どこの誰にとっての価値か。
誰の目を通して見た価値か。
そして、それがヒトの命に関わるものであればなおさら、
その重さはひどく歪んで見える。
血族の拠点は、今夜も静かだった。
戦場の熱を引きずった者たちが戻ってきても、壁も灯りも何事もなかったような顔をしている。
だから余計に、この場所の不気味さが際立つ。
中央の机に置かれているのは、小さな保管ケースひとつ。
派手な古文書でも、巨大な遺跡片でもない。
見ようによっては、くだらぬ分類保留品の一つにすら見える。
だが、シックスだけは最初からそれを見ていた。
巴が壁際にもたれたまま言う。
「白い花は、十分に咲いたわ」
その言い方に、少しも罪悪感はない。
むしろ、よく働いた舞台装置を褒める響きすらある。
シックスは薄く笑った。
「そうだね。
皆、ちゃんとそちらを見てくれた」
それだけ言って、彼はケースの縁へ指を置く。
開ける。
中に収められているのは、古びた断片。
金属とも石ともつかぬ質感。
表面には超帝国の紋章系統に似た刻印がある。
ただし、ルシェミ研究で並べられていた資料群の記号体系とは、どうにも噛み合わない。
シオン・ハルトマンは、少し離れた位置からそれを見ていた。
目を逸らさない。
だが、その視線の奥では、いくつもの思考が衝突している。
「……それが」
低く言う。
「それが、本命だったんですか」
シックスは顔を上げるでもなく答えた。
「うん」
あまりにも軽い返事だった。
「派手なものほど目を引く。
でも、鍵はたいてい地味な顔をしている」
シオンの片眼鏡の奥で、目が揺れる。
研究施設にいた時、あれはずっと“本流の外”にあった。
ルシェミの理論体系にどうしても収まらない、扱いに困る古い断片。
重要ではあるのかもしれない。
だが、少なくとも自分の研究の中心には入れられなかった。
だから脇へ置いた。
分類保留。
研究価値は不明。
いつかまとめて再点検すべきもの。
その程度だった。
「見落としていた、という顔だね」
シックスが穏やかに言う。
シオンは、その言葉にすぐには返さなかった。
悔しさはある。
だが、それ以上に気味が悪い。
なぜなら、否定しきれないからだ。
「……見落としていたのは、私だけではない」
やがてそう返す。
「施設の幹部も、本部も、皆同じです。
あの遺跡はルシェミ研究のためのものだと、最初からそういう前提で回っていた」
「それが“色”だよ」
シックスは断片を軽く持ち上げ、灯りに透かすように眺めた。
「人は一度色を決めると、他の色を見なくなる。
ルシェミの色で遺跡を見れば、そこに収まらないものは“異物”になる。
そして異物は、端へ追いやられる」
シオンの指先が、わずかに机の縁を叩く。
「だからと言って、あなた方に協力する理由にはなりません」
「もちろん」
シックスは笑う。
「協力なんて求めていない。
ただ、君はもう“知ってしまった”だろう?」
そこが嫌だった。
知ってしまった。
あの断片は、価値がないのではなかった。
自分の見ていた色に収まらなかっただけだ。
そして、収まらなかったからこそ、別の意味を持っていたのかもしれない。
シオンは視線を落とす。
「……ルシェミではない」
「たぶんね」
「たぶん?」
「断定は好きじゃないんだ。
断定すると、謎の楽しみが減る」
ひどい男だ、とシオンは思う。
こんなものを前にして、なお遊戯の匂いを残していられる。
だが一方で、その遊び方こそが、この男の怖さなのだとも思った。
「君たちは“何に使えるか”で価値を決めた」
シックスは断片をケースへ戻した。
「でも、価値は皆同じじゃない。
どこの誰にとっての価値か。
誰から見た価値か。
まして、それが人の命や心に触るものなら、なおさらね」
シオンが顔を上げる。
その一言だけが、妙に引っ掛かった。
だが、そこを問う前にシックスはもう別の話へ移っていた。
「さて。
これがどこへ嵌まるか。
次はそこを見に行こう」
同じ頃、アグヌスは整備区画で沈黙していた。
六枚の背部バインダーは整備用に開かれ、白い装甲板の一部は外されている。
見た目は変わらず美しい。
だが、美しいまま無理をしていたことは、分解された関節部と駆動系の熱痕が雄弁に語っていた。
ルカは、その白い機体の下で腕を組んだまま立っている。
整備担当のマイスターが、関節部の数値を確認しながら淡々と報告する。
「基部は保ってる。
バインダーの追従も、前回よりはずっといい。
やっぱり調整は効いてるな」
「今までよりも一段上の大技に、耐えられるか?
真空斬りよりも上の技」
ルカは、機体を見たまま聞いた。
整備担当は一瞬だけ手を止めた。
だが、すぐにまた数値へ視線を戻す。
「機体の性能と、ファティマの制御次第で……たぶん、二回から三回までは行けるはずだ」
そこで少し間を置く。
「でも、まあ限度としてはそのくらいだろ」
ルカはすぐに食い下がった。
「確実か?」
整備担当の指先が、今度ははっきり止まった。
「…………」
その沈黙は短い。
だが、短いからこそ嫌な意味を持った。
「技術的には可能だ」
結局、彼はそう言った。
「だが、三発目を打っても無事かとなると……それは別の話だ」
機体が保つか。
制御が追いつくか。
そして、その制御の帳尻を誰が払うのか。
そこまで言葉にしなくても、ルカには充分伝わる。
「わかった」
そう返した声が、自分でも少しだけ硬いと思った。
別室では、カメオのメンテナンスが続いていた。
表向きには休憩。
だが実際には、戦闘負荷の治療とケアだ。
普通の休養では済まない段階に、一歩だけ足を踏み入れている。
担当しているのは若い女性マイト、スピネルだった。
シックスに惹かれ、その背を追ってここまで来た女。
だが、目の前のファティマの負荷を見て、平然としていられるほど軽くもない。
「無茶したわね」
スピネルが言う。
カメオは椅子へ背を預けたまま、いつも通りの薄い微笑を崩さない。
「ええ」
「あれ以上行く気だったの?」
「マスターが望めば」
その即答に、スピネルは眉をひそめた。
「……本気で言ってる?」
「本気も何もありませんわ」
カメオの声音は穏やかだ。
穏やかで、だからこそ余計に冷える。
「私の役目ですもの」
スピネルは返事を飲み込んだ。
この女は、自分がどこまで無理をしたかをわかっている。
そのうえで、平然と“役目”と言う。
そうやって痛みを意味へ変換しないと、立っていられないのかもしれない。
「少しは、隠さず痛がりなさいよ」
小さくこぼす。
カメオは目を細めた。
「見せる必要がありません」
その言葉の裏にあるものまでは、スピネルにもはっきりとは掴めない。
ただ一つ、確かなのは――
このファティマは、弱っていることを誰かに見抜かれるのを、痛みそのものより嫌がっている、ということだった。
しばらくして、扉が軽く叩かれた。
ルカだった。
だが、すぐには入ってこない。
一拍。
その間に、スピネルがカメオを見る。
カメオは首を振りもしない。
ただ、「入れて」とでも言うように静かに目を伏せた。
ルカが入る。
カメオはもう、何事もなかったみたいな顔をしていた。
唇の血も、呼吸の乱れも、外から見える範囲では綺麗に消えている。
「……大丈夫なのか」
ルカが聞く。
遠回しだった。
本当はもっと別のことを聞きたいのだろう。
だが、そこへ踏み込めない。
カメオは穏やかに首を傾げた。
「何がです?」
「戦闘の後だ」
「問題ありません。少し休めば」
その返答が、一番危ない。
ルカは眉を寄せる。
「本当にか」
「本当も何も」
カメオの声は静かだった。
「マスターこそ、お怪我は?」
「俺のことはいい」
「なら、私のこともよろしいでしょう」
その言い方に、ルカはそれ以上何も言えなくなる。
ジルのことがある。
だからこそ、強く問い詰めることもできない。
もし見抜いてしまったら、今度は止めなければならなくなる。
止めれば、戦えなくなる。
その先のことを考えるのが、どこかで怖い。
気づかないふりをしたのか。
それとも本当に見落としたのか。
今のルカ自身にも、まだそこははっきりしていなかった。
「……休め」
結局、それだけ言って背を向ける。
カメオはその背へ、いつものように穏やかに返した。
「はい、マスター」
扉が閉まる。
スピネルは、しばらく無言でその音を聞いていた。
カメオもまた、顔色一つ変えない。
ただ、誰も見ていないところでだけ、指先がかすかに震えていた。
夜の終わり、血族の小さな作戦卓には、次の地図が広げられていた。
研究施設そのものではない。
もっと広い。
遺跡群の位置関係。
地形図。
水脈。
埋設層。
既知の断片。
未知の空白。
DRが地図の一角を指先で叩く。
「次も霧は使える」
テラが別の地点へ視線を落とす。
「地中の癖から見て、まだ潜ってる」
巴は肩をすくめる。
「花は一度咲けば十分よ。
次は根を掘るのね」
シックスは笑う。
「そう。
次は花ではなく、根を掘ろう」
その声は穏やかだった。
だが、その穏やかさの奥には、次のもっと大きな悪意が眠っている。
一方で、少し離れた場所にいるルカは、整備担当の言葉をまだ引きずっていた。
二回から三回。
技術的には可能。
だが、それは別の話。
カメオは平然としていた。
だから大丈夫なのだと、自分に言い聞かせることもできる。
だが、その平然さこそが一番危ないのではないかという嫌な予感も、消えてはくれない。
「……三発目までは、保つんだろ」
誰に聞かせるでもなく、そう呟く。
その声は、自分自身を安心させるためのものに近かった。
だが、言葉にした時点で、それが本当は安心ではなく不安の裏返しでしかないことを、ルカ自身が一番よく知っていた。
見落とされた価値。
見落とされた断片。
見落とされた傷。
そして、まだ誰も名前を与えていない破綻の予兆。
それぞれが静かに、次の戦いの方へと繋がっていく。
誰もまだ、止まらない。