会談から三日後。
ボスヤスフォートは、いつも通り執務室にいた。
巨大な窓の向こうに広がる帝都の景観は静かだった。
人々は歩き、車列は流れ、商隊は規則正しく行き交い、兵は巡回し、役人は書類を運ぶ。
国家は動いている。
秩序は生きている。
そのすべてを眺めながら、彼は一枚の報告書を机上に置いた。
「出たか」
側近が一礼する。
「はい。西方辺境、第七補給線にて物資輸送隊が襲撃されました。生存者証言によれば、襲撃者は三名。いずれも正規軍装ではなく、顔を隠し、高い身体能力を示したとのことです」
「被害は」
「兵站物資の焼却、護衛兵の半数死亡、現地徴発予定であった若年層数十名の失踪」
「……若年層?」
「はい。年齢はおおむね十代前半から二十代前半。選別があった形跡があります」
ボスヤスフォートの口元が、わずかに動いた。
笑ったのではない。
獣が獲物の匂いを確信した時の、冷たい納得に近い。
「始めたか」
側近は沈黙した。
主君が何を意味しているのか、理解していたからだ。
新しい血族。
国家に旗を揚げて正面から挑む軍ではない。
版図もなければ拠点も定かでなく、補給線も見えず、宣戦布告すら不要とする。
ある日突然、村が消える。
研究者が消える。
兵站が焼かれる。
優秀な若者だけが攫われる。
無能な地方官だけが見せしめのように惨殺される。
目的は征服ではない。
破壊でも、単なる愉悦でもない。
選別。
それがいちばん厄介だった。
反乱軍であれば、補給路を断てばいい。
侵略者であれば、前線を敷けばいい。
だが、選別者は違う。
彼らは土地ではなく、人間そのものを獲物にする。
ボスヤスフォートは椅子にもたれた。
「西方だけか」
「いえ。北方の学術区でも似た失踪が発生。加えて南部工業帯で、反政府色の強い労働暴動が急拡大しています。背後関係は未詳。ただし……」
「ただし?」
「暴動の発端となった流言が、異様に洗練されています。既存の不満を増幅しつつ、現地行政の最も脆い点だけを正確に突いている」
「なるほど」
シックスが自ら全ての現場にいる必要はない。
それどころか、いない方が厄介だ。
思想が拡散し、行動原理だけが先に走り、国家の内部から腐食が始まる。
彼は最初から、軍団長ではなく病原体に近かった。
「命令を」
側近が言う。
ボスヤスフォートは少し考え、即答した。
「討伐軍は出すな」
「は?」
珍しく、側近が動揺した。
「ですが」
「だからこそだ」
ボスヤスフォートは指先で机を一度叩いた。
「討伐軍を出せば、相手は消える。
正規軍は看板が大きすぎる。
動いた瞬間、狩りが狩りとして成立しなくなる」
「では、治安部隊を……」
「それも半端だ。
あれは盗賊でも地方反乱でもない。
人間の不満を餌に、優秀な個体を拾い集め、弱い統治単位を噛み千切っている。
正面から叩いても意味がない」
彼は立ち上がり、窓辺へ歩いた。
「まずは逆に餌を撒く」
「餌……?」
「噂を流せ」
ボスヤスフォートは振り向かないまま言った。
「中央研究院に、超帝国期遺物の解析記録が再集積されていると。
その中には、純血のダイバー適性を人工的に増幅する資料が含まれている、と」
側近は息を呑んだ。
「そんなものを流せば、本当に寄ってきます」
「だから流す」
「危険です」
「承知の上だ」
声音が平板だった。
だからこそ、その決意の冷たさが際立った。
「シックス個人は、己を上位種と認識している。
だが新しい血族全体は、選別と更新を至上命題にしている。
ならば、種の更新に資する餌には必ず反応する」
「……罠ですか」
「違うな」
ボスヤスフォートはそこでようやく振り向いた。
「篩だ。」
数日後。
噂は地下へ落ちた。
公文書には残らぬ会話。
酒場の隅で交わされるひそひそ話。
研究員の不用意な漏洩。
輸送予定の不自然な変更。
護衛増強の形跡。
しかし増強しすぎない兵力。
守っているように見えて、守りきれていない脇の甘さ。
全部が計算だった。
国家が本気で隠そうとしている時、人は近づかない。
だが国家が“隠しきれていない”時、人はそこに真実を嗅ぐ。
だからこそ、新しい血族に情報は届いた。
そして、来た。
襲撃は夜半だった。
中央研究院外縁の搬送路で、護衛隊が一瞬で沈黙した。
閃光も爆音もない。
ただ、見張りの喉が裂け、照明が落ち、通信が途切れ、十数人いた兵のうち半数が悲鳴を上げる間もなく倒れた。
まるで、闇そのものが人を選んで刈り取っていくようだった。
搬送車両の脇に、黒い影が立つ。
若い。
男とも女ともつかぬ痩躯。
だが眼だけが異様に澄んでいる。
「開けろ」
その一言で、生き残った兵の一人が膝をついた。
強制でも催眠でもない。
もっと原始的な、格の違いによる服従。
兵士が震える手で封印を外しかけた、その瞬間。
「そこまでだ」
声が降った。
静かな、よく通る男の声。
研究院の高所回廊、その暗がりから、ボスヤスフォートが姿を現した。
外套の裾を揺らし、まるで夜の見物にでも来たかのような足取りで。
襲撃者は顔を上げた。
生き残った兵士たちは、逆に息を呑んだ。
誰も、この場に彼自身が来るとは思っていなかったからだ。
「首相……!」
「下がれ」
その一言で兵たちは引いた。
命令というより、場の支配そのものだった。
黒衣の襲撃者が笑う。
「噂は本物だったわけだ」
「半分はな」
「半分?」
「お前たちが釣れる、という部分がだ」
闇がぴんと張る。
襲撃者の眼が細くなる。
若い。だがただの末端ではない。
新しい血族の中でも、ある程度の格を持つ個体。
その程度のことはボスヤスフォートには一目で分かった。
「シックスは来ていないな」
「あなたごときに、わざわざ王が出ると?」
「来ないだろうな。
あれは慎重だ。
自分が出る価値のない場面には出ない」
その言い方に、襲撃者の口元が歪んだ。
「王を理解した口ぶりだ」
「会ったからな」
それだけで十分だった。
襲撃者の殺気が一段階深くなる。
目の前の男は、ただの統治者ではない。
王と対話し、生かして帰し、その上で逆探知のようにこちらへ網を張ってきた。
「なら、なおさら殺す価値がある」
「そうか」
次の瞬間、襲撃者が消えた。
いや、人の目では追えない速度で間合いを詰めた。
爪のようにしなった指先が、ボスヤスフォートの喉元を裂こうとする。
だが、届かない。
空間そのものが歪んだかのように、襲撃者の軌道がわずかに逸れる。
指先は外套の縁を掠めただけで空を切った。
「……!」
「遅い」
ボスヤスフォートの声と同時に、床面から幾何学的な光が走った。
魔導陣。
いや、ただの拘束陣ではない。
精神波と運動ベクトルを同時に乱す、多重制御の封域。
襲撃者の体が一瞬だけ硬直する。
そこへ、目に見えぬ圧が落ちた。
骨ではない。
神経でもない。
もっと内側――ダイバーとしての感応野そのものを掴まれ、握り潰されるような感覚。
襲撃者が膝をついた。
「が……っ!」
ボスヤスフォートは近づきもせず、その様子を見下ろした。
「新しい血族。
なるほど、質は高い。
選別の結果というのも嘘ではないらしい」
「……貴様……!」
「だが、まだ甘い」
彼は続けた。
「お前たちは国家を嫌う。
制度を嫌う。
群れを嫌う。
だが、国家というものを軽く見すぎている」
襲撃者が睨み返す。
「腐った檻だ」
「その腐った檻が、何億もの人間を、何百年も生かし、飢えさせ、戦わせ、従わせ、夢を見せ、絶望させてきた」
声は静かだ。
叫びはない。
熱もない。
それなのに、そこにあるのは圧倒的な現実感だった。
「お前たちは人を個としてしか見ない。
強いか弱いか。
残す価値があるかないか。
だが国家は違う。
国家は愚者も臆病者も怠け者も抱え込んだまま動く。
その総体がどれほど厄介か、まだ理解していない」
襲撃者は苦痛に歯を食いしばりながら、それでも笑った。
「だから何だ……。
そうやって群れを温存するから、人類は腐る……!」
「そうかもしれんな」
ボスヤスフォートはあっさり認めた。
「だが、腐った木でも森にはなる。
お前たちは一本一本の木しか見ていない」
「……!」
「シックスに伝えろ」
その名が出た瞬間、襲撃者の目が揺れた。
ボスヤスフォートは一歩だけ近づいた。
「私はもう、お前たちを“思想”としては見ない。
災厄として処理する。
使える部分は利用し、導線は断ち、協力者は炙り、選別網は破り、拠点なきまま干上がらせる」
襲撃者が低く唸る。
「できるものか……!」
「できるさ。
お前たちは神出鬼没だ。
だが、神ではない。
人間を欲し、才能を欲し、情報を欲し、機会を欲する以上、必ず地上に降りる」
そして、ほんのわずかに微笑む。
「降りたところを狩る」
その瞬間、拘束陣が解けた。
襲撃者は咄嗟に後退し、闇の中へ飛び退った。
なぜ逃がすのかという疑問が、生き残った兵士たちの顔に浮かぶ。
ボスヤスフォートは追わなかった。
ただ一言。
「逃がせ」
兵士たちは凍りついた。
「ですが!」
「追えば消える。
逃がせば帰る。
帰れば尾がつく」
その理屈の冷たさに、誰も二の句が継げない。
闇の向こうへ消えた新しい血族の気配を感じながら、ボスヤスフォートは確信していた。
これは一度の勝ち負けではない。
首は取れない。
今はまだ。
だが、相手もまた理解したはずだ。
国家は鈍重でも、眠い巨獣でもない。
本気で狩ると決めた統治者は、軍ではなく制度そのものを牙に変える。
同時刻。
遠く離れた廃都の地下区画で、シックスはその報告を聞いていた。
逃げ帰った血族は膝をつき、悔恨と屈辱を押し殺すように頭を垂れている。
「……そう」
シックスは短く言った。
怒りはない。
失望もない。
ただ、少しだけ楽しそうですらあった。
「面白いね」
血族が顔を上げる。
「王……申し訳――」
「いや、いい」
シックスはくすりと笑った。
「彼は本当に、君主としての仕事を始めたわけだ。
僕を“理解した上で”殺しに来る。
それはなかなかできることじゃない」
「ですが、我々の導線を読まれています。今後は……」
「うん。しばらくは動線を切ろう。
大きな回収も停止。
地方煽動も、目立つものは一旦捨てる。
代わりに――」
シックスの目が、ふっと細くなる。
「彼の国家が、抱え込まずにはいられない“愚者”を使おう」
「……!」
「彼は賢い。
だから優秀な者の動きは読める。
でも国家は優秀な者だけでは動かない。
怨恨、嫉妬、保身、出世欲、信仰、劣等感。
そういう濁ったものも、全部抱え込む。
なら、そこから腐らせればいい」
血族は息を呑んだ。
国家とテロリスト。
統治と選別。
表と地下。
戦場はもう、単純な武力衝突ではなかった。
ボスヤスフォートは、国家を巨大な狩猟具に変え始めている。
シックスは、国家が抱え込む人間の醜さを逆用して、内部から綻びを広げようとしている。
そして、その中心でシックスは静かに笑った。
「いいよ、ボスヤスフォート。
そうでなくちゃ」
指先で顎をなぞり、まるで愉快な遊戯の開始を告げるように、彼は囁く。
「君が本気なら、こっちも本気で国家を壊せる」
一方、帝都の高所回廊では、ボスヤスフォートが夜の空を見上げていた。
逃がした。
あえて帰した。
血の匂いを付けて。
だが、あの災厄もまた簡単には釣られまい。
一度網を見た魚は、次はもっと深く潜る。
それでも彼は、静かに断じる。
「潜れ。
だが、飢えれば必ず上がってくる」
その目に宿るのは、怒りではない。
執念でもない。
国家という怪物を使いこなす者だけが持つ、冷徹な確信だった。
こうして戦いは始まった。
正義と悪の戦いではない。
善と悪ですらない。
世界を盤にして統べる者と、
盤そのものを淘汰の炉に変えようとする者。
施政者と反体制テロリスト。
だがその実態は、
管理された地獄と
選別する地獄の衝突だった。
そしてどちらも、
相手を「ただ倒す」だけでは終わらせる気がなかった。