関の微かな唸りだけが残った。
ボスヤスフォートは机上の資料を見下ろし、しばらく何も言わなかった。
やがて、静かに告げる。
「責任の所在は、個人の胸の中にだけ置いておくものではない」
ビスマス公は答えない。
「国家に瑕疵があるなら、国家の側で引き取る」
今度ははっきりと、ビスマス公が笑った。
皮肉ではない。
だが愉快でもない。
ようやく言うべき言葉が出たのを確認した技術者の笑いだった。
「立派に君主してますな」
「今さら褒めるな」
「褒めてはいない」
「知っている」
その短いやり取りのあとで、ボスヤスフォートは踵を返しかけ――止まった。
「ビスマス」
「何です」
「同型の傷を持つ者を、帝国側で先に拾う」
ビスマス公が目を細める。
「……ほう」
「ファティマ喪失歴あり。接続断絶後に役職を辞した者。
未契約のまま年齢だけ重ねた騎士。
家勢と接続の両方を失いかけている者。
功績はあるのに、前線を降りたダイバー」
一つ一つ、噛み砕くように言う。
「そういう者を抽出し、先行保護する。
再接続、再配置、再教育。
慰めではなく、制度として拾う」
ビスマス公はゆっくりと椅子にもたれた。
「ようやく、その段階まで来たか」
「ルカ一人の問題ではなかったからな」
「当然です。
零れたのが一人だけであるはずがない」
「だから洗う」
ボスヤスフォートの声は低い。
「次のルカを出す前に、先に拾う」
工房を出る時、朝の光はもう充分に差していた。
帰路の車中で、ボスヤスフォートは再び中央演算局へ通信を開かせた。
今度はレオードだけでなく、複数の部署長が繋がっている。
「全局通達だ」
短く前置きして、彼は告げた。
「ジル喪失戦は、ルカ・アルノ個人の敗北として処理するには不適当である可能性が高い。
整備、指揮、記録管理、各部に再調査を命じる。
異常の黙殺、瑕疵の個人転嫁、責任の先送りは許さん」
誰も口を挟まない。
「さらに、同型の傷を持つ人材を洗え。
名簿の外へ零れかけた者も含めてだ。
こちらの制度の綻びが、病原体の餌になる。
それを知った以上、放置は怠慢だ」
一拍置く。
「次からは、傷を負わせたあとに治療するのでは遅い。
傷になる前に拾え」
通信越しの沈黙は長かった。
だが、その沈黙の向こうで、それぞれが何を命じられたかだけは理解していた。
車窓の外、帝都はもう完全に朝だった。
昨日と同じように、人も物も動き始めている。
だが、昨日までと同じ帝国ではいられない。
止まった時間が動き始めたのなら、
その動きをどちらの側で受け止めるかは、もう放っておけない。
ボスヤスフォートは目を閉じた。
ルカ・アルノ。
ジル。
カデンツァ。
失踪したジョー・フミオ。
薄い噂。
遅れた報告。
そして、傷の責任を一人に背負わせたまま見送った国家。
全部、遅い。
だが、遅さを自覚した者だけが次の手を打てる。
「……まだ間に合う」
誰に向けるでもなく、そう呟く。
それは希望ではない。
断定でもない。
ただ、遅れた君主が、なお手を止めないと自分に言い聞かせるための声だった。
そして帝国のどこかでは、まだ名簿の外にいる誰かが、自分の傷を一人で抱えたまま朝を迎えている。
その前に拾えるか。
それともまた、半歩遅れるか。
次の勝負は、そこにあった。