勝った、とは言いづらかった。
研究施設は残っている。
温室群は一部を破壊され、地下区画も荒らされたが、完全占拠は免れた。
アグヌスは退いた。
白い六枚羽は、黒鉄のラクリモーサに押し返された。
数字だけ並べれば、防衛成功。
報告書の一行目には、そう書ける。
だが、その場にいた誰ひとりとして、勝ち鬨を上げる気にはなれなかった。
裂けた温室の骨組みが、夜明けの冷えた空気の中で軋んでいる。
散ったガラスはまだ完全に回収しきれていない。
焼けた土の匂い、魔導回路の焦げる匂い、負傷した守備隊員が運ばれていく担架の音。
血は流された。
それでも傷口は塞いだはずだった。
なのに、そこに残っている空気だけが、どうしても敗北の手触りを消しきらない。
研究施設地下、臨時の会議室に集まった面々の顔もまた、勝者のそれではなかった。
ボスヤスフォート。
レオード。
クラヴィス。
ユリウス。
ゼルクとノクターン。
ビスマス公。
コバルト。
それぞれに疲労はある。
だが問題は疲れではない。
「……で」
クラヴィスが机へ肘をつかずに、むしろ突っ立ったまま言った。
「結局、何を持っていかれた」
その問いに、即答できる者が誰もいない。
それが、いちばん気味が悪かった。
レオードが報告書をめくる。
「第三保管層の封鎖は破られています。
侵入時間は短い。
搬出された物品は一点。
ただし、主保管のルシェミ関連資料群ではありません」
「違うのか」
ゼルクが低く問う。
「はい」
レオードは視線を落としたまま続ける。
「形式上は“関連保留資料”。
遺跡発掘時に回収された断片群のうち、用途不明、
または主要研究軸へ接続しきれなかったものを一時保管していた区画です」
クラヴィスが顔をしかめる。
「そんなものを?」
「“そんなもの”だからこそです」
ユリウスが口を開いた。
疲れているはずなのに、その声は妙に乾いていた。
「兄上のメモにも、あの断片についての評価は曖昧に残っています。
“古い”“鍵に似る”“式に嵌まらない”――そういう記述ばかりで、
ルシェミ研究の本流とは見なしていなかった」
「シオンですら、か」
ボスヤスフォートが静かに問う。
「ええ」
ユリウスは頷く。
「少なくとも、兄上はそう扱っていました。
重要性を過小評価していた、というより……分類しきれなかったのだと思います」
ビスマス公が鼻で笑った。
「分類しきれぬから脇へ置いた。
研究者らしいと言えば研究者らしい」
「笑い事ではありません」
コバルトが鋭く言う。
「敵はそこだけを抜いていった。
つまり、こちらが“分類できなかったもの”に、向こうは価値を見ていたってことよ」
その言葉に、会議室の空気がさらに重くなる。
そうだ。
血族は、欲しいものだけを持ち帰った。
そのくせ帝国側は、何を持っていかれたのかを、いまだに正しく定義できていない。
クラヴィスが短く息を吐く。
「勝ったなら、もっと勝った気がするはずだ」
誰も反論しない。
前線の守備隊はよく戦った。
研究施設の準備も間違っていなかった。
ラクリモーサ投入のタイミングも見事だった。
ゼルクとノクターンは、アグヌスを確実に押し返した。
なのに、この言いようのない座りの悪さだけが、どうしても残っている。
ゼルクは卓上の戦闘記録から目を離さずに言った。
「アグヌスは次にはもっと仕上がって来る」
話題が少しずれる。
だが、ずれてはいない。
今、目の前にある危機の一つでもある。
「前回より明らかに滑らかだった。
それでも押し返せた。
だが、次は違う」
ノクターンが、その横で静かに補足した。
「次は、こちらが守る場所も、こちらの手の癖も、前提に入れて来ます」
「そして霧も、土地もだ」
レオードが記録板を指で叩く。
「DRの仕込んだ湿度制御。
テラの地形把握。
アグヌスの機動。
巴の現場指揮。
それにシックスの判断。
敵は複数の能力を重ねてきています」
「こちらが一手勝っても、あちらは二手三手で返してくるか」
ボスヤスフォートの声は低かった。
感情を抑えているというより、感情を使う優先順位を後ろへ回している声だ。
ビスマス公が資料の一つを持ち上げる。
「しかも、アグヌスの設計思想はほぼジョー・フミオで間違いない」
その断言に、場の何人かがわずかに目を動かす。
「前回までの“疑い”ではなく、もう充分に状況証拠が揃いました。
意匠、構造、応答の癖、そしてファティマへの負荷配分。
あれはあやつの悪癖だ」
コバルトが不快そうに続けた。
「ファティマ側に無理をさせすぎる。
“合わせる”じゃない、“合わせさせる”。
あんな設計、まともなマイトなら恥ずかしくて表に出せない」
「まともじゃないから出したのだろう」
クラヴィスの皮肉に、今度は誰も笑わなかった。
ユリウスが別の記録へ目を落とす。
「問題はそこだけじゃありません」
彼の指先が、抜き取られた資料の整理番号欄を示す。
「これ、ルシェミ系の通し番号じゃない」
レオードがすぐに端末を引き寄せる。
「……確認中」
数秒。
その短い沈黙の間に、会議室の空気はまた別の色へ変わる。
レオードが顔を上げた。
「一致しました。
保管系統は遺跡断片群。
ただしルシェミの主系列ではありません。
むしろ、初期分類の時点から“保留”へ回されていたものです」
ユリウスの眉間に皺が寄る。
「兄上の仮メモにもある……“変性理論の本流と整合せず”」
「それだな」
ボスヤスフォートが言う。
レオードがすぐに補足しようとしたが、ボスヤスフォートは手で制した。
「待て。断定するな。
わかったのは、“我々が主流と思っていたものではない”ということだけだ」
彼は机上の記録を見回した。
「敵は欲しいものを持ち帰った。
こちらは、何を持って行かれたのかすら定義できていない」
その言い方は冷静だった。
冷静であることが、かえって重かった。
ビスマス公も小さく頷く。
その一言が、会議室の中心へ静かに落ちた。
たしかに血は流された。
損耗もあった。
だが、それらは見える損失だ。
数字にできる。
補充も修理もできる。
いま問題になっているのは、そういう種類の損失ではない。
定義できない。
だから対策も、怒りも、追跡も、すべて一段鈍る。
それが不気味だった。
ボスヤスフォートはしばらく黙っていた。
やがて、はっきりと言う。
「前提を疑え」
その声だけで、全員が顔を上げる。
「我々はルシェミの色眼鏡で遺跡を見ていた可能性がある」
静かな断罪だった。
誰か個人を責めているのではない。
だが、研究施設の幹部も、現場の研究者も、ひいては首相府側ですら、
その前提の上に立っていたことは否定できない。
「遺跡の本質が本当にルシェミだけなのか、再点検しろ」
命令が、ようやく次の方向を向く。
ユリウスがゆっくりと息を吸う。
「……了解しました」
その返事には、弟としての感情と、研究者としての羞恥と、
どちらも少しずつ混ざっていた。
クラヴィスが不満げに言う。
「結局、何もわかっちゃいないってことか」
「違う」
ボスヤスフォートは即答した。
「わかっていなかったことが、ようやく見えた」
その差は大きい。
そう言われれば、そうとしか言えない。
ゼルクは腕を組んだまま、低く問う。
「次はどうする」
「二つだ」
ボスヤスフォートが答える。
「一つ、遺跡そのものの再点検。
もう一つ、血族の再侵攻に備える」
「備える、か」
クラヴィスが呟く。
「また来るのは確定だろうしな」
「来る」
ノクターンが静かに断じた。
「シオン・ハルトマンだけでは足りない。
抜かれた断片だけでも足りない。
向こうは、まだ欲しがっています」
その言い方には、前回の戦闘と、そこで感じたものがすべて含まれていた。
ラクリモーサは押した。
アグヌスは退いた。
だが、向こうはまだ飢えている。
ボスヤスフォートは短く頷く。
「なら備える。
ただし次は“守ったつもりだった”では済まん」
そこに、レオードが控えめに咳払いをした。
「……一つだけ」
「言え」
「黒騎士デコースを戻す案についてですが」
会議室の空気が一瞬だけ変わる。
クラヴィスが眉を上げ、ユリウスが露骨に嫌そうな顔をした。
ビスマス公はため息をつき、コバルトは露骨に顔をしかめる。
「デコース・ワイズメル本人が知れば来たがるでしょうな」
ビスマス公が言う。
「しかも、えらく楽しそうに」
クラヴィスが吐き捨てる。
「そして現場を余計にややこしくする」
「剣の腕は超一流だが、ヤツは使う場を誤れば毒だ」
ボスヤスフォートが淡々と結論づけた。
「現時点では却下だ」
それ以上は伸びなかった。充分だった。
強い札はある。
だが、切れば良い札ばかりではない。
その現実もまた、帝国側の苦さだった。
会議はそこから実務へ移る。
遺跡断片の再分類。
保留資料の洗い直し。
研究施設内部の責任系統再点検。
シオンの過去メモの回収。
次の再襲撃を想定した再配置案。
やるべきことは多い。
だが、ひとつの結論だけは、誰の中にも残っていた。
勝ったのかもしれない。
たしかに敵は退けた。
だが、勝利の余韻はどこにもない。
会議が終わる頃には、空はすでに深い夜へ沈み始めていた。
血族の拠点は、照明の色まで人を油断させるように出来ていた。
明るすぎない。
暗すぎない。
ただ、判断を少しだけ緩ませる程度の静けさ。
その机に向かい、シオン・ハルトマンは腕を組んでいた。
前に座るシックスは、写真を並べてもいない。
資料も広げていない。
ただ雑談めいた口調で言う。
「ところで」
シオンは顔を上げない。
「何です」
「君、前に言っていたね。
ルシェミの本流には嵌まらない妙な断片があったって」
シオンの指先がわずかに止まる。
そのやり取りは、数刻前のことではなかった。
もっと前。
攫われてまだ間もない頃。
苛立ち混じりの雑談の中で、つい口を滑らせた一言だった。
――本流はルシェミですよ。
ただ、妙な断片もいくつかあった。
変性理論の式にどうしても嵌まらない、用途不明の古い鍵みたいなものが。
その時、シックスはたしかに「へえ」としか返さなかった。
だが今こうして話題にするということは、あの瞬間に何かを拾っていたのだ。
シオンはようやく顔を上げる。
「……あれのことですか」
シックスは微笑む。
「うん」
その一音だけで、点と点が線になる。
シオンの片眼鏡の奥で、目がわずかに揺れた。
「あれが欲しかったんですか」
「最初からね」
あまりにも軽い返答だった。
「君たちは皆、ルシェミの色で遺跡を見ていた。
それはそれで自然だよ。
だって、わかりやすいから」
シックスはそこで薄く笑う。
「でも、わかりやすいものほど、目を奪う」
シオンは黙ったまま、その笑みを見る。
わかってしまった。
あの施設で“本命”だと思われていたもの。
皆がそう信じて疑わなかった中心。
その陰に埋もれていた、文脈に収まらない異物。
シックスはそこだけを抜いた。
「点と点が線になったかい?」
楽しそうに問う。
シオンは返さない。
返せない。
自分が何気なくこぼした雑談の一片が、こうして敵の目を光らせたのだとしたら、笑えない。
シックスは別に責めない。
責める必要すらない。
気づいてしまったこと、それ自体が、もう十分な痛みだからだ。
「君はまだ全部を知らない」
その声は柔らかい。
「でも、知らないからこそ、面白いところへ連れて行ける」
シオンの視線が、机上の小さなケースへ落ちる。
中身は見えない。
だが、あれがあの“用途不明の断片”なのだろう。
帝国はまだわかっていない。
研究施設の幹部も、ボスヤスフォートも、ユリウスも、今この瞬間にはまだ届いていない。
あの夜、何が持っていかれたのか。
そして、なぜそれだったのかを。
シックスはケースの上に指を置いた。
「さて」
笑う。
「次は、これがどこへ嵌まるのかを見に行こうか」
静かな声だった。
だが、その静けさの奥には、もっと大きな悪意が眠っている。
定義できない損失は、こうしてようやく形を持ち始めていた。