山の夜は、帝都の夜より暗い。
灯りが少ないからではない。
光の外にある闇そのものが、最初から深くて厚いのだ。
風の匂いも、土も、木々の影も、全部が人の営みよりひとつ古い顔をしている。
その闇の中で、山間の大型農業施設は、いかにも無害な顔をしていた。
整然と並ぶ温室棟。
水路。
土壌改良塔。
夜間保守用の搬入口。
山裾に沿うように続く細い作業道。
どこから見ても、地方の実験農場でしかない。
そう見せるために作られているのだから当然だった。
だが、黒髪の女は最初から畑など見ていなかった。
「……ふうん」
巴は、遠眼鏡代わりの簡易観測器を片手に、温室群の配置と人員の動きを眺めていた。
風を受ける横顔は静かで、物見遊山のようにも見える。
だが、その目は最初から獲物を解体する順番を考えている者のそれだった。
背後には四人。
騎士が二人、ダイバーが一人、実働が一人。
いずれも“新しい血族”の中でも、隠密と急襲に向いた手合いだ。
「どうです、姐さん」
一人が低く問う。
「畑にしちゃ、警備が妙ね」
巴は笑った。
「畑にしては人の出入りが偏ってる。
荷の搬入は少ないのに、地下側の魔導流だけが妙に太い。
あとは――」
観測器を少し下げ、施設の外れを指先で示す。
「ついさっき、中央の連中が来てた」
ダイバーが眉をひそめる。
「中央?」
「ええ。
暁星機動団の次官と、片眼鏡の弟君」
「ユリウス・ハルトマンか」
「そう」
巴は軽く頷く。
「それだけで、ただの畑じゃないのは確定。
しかも、あの二人がわざわざ直接来るってことは――」
観測器の向こう、施設の地下区画へ続く搬入口に視線を留める。
「中に、人か物か、どっちにしろ“先に拾いたい何か”がある」
血族の騎士が肩を鳴らした。
「だったら今夜だな」
「慌てない」
巴は風の向きまで確かめるように空を見上げた。
山の夜気は湿り気を帯びている。
少し遅れれば、谷の方から霧も出るだろう。
視界を喰うにはちょうどいい。
「先に嗅ぎつけたのは向こうかもしれない。
でも、嗅ぎつけたあとに守りきれるかは別の話」
そう言って、小型通信端末を起こす。
数呼吸のあと、回線が繋がった。
「私です」
相手の声はすぐには返らない。
だが、沈黙の向こうに、あの薄い笑みがあることだけはわかる。
「山間の偽装施設。
表向きは農業試験棟。
中身は違う。
たぶん地下に何か埋まってる。
しかも、中央の人間がさっき来てたわ」
端末越しに、シックスが小さく笑った気配がした。
『へえ』
巴も笑う。
「面白そうなオモチャを隠し持ってるじゃないか、って顔してるでしょ、今」
『よくわかってる』
その返答は柔らかかった。
『人は?』
「いる。
若いダイバー。
片眼鏡。
研究職。
中央から外された匂いがする。
しかも弟が中央側にいる。
かなりいい玩具よ」
短い沈黙。
『じゃあ、もらおうか』
あまりにも軽い。
軽いまま、決定だけが下る。
『白い子を出す。
ちょうど慣らしにもなる』
巴の唇が少しだけ楽しげに歪んだ。
「了解」
『巴』
「何?」
『中央の二人は?』
「施設を出たわ。
でも、ああいう手合いは勘がいい。
戻るかもしれない」
『それならそれで面白い』
シックスの声には、最初から損得以上のものが混じっていた。
傷が、傷に手を伸ばす。
その瞬間を見るのが好きなのだ。
『動くなら、今夜のうちだ』
通信が切れる。
巴は端末を閉じ、振り返った。
「聞いた通り。
深追いはいらない。
目的は施設の破壊じゃない。
中身を奪うこと」
血族の騎士が笑う。
「いつものやつだな」
「ええ」
巴はもう一度だけ施設を見た。
のどかな農業施設。
静かな山間。
地下に眠る超帝国の遺産。
中央が先に拾おうとした若いダイバー。
そして、その全部を包んでいる、夜。
「隠し持つのは結構。
でも、隠したまま守りきれるかは別」
その声はほとんど風に溶けた。
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施設を出たあとも、ユリウスはしばらく黙っていた。
山道を下る車中、窓の外には温室群の灯りが薄く残っている。
クラヴィスは助手席で腕を組み、表情を動かさない。
だが、彼もまた何かを考えている沈黙だった。
やがてクラヴィスが言う。
「どうした」
ユリウスは視線を上げない。
「……嫌な感じがします」
「予知か」
「そこまで明確ではありません」
片眼鏡の奥で目が少しだけ細くなる。
「ただ、このまま帰るのは良くない気がする」
クラヴィスは即答しなかった。
「なら戻るか」
「いえ」
ユリウスは小さく首を振る。
「任務自体は果たしました。
兄上に接触できた。
一晩の猶予も得た。
根拠としては弱いです」
「お前にしては曖昧だな」
「パラ・サイマルは、いつも明快な形では来ません」
それは苛立ちではなく、説明だった。
理知的な人間ほど、こういう“不明瞭な予感”を嫌う。
クラヴィスは窓の外を見た。
施設はもう少しで視界から消える。
その時だった。
山肌の中腹。
外周フェンスから少し離れた斜面。
そこに、黒い人影が立っていた気がした。
長い髪。
風に揺れる輪郭。
顔までは見えない。
だが、立ち方だけでわかるものがある。
場を撫でるように立つ。
警戒も、恐れも、急ぎもない。
まるでそこが自分の舞台の前縁であるかのような立ち姿。
クラヴィスの目が鋭くなる。
「……止めろ」
車が止まる。
ユリウスが振り向く。
「どうしました」
クラヴィスは外を睨んだまま、低く言う。
「根拠なら今できた」
「何を見たんです」
「見間違いなら、それでいい」
扉を開け、夜気の中へ降りる。
「だが、ああいう女は“まだ”で来る。
来てからでは遅い」
ユリウスの顔色がわずかに変わる。
「まさか――」
「戻るぞ」
言い終わるより早く、クラヴィスはもう施設の方へ駆けていた。
ユリウスも続く。
山の風が急に冷たくなる。
谷の方から、白いものがじわじわと上がってくる。
霧だ。
嫌な夜の気配が、いよいよ形を取り始めていた。
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地下区画では、シオンがまだ机に向かっていた。
クラヴィスたちが去ったあと、資料を閉じるつもりだった。
一晩くれ、と自分で言ったのだ。
考えるべきことは多い。
中央はまだ自分を見ている。
今さら。
だが、来た。
弟も来た。
そしてクラヴィス・ヴェルナーという、厄介なほど相手の立場がわかる男まで寄越してきた。
不快だ。
だが、完全に無視できるほどでもない。
机上には超帝国文字の断片資料が並ぶ。
復元途中の演算式。
用途不明の魔導配列。
そして、現時点でシオン自身にも全貌を明かされていない、失われた力の痕跡。
ルシェミ。
物質変性。
今の星団では、ほぼ伝説のようにしか語られない名。
だが、この地下に眠る遺跡は、その伝説がただの伝説ではないことを示唆していた。
「……肝心なところだけ隠す」
シオンは独り言のように言った。
重要だと言う。
必要だと言う。
だが何に繋がるかは教えない。
これでは信用より先に、利用されている感覚ばかりが濃くなる。
その時、施設全体が一瞬だけ震えた。
シオンの片眼鏡がかすかに揺れる。
次いで、遅れて警報が鳴り響いた。
赤灯。
金属音。
地上区画からの緊急回線が乱れた声で状況を叫んでいる。
『外周温室群、被弾!
繰り返す、外周温室群――』
通信がノイズで千切れる。
シオンは立ち上がった。
その瞬間、地下区画の隔壁の向こうから、重い衝撃が二度、三度と続けて響いた。
ただの砲撃ではない。
切断と破砕を同時にやる、異様に鋭い衝撃。
「……まさか」
地上へ向かおうとした、その時だった。
入口の方から二つの足音が駆け込んでくる。
クラヴィス。
ユリウス。
「兄上!」
ユリウスの声に、シオンの目がはっきりと見開いた。
「戻ったのか」
「答えはあとです!」
「外が襲われている」
クラヴィスが短く言う。
その声には、もう迷いがない。
「狙いはこの施設だ。
たぶんお前も含む」
シオンの眉が寄る。
「私?」
「そうだ。
今夜から、そういう人間になった」
地上区画へ上がる途中、施設全体がまた揺れる。
温室のガラスが砕ける音。
上層の防壁が裂かれる音。
そして、その合間に混じる、機体音。
ユリウスが足を止めた。
「この駆動音……」
風のように軽い。
だが軽いだけではない。
高出力機特有の、内側で無理をしているような、ひどく嫌な震えが混じっている。
三人が地上へ出た時、夜はもう霧に喰われ始めていた。
温室群の一角が、無惨に裂けている。
鉄骨。
ガラス。
農業施設の偽装が、綺麗に剥かれていた。
その向こう、霧の中を白い巨大な機影が走る。
細い。
細いのに、速い。
背に広がる六枚のバインダーが、霧を裂くたび一瞬だけ翼に見えた。
白銀の機体。
天使じみた外見。
だがその動きは、祈るためではなく奪うためのものだった。
施設防衛用のパワードスーツが一機、横から迎撃に入る。
白い機影は真正面から受けない。
霧とガラス片をまといながら、横へ、斜めへ、上へと流れ、その死角から一瞬だけ実剣が閃く。
防衛機の膝関節が裂け、機体がその場で崩れた。
「……あのMHは」
ユリウスの声が、珍しく一拍遅れた。
「まさか、カデンツァ……?」
だが次の瞬間、自分で首を振る。
「……違う。
似ているだけだ。
だが、あれは――」
クラヴィスも目を細める。
確かに似ている。
細身。
高機動。
受けずに躱して刺す、あまりにも鋭すぎる戦い方。
だが、あれはカデンツァではない。
もっと新しく、もっと白く、そしてもっと嫌な匂いがする。
施設の反対側から、巴の声が飛んだ。
「シオン・ハルトマン確保!
地下搬送路を押さえて!」
クラヴィスが舌打ちする。
「やはりお前か」
斜面の影から姿を現した巴は、まるで今夜の夜気そのものみたいに軽く笑った。
「見間違いじゃなくてよかった」
「挨拶してる暇はない。
下がれ」
「下がるのはそっちでしょう?」
巴の後ろにいた血族の騎士たちが動く。
その足取りには、施設破壊より“時間稼ぎ”の色が濃い。
目的は殲滅ではない。
クラヴィスは一瞬で理解する。
「攫う気か」
「だって、欲しいんだもの」
巴はあまりにも自然に答えた。
「重要だって隠してる時点で、こっちも欲しくなるじゃない?」
クラヴィスが前へ出る。
「お前たちが欲しがる時点で、余計に渡せん」
「そうね」
巴は楽しそうに笑う。
「でも、その判断がもう少し早ければ、もっと綺麗に守れたかもね」
挑発だ。
だが同時に事実でもある。
クラヴィスの顔色は変わらない。
変わらないが、剣を抜く手だけが静かに冷えていく。
その一方で、白い機体は霧の中をさらに奥へ食い込んでいた。
シオンの護衛が二人、地下搬送路の入口を塞ぐ。
アグヌスは正面からは来ない。
温室の骨組みを蹴り、斜め上から一気に降りる。
六枚翼が開くたび、霧が何層にも裂け、残像じみた白の線が複数見える。
「パラレル――」
ユリウスが言いかけた瞬間、護衛の一人が吹き飛んだ。
「兄上、下がって!」
ユリウスが叫ぶ。
シオンは片眼鏡の奥で目を見開いたまま、白い機体を見ていた。
美しい。
だが、ひどく危険だ。
しかもその危険さが、どこか“作られた美しさ”に見える。
綺麗に壊れるための設計。
そんな嫌な発想が、一目で伝わってくる。
アグヌスの胸部から首筋、肩の付け根へ、細い赤い光がじわりと浮かぶ。
最初は錯覚かと思うほど薄い。
だが一撃、二撃と重ねるたび、その筋は血管のように装甲の継ぎ目を走り始めた。
ユリウスが低く息を呑む。
「出力を上げている……?」
クラヴィスは巴の前から一瞬だけ視線を横へ流した。
白銀の機体。
六枚羽。
細身の刃。
そして、どこかで見たはずの戦い方の残り香。
「……まさか」
口にはしない。
まだ確証はない。
だが、嫌な予感だけは十分すぎる。
血族の騎士を弾き、クラヴィスがシオンの方へ割って入ろうとした瞬間、巴がするりと前へ出た。
「行かせないわ」
「そこをどけ」
「嫌」
二人の間に火花が散る。
巴は本気で勝ちに来ているわけではない。
止めるために足りるだけの邪魔を、最小限でやっている。
その間に、アグヌスが地下搬送路の入口へ降りる。
白い機体が、シオンのすぐ目の前まで来た。
近くで見ると、その装甲はひどく清廉だった。
戦場の泥も煤も拒むような白銀。
だが、その下ではもう赤い脈が走り始めている。
シオンの喉が鳴る。
「……これを、寄越してきたのか」
誰に向けた言葉でもない。
帝国か。
血族か。
あるいは、自分を“重要”と呼ぶすべての側へか。
アグヌスは答えない。
答えないまま、腕部がわずかに動く。
その時、敵側通信が割り込んだ。
『対象確保、以上!!
深追いはするな、撤退だ。
アグヌスはまだテスト運用だしな!』
その名前が、夜に落ちる。
アグヌス。
ユリウスの目が細くなる。
「アグヌス……!」
記録にない。
中央の機体名簿にもない。
だが、今ここで白銀の翼を広げ、研究施設の偽装を引き剥がしている。
護衛が最後の一線を張るが、アグヌスは長居しない。
目的は戦闘ではない。
奪取だけ。
血族の実働班が流れるようにシオンの周囲へ滑り込み、拘束器具を打ち込む。
ユリウスが駆け寄るが間に合わない。
「兄上!」
シオンが一瞬だけこちらを見る。
その目には恐怖より先に、理解があった。
自分が今、何か大きなものの争奪物になったのだという理解だ。
クラヴィスが巴を弾き、無理やり間合いを抜こうとする。
だが巴は下がりながら笑う。
「惜しい」
「ふざけるな!」
「説得は、間に合ったのかもしれない」
巴の声だけが妙に優しかった。
「でも、残念。
私たち、テロリストなのよ」
その言葉の直後、アグヌスの六枚羽が一斉に開く。
霧が裂ける。
白銀が跳ぶ。
血族の実働がシオンを抱え、温室群の破口から外へ離脱する。
クラヴィスが追う。
ユリウスも続く。
だが、視界はもう霧とガラス片と白い残像に裂かれている。
アグヌスが最後に一度だけ振り向いた気がした。
顔は見えない。
騎体しか見えない。
なのに、その立ち方だけが、妙に嫌な既視感を残す。
「……誰だ」
クラヴィスの呟きは、もう相手には届かない。
白い機体は六枚羽を閉じるように畳み、そのまま夜の山肌へ溶けていった。
残されたのは、裂けた温室と、赤い警報灯と、偽装を剥がされた施設のむき出しの骨組みだけだった。
ユリウスは息を切らせたまま、霧の消えた方角を睨んでいる。
「兄上を……」
「奪われたな」
クラヴィスの声は低い。
怒りより先に、事実を呑み込んだ声だった。
巴たちの影も、もう見えない。
夜は静かだ。
静かなまま、ひどいことだけが済んでいる。
ユリウスは片眼鏡を外し、強く握った。
「……間に合わなかった」
「まだ終わってない」
クラヴィスは目を細める。
「だが、先に拾うつもりだった手を、向こうも見ていた」
その一言に、ユリウスは歯を食いしばる。
ボスヤスフォートは正しかった。
先に拾うべきだった。
だが、相手もまたこちらの動きを見て、匂いを嗅ぎ、先回りしてきた。
夜の山間に、まだガラスの砕ける音が落ち続けている。
隠し持っていたものは、こうして暴かれる。
研究施設も。
シオンも。
そして、白い機体の奥に隠されていた“何か”も。
だが今夜は、まだ名前だけだ。
アグヌス。
その白い名だけが、霧の向こうにひどく不吉に残った。