新しい血族の地下拠点で、シックスはいつものように穏やかな声で言った。
穏やかであることと、言っていることの性質の悪さは、まるで別の話だった。
「派手に咲けば、皆そちらを見る。
そうすれば実は、その陰で静かに摘める」
机上には、山間の研究施設の見取り図。
地上の温室棟、地下搬送路、第三保管層、旧遺跡へ繋がる未整理区画。
そして、赤で引かれた侵入想定線が幾本も走っている。
巴が地図を見下ろし、口元だけで笑った。
「白い子は花、ってわけね」
「うん」
シックスは軽く頷く。
「彼は目を引く。
実によく出来ている。
だからこそ、派手に散らせてなんぼだ」
ひどい言い草だった。
だが、その場の誰も否定しない。
少し離れた位置で、ルカは壁にもたれて腕を組んでいた。
その隣に立つカメオは、白い指先で手袋の縁を整えている。
表情は静かだ。
静かであることと、聞こえていないことはやはり別だった。
シックスは二人の方を見もしない。
「巴。
表は任せる。
DRには霧を厚く。
テラには地下の“通る場所”だけを教えろ。
全部は要らない。
こちらが欲しいのは、全部ではないからね」
巴が肩をすくめる。
「花だけじゃなく、ちゃんと実も摘んでくるわ」
「お願いするよ」
シックスはそこでようやくルカへ視線を向けた。
「君は騒がしくしてくれればいい。
派手に、綺麗に、ね」
ルカは何も答えなかった。
答えなくても、命令は命令だ。
ただ、その横でカメオだけが薄く、ほんのわずかに目を伏せた。
研究施設は、前回の襲撃痕をまだ完全には消しきっていなかった。
裂けた温室の一部は仮補修。
割れたガラスは入れ替えられたが、骨組みの歪みだけは残る。
一見すれば、地方の大型農業施設が慌ただしく修繕を進めているだけに見える。
そう見せるために、あえて痕を残している部分すらあった。
だが、中身は違う。
地下区画では、重要資料の移送がすでに終わっている。
中核となる断片ログと位相照合記録は別経路で退避済み。
その代わり、あえて残された資料棚がある。
見れば飛びつきたくなる程度には価値があり、しかし本当の鍵ではないものたち。
守るのではなく、噛ませる。
その発想を形にしたのが、今夜の研究施設だった。
クラヴィスは地上棟の監視端末前で腕を組み、外周の配置を見ている。
ユリウスはその横で、地下搬送路の映像と気流制御設備の状態を照合していた。
「送風塔、南北とも起動確認」
ユリウスが言う。
「温室側熱源も待機状態。
霧を流し込まれても、局所的には裂けます」
「局所的、ね」
クラヴィスが鼻を鳴らした。
「前回みたいに、全部真っ白にはされないってことか」
「ええ。
ただし相手も学習してきます。
完封は期待しない方がいい」
「十分だ。
見えりゃ噛める」
言い方が完全に獣だったが、今夜に限っては正しい。
ユリウスは一度だけ、机端に置かれた片眼鏡を押し上げる。
その視線が、兄シオンの作業席へ一瞬だけ落ちた。
整然とした机。
積まれた復元ログ。
書き込みの癖。
昨日まで確かにそこにいた人間の気配だけが、今夜はいない。
クラヴィスがちらりと見る。
「……まだ考えてるか」
「当然です」
ユリウスはすぐに視線を戻した。
「兄上なら、あの状況でも時間を稼いでいる。
そう考える方が自然です」
「信じてるな」
「信じたい、が近いですね」
その返しに、クラヴィスは少しだけ口元を動かした。
だが、そこで余計な慰めは言わない。
今夜必要なのは感傷より、手の届く現実だ。
地上では、偽装された農業設備が静かに唸りを上げていた。
送風機。
熱源炉。
配水調整機構。
どれも本来は温室維持や土壌試験のためのものに見える。
だが今夜に限っては、霧を裂き、敵を炙り出す牙でもある。
レオードからの通信が入る。
『外周偵察、異常なし。
ただし、山肌側の湿度上昇が予定より早い。来ます』
クラヴィスが短く返す。
「わかってる。
静かすぎた」
ユリウスが、別の端末に視線を移す。
「ラクリモーサ側、座標固定完了です」
それだけで十分だった。
表向きには、ラクリモーサは帰還している。
整備庫でオーバーホール中。
少なくとも外から見れば、そうでなければならない。
だが本当は違う。
必要な時だけ戦場へ落とす。
それが今夜の、帝国側が隠した牙だった。
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最初の異変は、水の匂いだった。
まだ雨は降っていない。
だが、山の空気が急に重くなる。
温室のガラス表面に、じわりと薄い湿りが這った。
「来ます」
ユリウスが言うより早く、施設の外周警報が鳴った。
霧だ。
前回と同じく、谷の方から白いものが這い上がってくる。
だが今回は、それだけでは終わらない。
地表を滑った霧が、風に逆らうように温室群のあいだへ入り込み、溜まるべきでない場所へまで厚く居座り始めた。
クラヴィスの目が細くなる。
「自然じゃない」
「ええ」
ユリウスが即答する。
「湿度制御。
前回より、もっと露骨です」
「DRか」
その名を口にした時点で、もうただの霧ではない。
同時に、外周フェンスの一角が沈んだ。
地盤が割れたわけではない。
割れる場所だけを、最初から知っている者の崩し方だった。
山肌沿いの通路が、まるでそこだけ“通っていい場所”だったかのように開いていく。
「テラまで動いてる……!」
ユリウスの声に、わずかな緊張が混じる。
前から読んではいた。
だが、実際に来られるとやはり質が悪い。
血族は人を奪うだけではなく、舞台ごと整えて踏み込んでくる。
クラヴィスが端末を叩いた。
「南送風塔、起動!
温室三区画、熱源開放!」
次の瞬間、農業施設の穏やかな顔が一枚剥がれる。
温室群の側面ルーバーが一斉に開き、強風が噴き出した。
同時に、土壌維持用を装っていた熱源設備が局所的に火を入れ、白い霧の一角だけがぐしゃりと崩れる。
見えた。
黒い影が三つ。
いや、四つ。
血族の実働部隊だ。
真正面から来ているように見える。
「引っかかったな」
クラヴィスが笑った、その時だった。
逆側の搬送路でも警報が鳴る。
「二手?!」
「違います」
ユリウスの声が鋭くなる。
「正面は囮。
地下搬送路の方が本命です!」
クラヴィスの笑みが消える。
「最初からこっちの餌を見抜いてやがる……!」
血族の実働は、まるで研究施設の“どこが一番守られたがっているか”を試すように、複数箇所へ同時に圧をかけてきた。
正面から押し込む者。
地下へ回る者。
そして、どこにもいないようでいて、まだ姿を見せない“花”がある。
巴が、まだ出てきていない。
それが一番嫌だった。
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一方、山の陰。
霧の厚い場所で、巴は静かに施設を見ていた。
送風塔が動く。
熱源が入る。
地上の守備が正面へ寄る。
地下搬送路への対応も早い。
そして何より、肝心の重MHがまだ出てこない。
「……やっぱりいるわね」
誰へともなく呟く。
DRが霧の端で舌打ちした。
「風を割る設備まで仕込んできたか」
「当然でしょ」
巴は笑う。
「でも、その程度で止まるなら、私たちここまで来てない」
彼女は後ろを振り返らず、低く命じた。
「白い子、出して」
霧の中で、何かの駆動音が低く鳴った。
最初は一つ。
だがすぐに、その音が霧と水気に反射し、幾重にも重なる。
聞く者によっては、もう一機いると錯覚するだろう。
巴は口元だけで笑う。
「さあ、咲いて」
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施設側の監視端末が、一瞬だけノイズに走った。
次の瞬間、温室棟の中央ガラスが、内側からではなく外側から斬り裂かれる。
ガラス片が霧の中を白く踊り、その向こうに、白銀の機影が浮いた。
六枚のバインダー。
細身の肢体。
白い。
異様なまでに白い。
「アグヌス……!」
ユリウスの片眼鏡の奥で、目が鋭くなる。
前回より整っている。
前回より、明らかに動きが滑らかだ。
調整中のはずの機体が、もうここまで来ている。
白い機体は、その場で止まらない。
温室骨組みを足場に一気に跳び、地上区画から地下搬送路へ至る最短線へ身体を滑り込ませる。
正面から護衛用のパワードスーツが迎撃に入るが、アグヌスは受けない。
横へ流れ、上へ抜け、斜めから実剣で膝関節だけを断つ。
一撃。
護衛機がその場で崩れる。
「くっ……!」
クラヴィスが思わず一歩出る。
だが彼の役目は機体戦ではない。
今ここで前へ出れば、指揮が死ぬ。
その時、ユリウスが短く言った。
「まだです」
「何?」
「まだ早い。
あの機体は、こちらが“もう切る”と思う瞬間を待っています」
つまり向こうも、こちらの伏せ札を読みに来ている。
ラクリモーサが出るか、出ないか。
出るならどこに落ちるか。
巴のやり方だ。
そして、その裏にいるシックスのやり方でもある。
白い機体が、再び跳ぶ。
今度は地下搬送路入口の直上。
そこへ六枚羽が半ばまで開き、霧を裂きながら加速した。
護衛隊の声が飛ぶ。
「押さえきれません!」
「地下へ入らせるな!」
「三班、左から回り込め!」
雑音のように重なる声の中で、クラヴィスは唇を噛んだ。
ここで切らなければ、噛まれる。
だが切れば、向こうも何かを読む。
その逡巡を断ち切ったのは、ユリウスだった。
「次です」
「……ああ」
クラヴィスが低く応じる。
彼の指が、隠匿回線の起動鍵へ触れた。
その瞬間、施設の地下深く、誰にも見えない別系統の魔導回路が立ち上がる。
表向きには温室用蓄電設備。
実際には、たった一度だけ戦場へ札を落とすための供給網。
施設全体が、ほんの一瞬だけ震えた。
アグヌスがそれに気づく。
いや、気づいたのはコクピットのルカか、あるいはカメオか。
白い機体が、ほんのわずかだけ動きを止めた。
霧が割れる。
地上でも地下でもない、空間そのものが一瞬だけ軋み、光る。
「まさか――?」
ユリウスが息を呑む。
温室棟の上空。
霧のただ中。
そこへ巨大な影が、落ちてくる。
転移光。
空間を縫い止める魔導の閃き。
そして、古く重く、黒鉄の威容をそのまま叩きつけるように、巨大なMHが戦場へ姿を現した。
「テレポーテーション……!」
巴の目が細くなる。
白いアグヌスの前に、黒鉄の怪物が着地する。
重い。
ただ重いだけで、周囲の霧が吹き飛ぶ。
泥が跳ね、温室骨組みが軋み、農業施設の偽装が戦場へ変わる。
クラヴィスが、ほとんど吠えるように言った。
「来たか、ラクリモーサ!」
白と黒。
六枚羽と古き怪物。
そしてその向こうで、まだ見えぬ主従たちの呼吸が、次の一撃のために噛み合おうとしていた。
――戦場は、ここから本番だった。