落ちてきたラクリモーサは、着地だけで戦場の霧を吹き飛ばした。
白銀六枚羽のアグヌスが空を裂くように浮かぶのに対し、
黒鉄の古き怪物は、地そのものへ爪を立ててそこに居座る。
白き天使か。黒き戦車か。
その答えを出すには、もう十分すぎる舞台が整っていた。
「来たかよ……!」
アグヌスのコクピットで、ルカが歯を剥く。
だがその声音には、忌々しさだけではない別の熱も混じっていた。
「来ると思ってたよ、先輩!」
応じるように、ラクリモーサが巨体を前へ出す。
その半歩後ろで、ノクターンの声が静かに響く。
「マスター、正面。
六枚羽、上段二枚の開きが速い。加速を優先しています」
「わかった」
ゼルクの返事は短い。
一瞬後、アグヌスが消えた。
いや、消えたように見えた。
六枚羽を半ばまで開いた白い機体は、温室骨組みと霧の切れ目を踏み台にして横へ、
上へ、斜めへと跳ぶ。
その軌道に引きずられるように、三つ、四つ、五つの残像が走る。
「パラレルアタック!」
クラヴィスの叫びが地上から飛ぶ。
だがラクリモーサは追わない。
ゼルクはむしろ一度沈み込み、黒い機体の重さを地面へ預けた。
「ノクターン、こちらのダメージは?」
「転移衝撃による軽微な軸ズレのみ。
ですが左腕下部サブシャフト破損、左腕出力三%低下。
それでも、まだ油圧補正は効きます」
「……よし。まだ行けるな」
「はい、マスター」
そのやり取りの直後だった。
白い影の一つが、今度は正面からではなく、下からすくい上げるように斬り込んでくる。
ゼルクは受けず、刃の腹で流した。
火花が散る。
「そのMH、かなり眠ってたみたいだけど、マイスターの整備は万全かい?!」
霧の向こうでルカが笑う。
「余計なお世話だッツ!」
「なら良いけどさぁ。あとで屁理屈で負けた理由にするなよ。先輩!」
「……まだそこを引きずっているのか」
ラクリモーサが重心を変える。
ノクターンの分析で残像の癖が見え始めていた。
五つに見えても、本命の一つだけは必ず霧の流れを押し返す。
その“風”を、ノクターンは拾っている。
「右上。
次は踏み込みが深いです」
「了解」
ゼルクが剣を振り上げた瞬間、アグヌスの白刃がそこへ噛んだ。
重い。
だが白い機体の押し込みは、前回より明らかに滑らかだった。
「カメオ、各部関節の状態は?」
ルカの問い。
「マイスターの調整が効いてます。今回は万全です」
「よし、行けるな!」
「はい、マスター」
その“はい”が、ゼルクの胸へ妙に刺さる。
戦場における主従の呼吸。
それはかつての家の空気に似ているようでいて、まるで違う場所に立っている。
ルカが一度退いた。
退いたと思わせて、次の瞬間、斬撃が来る。
遅い。
いや――違う。
来ると見せた刃が、ほんの半拍だけ“遅れて”本命の軌道へ乗っている。
「くそ! ディレイアタックまで! いつの間に身につけた?」
ゼルクの目が見開いた。
「男子三日会わざれば、ってね!」
ルカが笑う。
だがその笑いの底にあるのは、ただの余裕ではない。
見せていなかった札を、ついに切った者の熱だ。
本命の一撃がラクリモーサの肩装甲を削る。
重い黒鉄が悲鳴を上げるが、倒れない。
「……そうか」
ゼルクが低く言う。
「おまえ、先輩相手に出す札を選んでいたな」
「当然だろ!」
今度はアグヌスが真横へ抜ける。
パラレルアタックで角度を散らし、ディレイアタックで間をずらす。
位置も時間も狂わせる。
それが今のルカの戦い方だった。
だが、ノクターンもまた、前回と同じではない。
「マスター。
影の切れ目が浅い。
本命は左――いえ、足運びが変わりました。
次は内へ巻き込みます」
「読んだ」
ラクリモーサが踏み込む。
重い。
だがその重さがあるからこそ、一度間合いへ入れば逃がさない。
黒い巨体が白い機体へ肩から圧をかけるように迫り、アグヌスの軌道を殺した。
「なっ……!」
ルカの声が揺れる。
「今の足運び――やはりまだ、癖が消えていない」
ゼルクの刃が、白い機体のバインダー基部を掠めた。
一枚が弾かれ、六枚羽の開閉に僅かな狂いが出る。
アグヌスが退く。
その退き方に、初めて明確な“押された”色が出た。
クラヴィスが地上で唸る。
「よし……噛んだ!」
ユリウスも息を詰めている。
研究施設全体が、今度こそ白い機体を押し返しつつある。
誰の目にも、流れは帝国側へ傾いたように見えた。
アグヌスの動きが、ほんの少しだけ鈍る。
「カメオ、各部関節の状態は?」
今度のルカの問いには、さっきより焦りが混じる。
「……まだ保ちます」
一拍、遅れた。
「各部追従、許容範囲。
ですが、出力変換が少し――」
そこでカメオが小さく息を飲む。
誰にも聞こえないほど小さく。
けれどルカにはわかった。
口元。
唇の端に、ほんの細く赤いものがにじむ。
「カメオ……?」
「大丈夫です」
彼女はすぐに言った。
あまりにも早く、あまりにも静かに。
「まだ行けます。
マスターに勝利を」
だが、その“まだ”の細さが、ルカの背筋を冷やした。
その瞬間、ラクリモーサがさらに一歩前へ出る。
ノクターンが今度は明確に攻勢へ転じていた。
「右脚応答遅延。
マスター、次で詰められます」
「ルカ!」
ゼルクの声が、戦場のど真ん中で真っ直ぐ飛ぶ。
「投降しろ。今ならまだ捕虜として丁重に扱ってやる」
霧が一瞬だけ止まった気がした。
ルカは笑った。
だがその笑みは、いつもの軽口より少しだけ荒れている。
「おいおい。なにを今更。
既におれは戦略拠点を一個ぶっ潰してるんだぜ?」
「騎士団に戻してやったって良い!」
「黙れ」
即答だった。
即答でありながら、その声には熱がありすぎた。
「ルカ……」
「……もう戻れない」
白い機体の奥で、ルカの目が揺れる。
「もう昨日には帰れない。
何より俺は、あんたたちを許さない」
そこで一拍、息が詰まる。
「そして――自分を許せないんだ!」
その叫びに近い声と同時に、アグヌスが最後の踏み込みを見せた。
だが、もうゼルクもノクターンもそれを外さない。
黒い刃が白い残像の中から本命を叩き出す。
アグヌスの肩が大きくぶれ、六枚羽のうち二枚が明確に追従を失う。
「勝負ありだな」
クラヴィスが低く言った。
誰が見ても、アグヌス劣勢だった。
ルカの切り札は見せきった。
カメオの音声も微かに乱れ始めている。
ラクリモーサはなお重く、なお前に出ている。
巴から敵側通信が飛ぶ。
『引け! これ以上は無駄だ!』
ルカは舌打ちした。
「……チッ」
アグヌスが大きく後退する。
今度こそ、誰の目にも“撤退”だった。
「逃がすか!」
ゼルクが追おうとする。
だがノクターンが一瞬だけ警告する。
「深追いは」
「わかっている!」
それでもラクリモーサが一歩出る。
白い機体の背が霧へ沈む。
クラヴィスも、ユリウスも、現地守備隊も、そこでようやく息をついた。
押し返した。
守った。
少なくとも今夜は、血族を退けた。
誰もがそう思った。
だが・・・
その安堵を、最初に破ったのは地下区画からの報告だった。
『第三保管層……封印扉、異常!』
ユリウスの顔色が変わる。
『搬出記録にない物品が一つ、消えています!』
「何だと?」
クラヴィスが振り向く。
次々に走る報告。
第三保管層。
未整理資料区画。
戦闘に紛れた短時間侵入。
抜かれたのは、派手なルシェミ関連の主資料ではない。
むしろ、誰もが価値を後回しにしていたような、
妙に厚く、妙に古く、
だが“ルシェミ研究の文脈にはどうしても綺麗に収まらない”一片だった。
ユリウスが低く呟く。
「……そんな。
あれは兄上ですら、意味づけに困っていた断片のはずだ」
クラヴィスの拳が強く握られる。
「正面が囮か……!」
地上では今なお霧が薄く流れている。
アグヌスは押し返した。
ラクリモーサは戦った。
誰もが白い花を見ていた。
その陰で、実は摘まれていた。
ゼルクはアグヌスの消えた方角を見たまま、ゆっくりと目を細めた。
勝ちかけた。
だが、勝っていない。
「……シックス」
その名を呼んでも、返事はない。
だが、返事がないこと自体が、あまりにもあの男らしかった。
血族の拠点へ戻った巴は、派手な勝利報告などしなかった。
ただ、細いケースを一つ、机へ置く。
金属板ではない。
だが中に収められている断片は、古く、重く、そして場違いなほど静かだった。
シックスはそれを見て、薄く笑う。
「ご苦労」
「白い花は、ちゃんと咲いてくれたわ」
巴が肩をすくめる。
「帝国中の目を引くには十分だった」
シックスはケースを開き、収められた一片をちらりと見た。
ルシェミの資料群に紛れていた、どうにも居心地の悪い鍵。
だが、彼には最初からそれで十分だった。
「案の定、白い花は散りはじめ、
帝国は無駄にエネルギーと人材を消費した」
その声音は、どこまでも穏やかだ。
ルカは少し離れた位置で、その言葉を聞いていた。
アグヌスから降りたばかりの体には、まだ戦闘の熱が残っている。
カメオは黙っている。
唇の血はもう拭われていた。
「……つまり」
シックスは断片から目を上げる。
「今回の作戦は、我々の大勝利だ」
その“帝国”の中には、当然、ゼルクたちだけではない。
ルカもまた、その残滓として雑に数えられている。
なんて嫌らしいのか。
そして、それをわかってなお、誰も今すぐには何も言えない。
シックスは満足そうにケースを閉じた。
「次は、もっと面白くなる」
誰へともなくそう言って、笑う。
その笑みの向こうにあるものが、ルシェミではないことを、
まだこの場の誰も知らない。
ただ一つだけ確かなのは、
白と黒の戦いは、まだ始まったばかりだということだった。