帰還したMHアグヌスは、まだ白かった。
夜戦用格納庫の天井灯を浴びて、六枚の背部バインダーがゆっくりと畳まれていく。
霧とガラス片を切り裂いて戻ってきたはずなのに、その白銀の装甲は、まるで最初から血も泥も寄せつけぬつもりで作られたみたいに清潔だった。
だが近くで見ればわかる。
胸部から首筋、肩の付け根、腕の内側へかけて、赤い脈のような細い光がまだ消えきっていない。
長引けばあれがもっと濃くなる。
そういう機体だった。
コクピットが開き、先に降りてきたのはカメオだった。
白い手すりへ片手を添え、優雅ですらある所作で着地する。
顔色は平静に見える。
だが、よく見れば唇の色だけがいつもより少し薄い。
続いてルカが降りる。
まだ戦闘の熱が体に残っているのか、ブーツの踵が床へ触れた瞬間、わずかに肩を鳴らした。
そこへ、整備スタッフたちが一斉に寄ってきた。
「おつかれ。初陣どうだった?」
最初に声をかけたのは、機体評価担当らしい若いマイスターだった。
手には記録板と筆記具。
戦闘後の簡易チェックシートだろう。
MHアグヌスがまだ正式運用前、テスト段階の機体であることがそれだけで伝わる。
別の整備士が、もう半ば興奮した顔でバインダー基部を見上げている。
「負荷上昇時の応答、予定より良いな……いや、良すぎるか?」
「良すぎるのは困るわね」
カメオが先に記録板を受け取った。
振り返りもせず、肩越しにアグヌスを見やる。
「素直ないい子よ。
ただ、少し熱くなりやすいわ。
カーッとなったら、手がつけられなくなりそう」
軽い口調だった。
まるで新しく預かった気難しい子どもの感想でも言うように。
ルカはまだ機体を見上げたまま、低く言う。
「だが、未調整と言っていたわりには……俺との相性は悪くなさそうだ」
それは、思わず口をついて出た本音だった。
速い。
軽い。
踏み込みに迷いがない。
まるで最初から自分の癖を知っていたみたいに、アグヌスは刃の入り方を許してきた。
それが少し、怖いほどに。
「そりゃそうさ」
背後から、柔らかな声がした。
ルカの顔から、一瞬で血の気が引いた。
「なんせ、あの名工 フォン・ジョー・フミオの最新作だからね」
振り向くより先に、その声音だけでわかる。
シックスだ。
いつの間にか、数歩後ろに立っていた。
相変わらず整った顔。
相変わらず穏やかな笑み。
そのくせ、人の気が緩む隙間へ入り込むことだけは、どうしようもなく上手い。
ルカはゆっくりと振り返った。
指先から、受け取ったばかりの筆記具が床へ落ちる。
乾いた小さな音が、格納庫ではやけに大きく響いた。
「おや?」
シックスは楽しそうに首を傾げる。
「気づかなかったのかい?
私からの贈り物に。
……気が利いてるだろう?」
ルカの喉が鳴った。
フォン・ジョー・フミオ。
MHカデンツァの設計者。
ジルと共に乗った、あの細身の美しい機体を組み上げた男。
そして、あの敗北のあと姿を消した男。
その名が、いま目の前の白い機体の上へ重なる。
MHアグヌスは新しい機体ではなかった。
過去を知った上で、あえてそこへ寄せて作られた機体だった。
救いではない。
焼き直しだ。
しかも、より悪趣味な形へ変質した。
シックスはルカの沈黙を見て、満足そうに目を細める。
「安心するといい。
今度の騎体も、君の癖はちゃんと知ってる設計者が組んである。
過去の成功も失敗も、無駄にはしていない」
その言い方は、優しかった。
優しいだけに、ひどく残酷だった。
ルカは何も返せない。
カメオは少し離れた位置から、そのやり取りを黙って見ていた。
笑っているようにも、笑っていないようにも見える。
ただ、青ざめたルカの横顔も、シックスの薄い愉悦も、どちらも理解している顔だった。
「……ずいぶん、気が利くこと」
ようやく、カメオが静かに言った。
それが皮肉なのか、感心なのか、ルカには判断がつかなかった。
判断したくもなかった。
シックスは軽く肩をすくめる。
「主と騎体の相性は大事だからね。
もちろん、主従も」
その一語が、格納庫の空気をわずかに変えた。
ルカは思わずカメオを見る。
カメオは目を逸らさない。
だが、そこにあるのは寄り添いではなく、もっと静かな種類の共犯意識だった。
彼女もまた、この白い機体と同じく、最初から自分のために用意されたものではないのかもしれない。
そう考えた瞬間、ルカの胸の奥で、何かがひどく嫌な音を立てた。
シックスはもう次の話へ移っていた。
「今回は上出来だ。
研究施設の偽装も、地下の匂いも、中央の動きも、全部見えた。
あとは奪ったものをどう使うかだ」
そう言って、視線だけを奥の隔壁へ滑らせる。
その向こうに、シオン・ハルトマンが運ばれているのだろう。
「君にも、次の仕事がある」
ルカは答えない。
答えないまま、足元へ落ちた筆記具を拾い上げた。
指先が、自分でもわかるほど冷えていた。
シックスはそれ以上追わない。
追わなくても、いま何が起きたかは十分すぎるほど伝わっているからだ。
「ゆっくり馴染めばいいよ」
最後にそう言って、彼は踵を返した。
まるで本当に、贈り物を喜ばせたつもりでいるみたいに軽い足取りで。
残されたルカは、白銀のMHアグヌスを見上げる。
速かった。
よく動いた。
自分に噛み合った。
それは事実だ。
だからこそ、余計に気持ちが悪い。
昔の成功も失敗も、何もかも知った上で、もう一度そこへ自分を乗せている。
それがどんな悪意か、理解してしまったからだ。
「……最悪だ」
誰へ向けた言葉でもなく、ルカはそう呟いた。
カメオは聞こえないふりをした。
_______________________________________
首相府の招集は、夜が明けきる前に出た。
ゼルク・ツァイスが呼ばれた時、
彼はまだMHラクリモーサの整備区画にいた。
工房から運び込まれた調整記録を前に、ノクターンと共に機体の復旧状況を確認していたところだ。
急使の足音が廊下を走る。
「首相閣下より、至急」
紙片を見た時点で、ゼルクの表情がわずかに硬くなる。
緊急招集。
対象は自分とノクターン。
場所は首相府、地下作戦室。
ノクターンは何も問わなかった。
ただ静かに立ち上がり、黒髪を払う。
「行きましょう」
その一言に、ゼルクは短く頷いた。
地下作戦室には、すでに何人かの顔が揃っていた。
ボスヤスフォート。
レオード。
クラヴィス。
ユリウス。
ビスマス公。
コバルト。
研究施設襲撃からほとんど時間は経っていないはずだが、空気はもう“事後”のものではなかった。
誰もがすでに次を見ている。
卓上には、施設外縁の地図、警戒網の破損状況、敵機動の推定軌跡、霧の流れまで書き込まれた戦術板が並ぶ。
ボスヤスフォートが最初に言った。
「郊外研究施設襲撃犯を追う」
ゼルクは一歩進み、低く頭を下げる。
「……何が起きた」
「研究施設が襲われた」
クラヴィスが代わりに答えた。
その声音は悔しさを押し殺している。
「目的は殲滅ではない。
シオン・ハルトマンの奪取だ。
血族の工作班が事前に施設情報を掴み、白い高機動MHが強襲した」
「白い機体?」
ユリウスが、ほとんど反射で口を開く。
「敵側通信で機体名が漏れました。
敵のMHの名は“アグヌス”」
その名に、ゼルクはわずかに眉を寄せた。
レオードが記録板をめくる。
「白銀の細身機。
背部バインダー六枚。
高機動。
短期強襲型。
施設防衛機を回避主体で無力化。
パラレルアタックに類する残像機動を確認。
追撃より、奪取と離脱に最適化された動きです」
ビスマス公が低く付け加える。
「美しいが、嫌な機体です。
しかもまだテスト運用段階らしい」
コバルトの目が細くなる。
「長引けば、ファティマ側に無理が出る設計かもしれない」
ボスヤスフォートはそこで、ゼルクを見る。
「追跡と拿捕だ」
それだけだった。
だが重い。
「相手は速い。
奪って逃げる。
だから同じだけ速くある必要はない。
止めることのできる本物の騎士が要る」
ゼルクは地図を見下ろした。
山間の研究施設。
霧。
高機動の白い機体。
そして、まだ整いきっていない自分とノクターン。
「……まだ俺には」
その言葉は、言い訳というより確認だった。
「ラクリモーサも万全ではない。
接続も、完全とは言えん。
そんな状態で――」
「それでも行け」
ボスヤスフォートの声は低い。
「今、追える札が要る。
向こうが奪って逃げるなら、こちらも追う側に立たねばならん」
ゼルクは黙る。
理屈はわかる。
だが、わかることと踏み出せることは別だ。
その沈黙の中で、ノクターンが一歩前へ出た。
誰も彼女の方を見ていなかった。
だからこそ、その声は静かに、しかしはっきりと室内を変えた。
「行きましょう。マスター」
空気が止まった。
レオードが記録板から顔を上げる。
コバルトの目が見開く。
クラヴィスですら一瞬、言葉を失った。
ユリウスは兄を奪われたばかりの顔のまま、その一語だけに反応する。
ビスマス公だけが、ほとんど表情を動かさなかった。
だが、眼の奥がほんのわずかにだけ細くなった。
ゼルクは振り返る。
ノクターンはいつもの静けさのまま立っていた。
気負いも、劇的な感情もない。
ただ、自分がどこに立つかを、もう迷っていない者の顔。
「お前……」
「追うのでしょう」
ノクターンは続ける。
「なら、私も行きます。
あなたはもう、立つ側です。
私も、そこに立ちます」
それは告白ではなかった。
宣言ですらない。
もっと静かで、もっと動かしがたい認定だった。
ゼルクの中で、何かが一つ音を立てる。
“まだ俺には”
そう言いかけた自分が、たしかにいた。
だが目の前のファティマは、もうその言い訳を見ていない。
見ているのは、自分がこれから立つ位置だけだ。
ボスヤスフォートは一度だけ、ノクターンを見た。
それからゼルクへ視線を戻す。
「答えは出たようだな」
ゼルクはしばらく黙っていた。
やがて深く息を吐き、頭を上げる。
「……承知した」
その声は、前よりずっと低く、前より少しだけ固かった。
「ラクリモーサを出す。そしてアグヌスを追う」
クラヴィスの口元がわずかに動く。
笑ったわけではない。
だが、ようやく噛み合った歯車を見た時の顔だった。
レオードはすぐに記録板へ追記を走らせる。
ユリウスは短く目を伏せ、兄を奪われた悔しさとは別の何かを飲み込む。
コバルトはノクターンを見ていた。
その視線には驚きと、少しの安堵が混じっている。
ビスマス公が、ようやく口を開いた。
「遅い」
辛辣だった。
だがその一言は、もう否定ではない。
ゼルクがわずかに目を向けると、老マイトは続ける。
「遅いが、遅すぎるほどでもない」
それだけだった。
ノクターンは何も返さない。
ただ静かに、ゼルクの半歩後ろへ位置を変える。
それは自然な所作だった。
自然すぎて、だからこそその場にいた全員に、彼女が本当に“そこ”を選んだことだけが伝わった。
主従。
その言葉は、口にしなくても部屋の中にあった。
シックスと血族。
ルカとカメオ。
そしていま、ゼルクとノクターン。
同じ言葉で括れてしまうのに、中身はまるで違う。
だからこそ、避けられない戦いになる。
ボスヤスフォートは戦術板へ視線を戻し、短く命じた。
「準備を急げ。
向こうはすでに、こちらが追う前提で次を組み始めている」
その声は静かだった。
静かなまま、はっきりしていた。
「ならば追う。
今度はこちらが、取り返す番だ」
地下作戦室の灯りが、地図の上へ白く落ちる。
山間。
研究施設。
逃走経路。
白い機体。
黒い夜。
動き始めた主従は、もう元の位置には戻れない。
そのことだけが、誰の胸にも等しく重かった。