研究施設の夜は、まだ終わっていなかった。
温室群は裂かれ、ガラスは散り、農業施設めいた穏やかな偽装は、見るも無惨に剥がれている。
夜明け前の薄い光が、その破壊だけを妙に生々しく照らしていた。
だが、地下区画へ降りれば、そこには別の種類の夜が残っていた。
記録。
残留熱。
魔導流の乱れ。
監視映像。
緊急遮断ログ。
壊された隔壁の切断面。
そして、攫われた者が最後に立っていた位置。
ゼルク・ツァイスは、ラクリモーサを研究施設外縁へ待機させたあと、ノクターンと共に地下区画へ入っていた。
同行しているのは、ビスマス公、コバルト、クラヴィス、ユリウス。
ボスヤスフォート本人は首相府から遠隔で各種資料と照合している。
「動くな」
最初に言ったのはビスマス公だった。
「現場を荒らすな。
踏み跡ひとつ、熱ひとつ、乱れひとつで設計思想は読める」
クラヴィスが鼻を鳴らす。
「毎度ながら、神経質だな」
「だからマイトは嫌いなのだろう、君のような手合いが」
「違いない」
だがクラヴィスも、そこで無闇には動かなかった。
この老人がこういう時に冗談を言わないことくらい、もう理解している。
地下監視室では、施設側の記録担当が青い顔のまま、残った映像を復旧していた。
農業施設としての外周カメラ。
搬送路。
地下入口。
温室側の広角監視。
いずれも一部は破壊されているが、完全には死んでいない。
「さすが研究施設だな」
ゼルクが低く言う。
「戦うことより、記録することに金を使っている」
「研究が専門ですから」
記録担当スタッフが緊張した声で答える。
ユリウスはすでに端末へ寄り、復旧された映像ログを自分の側へ引き寄せていた。
「外縁カメラの時系列を前後三分拡張。
地下搬送路との重複点を出してください」
「は、はい」
映像が切り替わる。
裂ける温室。
霧。
白い残像。
翼めいた六枚のバインダー。
正面から受けず、横へ抜け、上へ跳び、また降りる機体。
コバルトの目が細くなった。
「……速い」
「速いだけではありません」
ノクターンが静かに言う。
いつものように声は低い。
だが今は、ただの感想ではない。
見ているのは映像の外にある意図だ。
「この機体、逃げるための軌道ではありません」
ユリウスが目を上げる。
「どういう意味です」
「奪って離脱するための軌道です」
ノクターンはモニタの白い残像を見つめたまま続ける。
「接敵位置が毎回、護衛ではなく搬送路と人の位置に対して最短です。
破壊は最低限。
進路を切り裂くだけで、追撃の角度には執着していない。
最初から“持って帰るもの”が決まっている動きです」
クラヴィスが舌打ちする。
「やっぱり施設じゃなく、シオン狙いだったか」
「施設も目的の一部でしょう」
ユリウスが言う。
「ですが優先順位は、兄上の方が上だった」
ビスマス公が別のモニタへ近づいた。
そこには、白い機体の側面が一瞬だけ鮮明に映っている。
細い。
異様なほど無駄がない。
綺麗であることが、かえって気味が悪い。
コバルトが映像を止める。
「胸部、肩、首筋……見て」
ゼルクが目を凝らす。
ノイズ混じりの映像の中に、白銀の装甲を這うような細い赤い筋が見える。
「血管みたいだな」
「ええ」
コバルトの声は少し硬かった。
「あの機体おそらく、本来の想定よりファティマ側が無理をしている」
監視室の空気が少しだけ張る。
記録担当スタッフが、おそるおそる振り向いた。
何が問題なのか、技術の細部まではわからないのだろう。
だがその一言に、現場の空気が変わったことだけはわかった。
「無理?」
クラヴィスが問う。
コバルトは映像を指で示す。
「応答が速すぎるの。
速いのに、返しの滑らかさが少しだけ足りない。
本来ならファティマ側の演算余裕がもっと必要な軌道を、無理に埋めている」
ビスマス公が低く付け加える。
「出力も上げすぎだ。
まだテスト運用という通信の割に、機体側の要求が重い」
ユリウスが、止まった映像の白い機体を見つめた。
「あのMH・・・カデンツァに似ている。
……ですが、似せただけではここまでにはならない」
「何だと?」
ビスマス公の声が、珍しく強くなる。
ユリウスは迷ったあと、静かに言った。
「……意匠に、ジョー・フミオっぽい色が見えます」
一瞬、部屋の空気が止まる。
コバルトが低く言う。
「まさか。そんな……」
ビスマス公の顔から表情が消えた。
消えたまま、もう一度映像へ顔を寄せる。
「似せただけではない」
ユリウスは続けた。
「あの細身の構成、回避前提の間接設計、刺突角度の取り方……
知っていて寄せている。
あるいは、同じ設計者です」
「フォン・ジョー・フミオ……」
ゼルクが呟いた名に、クラヴィスが横目を向けた。
「知っているのか」
「ルカ・アルノの旧騎体、MHカデンツァの設計者だ」
それだけで充分だった。
監視室の何人かが息を呑む。
クラヴィスの口元がわずかに歪む。
「嫌な繋がりだな」
「嫌で済めばいいですが」
ユリウスはすでに別の映像へ切り替えている。
白い機体が最後に離脱した方向。
霧の流れ。
ガラス片の飛散。
脚部の踏み込み。
残留熱の痕跡。
ノクターンがモニタから一歩下がった。
「この機体、直線的には逃げていません」
「どういうことだ」
ゼルクが問う。
ノクターンは一枚の地図へ視線を移す。
「一度、山の尾根側へ振っています。
追跡を散らすためです。
ですが完全に痕跡を消すつもりなら、もっと別の切り方をする。
……これはむしろ、見せても良い痕跡の残し方です」
クラヴィスが眉をひそめる。
「わざと?」
「半分は」
ノクターンは静かに答えた。
「追わせるため。
もう半分は、再度この施設へ来る前提での離脱です」
ユリウスが顔を上げる。
「再襲撃?」
「あるいは占拠」
ノクターンの目が細くなる。
「攫ったのはシオン・ハルトマン一人。
ですが、研究成果の全てが彼の頭の中にあるわけではありません」
ユリウスの片眼鏡の奥で、目が冷たく光った。
「そうです。
兄上一人では、あの地下遺跡の復旧は足りない」
ビスマス公が腕を組む。
「ならば、向こうはまた来る」
「来るでしょう」
コバルトが映像を睨んだまま言う。
「しかも次は、もっと腰を据えて」
クラヴィスが吐き捨てるように言う。
「守る側に回るか、追う側に回るか。
選べってことだな」
「両方です」
ノクターンが即答した。
その声に、ゼルクは横目で彼女を見る。
静かだが、迷いがない。
「追跡は私が拾えます。
現場に残った踏み込み、熱、破片、運用思想。
追えるところまで追います」
「行けるのか」
「行きます」
ただの応答ではない。
自分の役目を知った者の返事だった。
ボスヤスフォートからの通信が、その時割り込んだ。
『ノクターンの分析を採用する。
研究施設は囮になる可能性が高い。
だが囮にするだけで終わらせるつもりはない』
ゼルクが端末へ向き直る。
「首相閣下」
『ゼルク。
お前は追う側だ。
だが追うためには、相手が再度ここへ来る前提も飲み込め』
「承知した」
『クラヴィス、ユリウス。
施設防衛と追跡準備を同時進行だ。
ビスマス、コバルトは機体分析を続けろ』
全員が短く応じる。
通信が切れたあと、監視室には再び機械音だけが残る。
だがそれは、さっきまでの混乱の音ではない。
追う側が、追うべきものの輪郭を掴み始めた時の音だった。
ゼルクはモニタの白い機体を見る。
細い。
速い。
嫌なほど綺麗だ。
そして、かつての誰かの影を引きずっている。
「……待っていろ」
誰へ向けた言葉でもなかった。
機体へか。
その向こうにいるはずの誰かへか。
あるいは、まだ名をはっきりと口にしたくない相手へか。
ノクターンは何も言わず、ただその横顔を見ていた。
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血族の拠点は、地下であるくせに妙に静かだった。
岩盤を削り、古い遺構を飲み込み、近代的な設備だけを継ぎ足したような、どこにも属さない空間。
明るすぎない照明。
磨かれた床。
無機質な机。
その中央に、無造作に一枚の金属板の写真が置かれていた。
その前に、シオン・ハルトマンは座らされている。
拘束はされていない。
だが自由でもない。
椅子も、机も、照明も、全部が“逃げる必要のない対話”を装っていた。
シックスは向かい側に腰を下ろし、楽しげにその顔を見ていた。
「僕だけ攫っても意味がない」
シオンは冷たく言った。
攫われた直後とは思えないほど声は整っている。
だが整っているだけで、揺れていないわけではない。
「研究施設に残した膨大なデータが必要だ。
あれを日々分析するのが私の仕事だった。
しかも、まだ道半ばだ」
「ああ」
シックスは薄く笑う。
「知っているよ」
シオンの目が細くなる。
「……何?」
シックスは答える代わりに、机上へ写真を四枚、無造作に広げた。
どれも古い。
金属板を撮影したものだ。
腐食。
超帝国の紋章。
幾何学文様。
いずれもシオンの居た研究施設で見てきたものに似ている。
似ているが、同一ではない。
「ファロスディー・カナーン超帝国・・・」
シオンの片眼鏡の奥で、目が揺れた。
「我々も、似たような遺跡をいくつか押さえている」
シックスの声は平坦だった。
平坦だからこそ、それが真実かハッタリか判別しにくい。
「自惚れていたのかい?」
シックスは微笑む。
「超帝国の遺産を求めているのは、自分たちだけだと思ったか?」
シオンは写真を見たまま動かない。
頭の中では、すでにいくつもの可能性が走っている。
紋章の配置。
金属板の保存状態。
劣化の癖。
刻印の流れ。
自分の施設で見た断片と共通する様式。
もし本物なら、少なくとも別のピースだ。
「パズルのピースは一つじゃない」
シックスが続ける。
「そして、鍵は一人の頭の中に全部入るほど小さくもない」
シオンの喉がわずかに鳴る。
「……断片を持っているだけでは意味がない」
やや遅れて、彼は言い返した。
「相互参照と位相照合が必要だ。
知識は量ではなく、接続の仕方で価値が決まる」
「その通り」
シックスはあっさり頷いた。
「だから君が要るんだよ」
その言葉は、研究者に向けられた承認としてはあまりにも甘かった。
シオンは顔を上げる。
そこには、喜びも、安心もない。
あるのは最悪の理解だけだ。
この男は自分の知識そのものではなく、知りたがる部分を見ている。
「施設ごと押さえるしかない」
シオンは言った。
「私一人では足りない。
発掘断面、未整理ログ、施設内の隔離資料、位相照合用の中間記録。
それらが必要だ」
「なるほど」
シックスは机に肘をついた。
「それは、“今すぐ攻め落とせ”という助言かな?」
シオンはそこで初めて、少しだけ間を置いた。
言いすぎた。
そう気づいても遅い。
だが、ここで引くのも不自然だ。
「欲しいのが成果なら、そうだと言っている」
「施設の防備は固くなるよ」
「あなたは、それでもやる人間だ」
シックスの唇がわずかに歪む。
「買いかぶりかな」
「違う」
シオンは低く言う。
「あなたは“知りたい”側じゃない。
“奪えるか”で動く側だ」
その返しに、シックスは少しだけ楽しそうに目を細めた。
「そうかもしれない」
そして一枚の写真を指先で弾く。
「でも君は、“知りたい”側だ」
シオンは答えない。
答えなくても、それが事実であることだけは伝わる。
中央は、自分を重要だと言った。
だが全体は見せなかった。
血族は危険だ。
だが、目の前に別の断片を並べた。
どちらも信用できない。
なのに、どちらも無視できない。
その揺れを、シックスは見ている。
「待つのは嫌いじゃないよ」
彼はそう言った。
「追ってくる者がいるなら、なおさらね」
シオンの目が動く。
ユリウス。
研究施設。
戻ると信じたい。
信じるには、自分はもう少し弟という人間を知らない。
だが、それでも。
シックスはその小さな揺れまで見逃さない。
「安心するといい。
追う者が来るかどうかも含めて、次でわかる」
その声の薄さが、ひどく嫌だった。
待つ者。
追う者。
どちらが先に辿り着くか。
その答えはまだ出ていない。
出ていないからこそ、夜はまだ終わらない。
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研究施設の監視室で、ノクターンが最後の映像を止めた。
白い機体。
六枚羽。
霧。
残像。
そして、離脱の角度。
「追えますか」
ユリウスが問う。
ノクターンは静かに頷く。
「完全ではありません。
ですが、追うには十分です」
ゼルクが地図の上へ指を置く。
「行くぞ」
その声は、もう迷っていなかった。
遠く離れたどこかでは、シオンが待たされている。
別の意味で。
そしてここには、追う準備を終えた者たちがいる。
追う者。
待つ者。
そのあいだで、夜だけが静かに深くなっていくのだった。