ラクリモーサの帰還は、表向きには静かなものだった。
研究施設襲撃から半日も経たぬうちに、
帝都の整備記録には簡潔な一文だけが追記された。
――MHラクリモーサ、霧中戦闘に伴う各部点検のため、一時帰還。
念のためのオーバーホール実施。
それだけだ。
表向きには、古く重い名機が、無理な追跡で少しばかり軋みを見せた。
だから工房へ戻した。
よくある話でしかない。
だが、首相府地下の作戦会議室に集められた顔ぶれは、
その一文が単なる整備報告ではなく、ひとつの“嘘”でもあることを知っていた。
長机の中央に並ぶのは、前夜の交戦記録だった。
研究施設の残存監視映像。
外周温室の破断面写真。
霧の平野でラクリモーサが記録した熱源ログ。
ノクターンが拾った気圧変化と音響解析。
そして、敵MHアグヌスの装甲片の顕微資料。
ボスヤスフォートは席に着かず、卓の端に立ったまま言った。
「始めろ」
真っ先に口を開いたのはレオードだった。
「前回の交戦記録と施設襲撃時の映像を照合した結果、
白いMH――アグヌスは、単独行動機ではありません。
霧の発生と地形利用が、偶然で片付く水準ではない」
「具体的には?」
クラヴィスが腕を組んだまま問う。
レオードは記録板を一枚めくる。
「研究施設周辺の湿度推移、気流の偏差、そして平野部での霧の濃度。
自然発生にしては、出方が都合よすぎます。
加えて、アグヌスの離脱経路は埋設地形を知っている者の切り方です」
ユリウスが静かに補足した。
「霧は“溜まった”のではなく、“溜められた”と見た方がいい。
それに、地下遺跡の上を避けるように敵の足跡が散っている。
地中構造を知らなければ、ああはなりません」
「水と土地、か」
ボスヤスフォートの声は低い。
「ええ」
レオードは頷く。
「新しい血族の幹部の中に、
水流や水圧、水蒸気操作に長けた者がいるという報告があります。
また別に、土地や埋設構造の把握に異様な能力を持つ者がいる、という話も」
クラヴィスが顔をしかめた。
「舞台ごと作ったわけだ」
「その可能性が高い」
レオードの言葉に、会議室の空気が少しだけ硬くなる。
敵は強い。
それだけではない。
戦場そのものを、自分たち向けに“調律”してくる。
そこへ、ノクターンが静かに言った。
「ですが、それでも痕跡は残ります」
全員の視線が彼女へ向く。
「霧の中であっても、MHの巨体が動けば風は乱れます。
湿気を溜めた者がいたなら、その“溜め方”にも癖が出る。
次に来る時、同じ手なら見失いません」
その声音には、前夜の迷いがもう混じっていなかった。
ゼルクは横目でノクターンを見る。
彼女は視線を返さず、卓上の記録写真だけを見ている。
それで充分だった。
ビスマス公が、破片資料の一つを指先で弾いた。
「問題は霧だけではない」
小さな白銀の破片。
アグヌスの装甲片だ。
「軽い」
コバルトが眉を寄せる。
「なのに、面圧への耐え方が妙にいい。
層を持ってるわね」
「多層中空構造ですな」
ビスマス公が低く続ける。
「しかも、ただ軽くしただけではない。
潰れても、全体剛性を殺しきらん。
荷を守る箱の思想を、そのまま異常な精度で高級化したような設計だ」
クラヴィスが鼻を鳴らした。
「悪趣味だな」
「まったくだ」
ビスマス公の返答は即座だった。
「中身を守るための構造だけはやたら優秀。
だが、その“中身”が何であれ、設計者は壊れ方まで数式に押し込めたがっている」
その言い方に、ユリウスが顔を上げる。
「……ジョー・フミオ」
会議室が静かになった。
ビスマス公はしばらく黙っていた。
それから、古い記憶に触れるように言った。
「フォン・ジョー・フミオは、数学を愛していた。数式を愛していた。
この世で計算を使って処理できないものはない、と、あやつは本気で信じておったよ」
コバルトが小さく息をつく。
「……らしい話ね」
「だから、機体の美しさについて語る時のあやつはひどく饒舌だった。
強度も、重量も、出力も、応答も、すべては式の上で美しく並ぶべきだと考えていた」
そこでビスマス公の目が冷える。
「だが、わしは昔から気に食わなかった。
あやつは、式に収まらぬものまで式へ押し込めようとする。
合わせるのではない。合わせさせる設計を好んだ」
ユリウスが止まった映像を拡大する。
白い六枚羽。
細身の胴体。
関節の入り方。
実剣の収まり方。
「MHカデンツァに似ている……ですが、似せただけではここまでにはならない」
「何だと?」
ゼルクが反応するより早く、ビスマス公が低く問うた。
ユリウスは一拍だけ迷い、それでも言った。
「……意匠に、ジョー・フミオっぽい色が見えます」
一瞬、空気が止まる。
コバルトが思わず声を上げた。
「まさか。そんな……」
「似せただけではない」
ユリウスは視線を落とさない。
「知っていて寄せている。
あるいは――同じ設計者です」
ビスマス公はゆっくりと目を閉じた。
「……あやつだな」
断言ではない。
だが、それで充分だった。
レオードが次の記録板を差し出す。
「さらに、ファティマ側の負荷です」
コバルトが身を乗り出す。
映像の中のアグヌス。
胸部から首筋、肩の付け根へと這うように走る赤い脈。
最初は薄い。
だが戦闘が長引くほど濃くなる。
「あのMH、本来の想定よりファティマ側が無理をしている」
コバルトの声は冷静だった。
だが、その冷静さの底に怒気がある。
「応答が速すぎる。
速いのに、追従の滑らかさが足りない。
足りない分を、ファティマが無理に埋めてるのよ」
さらに映像を見て、とうとう堪えきれなくなったように吐き捨てた。
「あのMH、ファティマ側に無理をさせすぎだ!
設計者は何を考えている?!
コントロールしきれてないじゃないか!!」
ビスマス公が低く付け足す。
「カメオに合わせた機体ではない。
少なくとも、最初に置かれた想定値は別にある」
ゼルクの表情が険しくなる。
ノクターンは何も言わない。
だが、その沈黙は“理解した”という意味で十分に重かった。
ボスヤスフォートがそこで、卓上の資料を一枚引いた。
「結論は一つだ」
全員が顔を上げる。
「敵は再び来る」
誰も異を唱えなかった。
レオードが補足する。
「シオン・ハルトマン一人だけでは、遺跡解析は足りません。
発掘断面、復旧ログ、未整理資料、地下区画そのもの。
血族が狙うなら、次は施設ごと押さえに来る可能性が高い」
「守るしかないか」
クラヴィスが言う。
「ただ守るだけでは足りん」
ボスヤスフォートはすぐに切った。
「守る。
だが、守るために相手の欲しがる形を整える」
クラヴィスの眉が上がる。
「餌にするのか」
「一部は退避させる。
一部は残す。
農業施設としての偽装はそのまま。
あくまで“重要だが守り切れていない”顔を維持する」
レオードが続ける。
「地下区画の中でも、敵が食いつきやすい資料層を選別します。
本当に重要な中核データは移す。
残すものは、餌としての価値を持つ程度に整える」
「随分と性格が悪い」
クラヴィスが呟く。
「そうしなければ食われる」
ボスヤスフォートは平然としていた。
「かわいい猫にも爪はある。
きれいな薔薇には棘がある。
能ある鷹は爪を隠す」
そこで一度だけ、ゼルクが目を上げる。
「ラクリモーサは?」
「帰還させた」
レオードが答える。
「表向きにはオーバーホール中です」
「表向き、か」
ノクターンが静かに言う。
「実際には伏せます」
ボスヤスフォートが短く頷いた。
「研究施設に常駐させれば、あの連中は察知する。
だから置かない」
「だが必要な時には落とす」
ビスマス公が老人らしい嫌な笑みを浮かべる。
「瞬間移動ですか」
「座標が生きていればな」
ボスヤスフォートは言った。
「農業施設の送電設備を偽装に使う。
表向きは温室維持と土壌制御。
実際には、転移用の外部供給を通す」
クラヴィスが小さく息を吐く。
「つまり、向こうには“ラクリモーサはしばらく戦えない”と思わせておいて、
必要な瞬間だけ戦場へ落とすわけか」
「そうだ」
「好きだねえ、そういうの」
「好きでやっているわけではない」
「だろうな」
その短いやり取りのあと、レオードが一枚の案を卓上へ置いた。
「あとは、一案として、ですが
デコース・ワイズメルを前線から呼び戻し、研究施設防衛に――」
会議室の空気が凍った。
クラヴィスが真顔のまま固まり、ユリウスの片眼鏡がわずかにずれる。
コバルトが本気で嫌そうな顔をする。
ゼルクですら、反応に一拍遅れた。
「まさか」
クラヴィスが先に言った。
「騎士団団長の、あのデコースか?」
「たしかに危険です。でも非常に腕は立つ」
レオード自身が、提案しながら即座に補足する。
「戦力としては過剰です。
しかもあの男は、帝国に義理はあっても義務はないと言いかねない。
守りに置く札ではありません」
ビスマス公が吐き捨てた。
「それは治療ではなく劇薬だ」
「却下だ」
ボスヤスフォートも即断した。
一瞬だけ場をざわつかせるためだけに出てきた名前は、そこで綺麗に消えた。
だが、その一言だけで、今この場がどれだけ追い詰められているかは充分皆に伝わった。
ユリウスが、議題を引き戻すように口を開く。
「兄上の時間稼ぎに期待します」
ゼルクがそちらを見る。
「持つと思うか」
「完全には落ちません」
ユリウスの返答は静かだった。
「知識欲は刺激されているでしょう。
ですが、まだ……兄は、私を切っていない」
その一言には、弟としての願望も、研究者としての観測も、両方が混ざっていた。
ボスヤスフォートはそれを否定しない。
「ならば、その時間を使う」
会議はそこから実務へ移った。
送風設備をどう使うか。
霧を裂くための熱源配置。
地下区画の移送先。
どこまでを本物とし、どこからを囮とするか。
ラクリモーサを落とす座標。
アグヌスの六枚羽に対して、何秒のズレで噛むべきか。
ノクターンは風と音から接近角を拾い、コバルトはアグヌスの負荷限界を予測し、
ビスマス公はジョー・フミオならどういう再調整をかけるかを逆算する。
そしてゼルクは、最後までほとんど喋らなかった。
喋らなかったが、途中で一度だけ言った。
「次は捕まえる」
それだけだった。
だが、その一言にノクターンは静かに頷いた。
返事はしない。
ただ、それで十分に“主従”だった。
夜が深くなる頃、血族の拠点では別の静けさが流れていた。
シオン・ハルトマンは、同じ机に座ったままだった。
目の前には、超帝国の紋章が刻まれた金属板の写真。
その一部はたしかに本物だ。
全部が本物かどうかはわからない。
わからないからこそ、気になってしまう。
シックスは向かい側で、その揺れを見ていた。
「考えてくれたかい」
「考える材料が足りない」
シオンは即答した。
「私の頭の中にあるのは断片だ。
施設の地下に残した資料、遺構の位相、未整理の復旧ログ……
それがなければ先へ進めない」
「なるほど」
シックスは楽しそうに笑う。
「なら次は、施設ごと貰おうか」
シオンはその顔を見た。
この男は、脅しているのではない。
本気で、そう言っている。
だが、シオンの中にもまだ一本だけ残っているものがあった。
ユリウス。
来るか。
来ないか。
信じるに足る弟だったか。
わからない。
わからないから、まだここで完全には落ちない。
シックスはその迷いごと飲み込むように、写真を一枚指で弾いた。
「追う者がいるなら、なおさら面白い」
薄く笑う。
「隠し持っているのは、君たちだけじゃない。
だから次は、もっと大きく取りに行こう」
その声が、静かな地下室に落ちる。
帝国は牙を隠した。
血族もまた、札を伏せた。
次に開くのはどちらか。
そして、どちらの牙が先に喉へ届くか。
答えはまだない。
だが、次の夜が近いことだけは、誰にも否定できなかった。